第3話: 黒い涙の魔女
暖かい羊毛、微かに残る母の香り、暖炉で薪が爆ぜる音。
どうやら今日も私は生きているらしい。
実に快適な環境だ。
前世では地下研究棟の仮眠室で眠ることも珍しくなかった。硬い椅子に身体を預け、数時間だけ意識を落とし、再び研究へ戻る。
そんな生活と比べれば、ここは天国である。
問題があるとすれば私は赤ん坊だ。
研究ができない、それくらいのモノだ。
私はマーリン・フォン・アークレイン。
前世では人体解剖学を専門とし、魂の存在を追い続けた研究者だった。
そして私は自らの身体を実験台にして死んだ。
だが気付けば、この世界で赤子として生まれ変わっていた。
この一ヶ月で分かったことは多くない。
父はエヴァンス・フォン・アークレイン。
王国から爵位を賜り、この辺境を治める伯爵。
英雄と呼ばれる男だ。
母はシャーレイ・フォン・アークレイン。
エルフ族の姫君であり、この世界でも指折りの美貌を持つ女性だ。客観的に見ても母が異常なほど美しいことは理解している。
そして私は、そんな二人の長男として生まれた。
貴族、英雄の息子、エルフの血。
研究者としては厄介な肩書きばかりである。
権力は研究資金になる。だが同時に自由を奪う。
前世で嫌というほど学んだ。
まあ、環境を嘆いてもは仕方がない、どんな物にも一長一短があるものだ。
このいかにも典型的な“田舎の貴族”といった家庭だが、これでも伯爵家、使用人もいて、暮らしは悪くないと思う。
伯爵家にしては金が無さすぎるような気もするが
今は利用できるものを利用するだけだ。
そのためにも、この世界を知る必要がある。
私はこの一ヶ月、自分自身を観察し続けていた。
被験体はもちろん自分自身だ。動かない身体でも常に観察できるし、逃げない、文句も言わない、理想的な被検体だ。
そこで判明した事実がある。
この世界の人体は、前世の人類とは決定的に違う。
主に違う所は、骨だ。
骨の内部を流れる奇妙な感覚。
最初は血流かと思った、だが違った。
これは魔力だ。
この世界には魔力という未知のエネルギーが存在する。
そして骨は、その伝導路として機能している。
私は魔力を循環させながら、自らの骨格や筋肉を観察していた。
前世には存在しなかった感覚。
だが理屈は理解できた。
問題は――
体外に放出できないことだ。
父が掌に炎を生み出した光景を思い出す。
あれは間違いなく魔法だった。
だが私は再現できない。
身体の内側を理解しても一向に外側へ出せない。
まるで出口だけが見つからない迷路だ。
(……魂か)
そんな考えが頭をよぎる。
この世界では魂が何らかの器官として機能している可能性がある。
だが証拠がない、情報が足りない。
研究とは観察だ。
観察には行動が必要不可欠である。
しかし私は赤ん坊だ。
手足は満足に動かず、一日の16~18時間を睡眠に奪われる。いっその事ずっと子宮の中でぬくぬくと過ごして居たいと考えてしまうくらいには不便極まりない。
研究者としても大人の男としても地獄だった。
「マーリン」
優しい声が聞こえた。
母だ。
「今日もお話を読んであげるわね」
どうやらもう夜らしい。
暖炉の火が静かに揺れている。
羊毛の毛布は暖かく、微かに母の香りがした。
赤子になってからというもの、時間の感覚は曖昧だ。
食べて、眠って、泣いて。
また食べて、眠る。
それを繰り返しているうちに一日が終わる。
研究者としては中々に苦痛な生活だった。
だが最近、少しだけ楽しみがある。
母の読み聞かせだ。
「今日はね、『黒い涙の魔女』っていうお話よ」
母は一冊の古びた本を開いた。
私は内心で僅かに興味を抱いていた。
童話、前世の私なら鼻で笑っていたかもしれない。
だが今は違う。
神々の存在が語られ、魔法が実在し、エルフすら存在する世界だ。ならば童話もまた、単なる空想ではなく、何かしらの事実を内包している可能性がある。
前世でも神話や伝承から歴史的事実が発掘されることは珍しくなかった。
この世界なら尚更だ。
私は耳を傾けた。
「むかしむかし、深い森の奥に一人の魔女が住んでいました――」
母の声は穏やかだった。
「彼女の名はリゼット。けれどその名を呼ぶ者は、誰もいませんでした。
リゼットの瞳は夜よりも暗く、彼女が泣くと、涙は墨のように黒く地面へ落ちました。その涙が触れた土からは、黒い薔薇が咲き、冷たい風が吹きました。人々はそれを恐れ、彼女を呪いの魔女と呼び、森へ追いやったのです。
けれど本当は彼女の涙は、呪いではありませんでした。
ですが、それに気づく者は誰もいません、ただ一人を除いて。
リゼットがまだ村で暮らしていたころ、彼女は薬師の娘で薬学を学び、森の草花と話し、病を癒やす優しい少女でした。
そんな彼女に、ひとりの青年が恋をしました。
青年の名はアルド。王へ仕える若き騎士でした。剣よりも花を愛し、誰よりもまっすぐな心を持っていました。
「君の瞳は、夜みたいだ」
アルドはそう言って笑いました。
「夜は、ただ暗いだけよ」
「違う。夜は星が見える、月が映える、家族と共に過ごす事ができる、な?暗いだけじゃないだろ?」
その言葉でリゼットは初めて、自分の瞳を好きになれたのでした。
やがてふたりは、愛し合い森の古い泉の前で誓いを立てました。
「どんな運命でも、君を守る」
「どんな運命でも、あなたを信じる」
泉の水面は静かに揺れ、その誓いを映していました。
しかしそんな幸せな時は長くは続きませんでした。ある時王都に、疫病が流行りました。
黒い斑点が肌に浮かび、やがて命を奪う恐ろしい病でした。
王は告げました。
「病の元はあの森の魔女だ。呪いをかけられたのだ」
みんな疫病を恐れ疲弊し、何かにあたらないと壊れてしまいそうでした。そんな中丁度いい標的として魔女と恐れられていたリゼットが選ばれました。
アルドは必死に否定しました。
「王よ、それは違います!彼女は心優しき人です!その様な事は致しません!!」
けれど恐怖は理性を飲み込みます。リゼットは捕らえられ、火刑に処されようとしていました。」
誰もが不安だった、誰もが苦しかった。
だからこそ、誰かを悪者にする必要があった。
その役目を押し付けられたのがリゼットだった。
私は黙って聞いていた。
前世でも似たような事例は数え切れないほどあった。
人は理解できないものを恐れる。
そして恐怖は理性を奪う。
科学者も、政治家も、宗教家も結局は人間だ。
世界が変わっても本質は変わらないらしい。
物語は続く。
「「その夜、牢の中でアルドは彼女に会いました。
「逃げよう。森へ」
リゼットは静かに首を振りました。
「あなたの立場がなくなるわ」
「そんなもの、どうでもいい!」
彼女は、黒い涙を流しました。
「……あなたに、汚れた未来を背負わせたくないの」
アルドは彼女の手を握りしめました。
「約束しただろう。守ると」
リゼットは微笑みました。
「ええ。だから、私があなたを守るの」
そう言うと、彼女はアルドの意識を奪いました。
「ごめんなさい、アルド、でも私今凄い幸せよ?貴方を愛せて良かった」
その夜、処刑の炎は上がりませんでした。
代わりに王都を覆ったのは、黒い薔薇の嵐でした。
城壁も、広場も、すべてが黒い花に包まれました。病は一夜で消え去りましたが、代わりにリゼットの姿も消えていました。
彼女は自らの命と引き換えに、疫病を吸い取り、この世を去ったのです。
暖炉の薪が小さく爆ぜる。
母は静かな声で最後の頁を読んだ。
「それから何年も経ちました」
「森の奥には今も黒い薔薇の咲く泉があります」
「老いたアルドは毎年その場所を訪れました」
「守れなかったな」
「彼はそう呟きます」
「すると風が吹きました」
「黒い薔薇の花びらが舞い」
「泉の水面にリゼットの姿が映ったのです」
「彼女は微笑んでいました」
「もう涙を流すこともなく」
「夜空のような瞳には星が宿っていました」
母の声は優しい。
まるで本当にそこにリゼットがいるかのように。
「アルドの頬を涙が伝いました」
「その涙が地面へ落ちると」
「黒い薔薇の中に」
「たった一輪、白い花が咲いたのです」
「黒い薔薇に囲まれて、ただひとつ。
人々は今も言います。
森には黒い涙の魔女がいる、と。
けれど本当は——」
母は本を閉じた。
「彼女は、誰よりも想い人を愛した、ひとりの少女だったのです。」
静寂。
そして柔らかな笑み。
「おしまい」
私は考える。
物語としては美しい。
非常に美しい終わり方だ。
だが、本当にそうだろうか?
愛する人を奪われた男。
守ると誓った相手を救えなかった男。
その結末が、何故こんなにも穏やかなのだろう。
私は前世で多くの人間を見てきた。
愛、執着、狂気、憎悪、そして復讐。
人間はそこまで綺麗な生き物ではない。
まして、愛する者が理不尽に殺されたのなら。
残された者の心に生まれるのは本当に悲しみだけなのだろうか。
怒りは、憎しみは、世界への怨嗟は、どこへ消えたのだろう。
まるで、そこだけ切り取られてしまっまかのように…。
「どうだった?」
母が微笑む。
当然、答えられない。
赤子だからだ。
だが母は満足そうだった。
「ふふ」
「もう眠そうね」
指先が私の髪を撫でる。
心地良い温もり。
前世では知らなかった感覚だ。
「いい夢を見てね」
額に柔らかな感触が落ちる。
「愛してるわ、マーリン」
意識が沈んでいく。
暖炉の音、母の温もり、柔らかい羊毛、その全てに包まれながら。
私はゆっくりと眠りへ落ちていった。
そして、眠りに落ちる直前。
ふと奇妙な感覚を覚えた。
誰かがいる、そんな気がした。
母でもない、父でもない、ましてや使用人達でもない。
もっと曖昧で不可思議なモノ…。
暖炉の火がふわりと揺れる。
窓の外を夜風が撫でた。
その瞬間。視界の端に、淡い光が浮かんだ気がした。
まるで小さな星のような。
あるいは、誰かがこちらを覗き込んでいるような。
その違和感は次の瞬間には消えていた。
夢うつつの見間違いかもしれない。
そう思いながら私は深い眠りへと沈んでいった。
知らなかったのだ。
その小さな光が。
この世界の根幹に関わる存在であることを。
そしてその出会いがマーリン・フォン・アークレインの運命を大きく動かし狂わす最初の一歩になることを。




