第六話 五秒
タッ、タッ、タッ、タッ。
廊下に足音が響く。
悠太はバットを握りしめたまま、走っていた。
食堂から離れるにつれ、子どもたちの泣き声が遠ざかっていく。
やがて、悠太は足を止めた。
「……はぁ……はぁ……」
静かだった。
さっきまで聞こえていた、床の軋む音がしない。
「…………」
悠太は周囲を見渡した。
廊下には誰もいない。
そのはずだった。
ギシッ……。
目の前で、床が軋んだ。
「……っ!」
悠太が顔を上げる。
そこに――。
何かが立っていた。
「…………え?」
さっきまで、何も見えなかった。
聞こえるのは音だけ。
感じるのは気配だけ。
それなのに今は、はっきりと見えていた。
人間とは思えない姿。
異様に長い腕。
歪んだ身体。
不自然に曲がった首。
その後ろにも、別の何かが立っている。
「…………」
悠太は一歩、後ずさった。
心臓が激しく鳴っていた。
ドクン、ドクン、ドクン。
「……なんやねん……」
声が震えた。
バットを握る手も、小刻みに震えている。
それでも、悠太は無理やり笑った。
「……は、ははっ……」
目の前の妖怪たちは、黙ってこちらを見ている。
悠太は両手でバットを構えた。
「お、お前らな……」
喉が詰まる。
「……なんやねん……」
バットの先が震えていた。
「ここは通さ――」
その瞬間。
ドッ。
「…………」
何が起きたのか、分からなかった。
握っていたバットが、手から離れる。
カランッ……。
金属音が廊下に響いた。
「……え……」
身体から力が抜けていく。
悠太はそのまま床に倒れた。
視界が霞む。
音が遠くなる。
「…………」
ぼやけた視界の向こうで、何かが動いた。
さっきまで目の前に立っていた妖怪だった。
それが、倒れた悠太の顔を覗き込んでいる。
近い。
すぐ目の前に、その顔がある。
(……なん……)
悠太は何かを言おうとした。
けれど、声は出なかった。
視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
そして――。
何も見えなくなった。
* * *
同じ頃。
食堂で結界を維持していたシスターの手が、ぴたりと止まった。
「…………っ」
悠太の気配が、消えた。
シスターは目を見開いた。
何が起きたのか、すぐに分かった。
「…………」
子どもたちは泣き叫んでいる。
「シスター!!」
「怖いよ!!」
シスターは唇を強く噛んだ。
今すぐ悠太のもとへ駆けつけたかった。
けれど、目の前には守らなければならない子どもたちがいる。
彼女は震える手を、もう一度かざした。
子どもたちを囲む結界が、かすかに光を強めた。
「…………っ」
* * *
一方、廊下では。
妖怪が悠太の身体を見下ろしていた。
その肉体は、もう動かない。
しかし、そこにはまだ少年の魂が残っていた。
妖怪が手を伸ばす。
魂を喰らおうとした。
だが――。
「……?」
その手が止まった。
何かに遮られるように、魂へ触れることができなかった。
もう一度、手を伸ばす。
しかし、やはり届かない。
「……なんだ?」
別の妖怪が近づいてきた。
「どうした」
「喰えん」
「……何?」
「こいつの魂に触れられん」
倒れた悠太の胸元。
そこに、小さなお守りがあった。
シスターが渡してくれたものだった。
お守りは、淡い光を放っていた。
その光が、悠太の魂を包んでいる。
「……妙な術が掛かっている」
「壊せんのか?」
一体が手を伸ばす。
しかし、光に触れた瞬間、その手が弾かれた。
「……ちっ」
「もういい。奥にまだいる」
「…………」
「行くぞ」
妖怪たちは悠太の身体から離れた。
そして、食堂へ向かっていく。
その間、わずか五秒。
悠太が死んでから、妖怪たちが再び動き出すまでの五秒間だった。




