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第三十四話 動き出すもの達

呼び出し

* * *

安倍家、本邸。

薄暗い廊下を、一人の本家術師が歩いていた。

その表情には、苛立ちが滲んでいる。

「……ちっ」

男は小さく舌打ちした。

少し前の出来事が、頭から離れなかった。

あの四人の分家。

自分の命令に背き、あろうことか誠人の側についた連中。

そして――

『身分わきまえろや、ポンコツ』

「……くそっ……!」

思い出すだけで腹が立つ。

分家を従わせることなど、これまで当たり前だった。

それなのに。

あの少年は、自分に向かって身分をわきまえろと言い放った。

「……調子に乗りやがって……」

男が拳を握りしめた時だった。

「……こちらです」

案内役の術師が足を止めた。

目の前には、重厚な扉。

「当主様がお待ちです」

「…………」

男の表情が、わずかに強張った。

――コンコン。

「失礼いたします」

扉が開く。

室内には、安倍家当主が座っていた。

その傍らには、上級術師の榊原宗一郎が立っている。

「……来たか」

当主が静かに口を開いた。

「……はっ!」

男は慌てて頭を下げた。

「お呼びでしょうか、当主様」

「……今回の任務について聞きたいことがある」

「…………」

「お前は、調査に同行した分家四名を単独で行動させたそうだな」

「……それは……」

男は一瞬、言葉を詰まらせた。

「調査を効率よく進めるためでございます」

「…………」

「まさか、あのような妖怪が潜んでいるとは……」

宗一郎が口を開いた。

「今回の任務は、二班が連絡を取り合いながら行動するよう通達していたはずだ」

「……はっ」

「単独行動を命じた理由を聞いている」

「……ですから、調査を迅速に進めるために……」

「……それで四名を失ったのか」

「…………!」

男は俯いた。

「……分家の者たちが、もう少し注意深く行動していれば……」

その時。

「……お前」

当主の低い声が響いた。

「……はっ!」

「何か勘違いしていないか?」

「…………?」

当主は静かに男を見据えた。

「分家が何人死のうと、それ自体は問題ではない」

「…………」

「だが、お前の勝手な判断によって、誠人が危険に晒された」

男の表情が強張った。

「……い、いえ! 私は……!」

「……何だ?」

「誠人様は、ご自身の判断で妖怪と交戦されたのであって……!」

「…………」

「私が命じたわけではございません!」

男は必死に弁明した。

「それに、私は撤退しようと……!」

宗一郎が資料を開いた。

「……報告では、お前は戦闘中に分家四人へ、自分を守るよう命じている」

「…………!」

「その後、交戦に加わることなく戦闘不能となっているな」

「……そ、それは……」

「撤退しようとしていたのではなかったのか?」

男は何も答えられなかった。

宗一郎は資料を閉じた。

「……判断を誤ったこと以上に、自らの失態を他者の責任にする姿勢が問題だ」

「…………っ!」

当主が静かに立ち上がった。

「……よく聞け」

「……はっ!」

「お前がどれほど分家を使い潰そうと、私は構わん」

「…………」

「だが、誠人だけは違う」

当主の視線が鋭くなる。

「安倍家の跡取りを、お前の勝手な判断で失うわけにはいかん」

「…………っ!」

「二度と同じ失態を繰り返すな」

「……は、はい!」

「……下がれ」

男は深々と頭を下げた。

「……失礼いたします!」

慌てて部屋を出ていく。

――バタン。

扉が閉まった。

* * *

廊下へ出た男は、大きく息を吐いた。

「……くそっ……」

額には汗が滲んでいた。

しかし、しばらくすると、その表情が怒りへと変わっていく。

「……どいつもこいつも……!」

男は拳を握りしめた。

当主に逆らうことなど、できるはずがない。

宗一郎に言い返すこともできなかった。

だからこそ。

その怒りは、別の場所へ向けられていた。

「……あの分家ども……」

そして、もう一人。

「……誠人……!」

男は歯を食いしばった。

だが、その名を口にした途端、先ほどの当主の言葉が蘇る。

『安倍家の跡取りを、お前の勝手な判断で失うわけにはいかん』

「…………」

男は周囲を見渡した。

誰もいないことを確認すると、再び歩き始めた。

* * *

衰えゆく一族

その頃。

四大家の支配が及ぶ、とある地域。

山あいに古い屋敷が建っていた。

かつては多くの術師を抱え、相応の力を持っていた一族。

しかし、その勢力は長い年月の中で衰え、今では本家の命令に従いながら、かろうじて家を維持

していた。

屋敷の門には、長年修繕されていない傷が残っている。

庭の手入れも、隅々まで行き届いているとは言えなかった。

その門の前に、二人の男女が立っていた。

「……ここね」

女が静かに呟いた。

「ああ」

男が答える。

「かつては、相当な力を持っていた一族らしい」

「……今は?」

「任務で術師を失い続け、家の力も落ちている」

「…………」

「本家からの扱いも、年々悪くなっているそうだ」

女は屋敷を見上げた。

「……それでも、四大家の体制に従っているのね」

「従うしかないんだろう」

男は静かに答えた。

「逆らえば、今度こそ家そのものが潰される」

「…………」

二人は、ゆっくりと門へ向かった。

* * *

屋敷の一室。

向かい合って座る男女。

その奥には、年老いた一人の男性が座っていた。

この家を率いる当主だった。

「……それで」

老人が口を開く。

「わざわざこのような場所まで、何の用ですかな」

男は静かに答えた。

「……単刀直入に申し上げます」

「…………」

「我々に、協力していただきたい」

老人の目が細くなった。

「……協力?」

「はい」

「……何に対してですかな」

男は少し間を置いた。

「……四大家の体制を変えるためです」

室内の空気が、一瞬で変わった。

老人の傍らに控えていた術師たちが、わずかに身構える。

「……ほう」

老人は二人を見つめた。

「随分と危険なことを口にされる」

「……承知しております」

「それが何を意味するか、分かっておられるのかな?」

「……ええ」

男は老人から目を逸らさなかった。

「ですが、このままでは何も変わりません」

「…………」

「本家は分家の命を軽く扱い、任務で命を落としても、代わりを補充するだけ」

老人の眉が、わずかに動いた。

「……それが、今の四大家だ」

男は続けた。

「その仕組みを、変えたいのです」

しばらくの沈黙。

やがて、老人が口を開いた。

「……綺麗事ですな」

「…………」

「長い間、幾人もの術師が同じことを口にしてきた」

老人は静かに目を伏せた。

「しかし、何も変わらなかった」

「…………」

「我が一族も、数え切れぬほどの者を失いました」

老人の声は、淡々としていた。

「息子も、孫も、親族も……本家の命令に従い、命を落としてきた」

「…………」

「そのたびに、立派な働きだったと褒められる」

老人は小さく笑った。

「……それだけです」

女は黙って話を聞いていた。

「悲しむ暇もなく、次の任務が届く」

「…………」

「そして、残された者たちがまた出ていく」

老人はゆっくりと顔を上げた。

「……その繰り返しです」

男は静かに頷いた。

「……だからこそ、変えたいのです」

「…………」

「これ以上、命を使い捨てにするような仕組みを続けさせたくない」

老人はしばらく男を見つめていた。

「……それで?」

「…………」

「あなた方には、その力があると?」

男はすぐには答えなかった。

やがて。

「……今は、まだ足りません」

老人の眉が動く。

「……正直ですな」

「だからこそ、協力していただきたいのです」

「…………」

「すべての四大家を敵に回したいわけではありません」

男は続けた。

「家を守りたい者もいる。今の制度に疑問を抱いている者もいる」

「…………」

「そういう者たちと、力を合わせたいのです」

老人は目を閉じた。

長い沈黙が流れた。

そして――

「……お帰りください」

女が顔を上げる。

「…………」

「我々には、もはやそのような危険を冒す余裕はありません」

老人は静かに告げた。

「これ以上、一族の者を失うわけにはいかないのです」

男は小さく頷いた。

「……分かりました」

「…………」

「突然の申し出、失礼いたしました」

二人は立ち上がった。

その時。

「……一つだけ」

老人が口を開いた。

二人が振り返る。

「……あなた方は、なぜそこまでするのですかな」

「…………」

「ご自身の命まで危険に晒して、何を得ようとしているのです?」

男はしばらく黙っていた。

そして、静かに答えた。

「……陰陽師の在り方そのものを、変えたいのです」

「…………」

「本来、陰陽師は何のために存在していると思われますか?」

老人は眉をひそめた。

「……妖怪から人を守るためでしょう」

「……その通りです」

男は少し視線を落とした。

「……ですが、今は違う」

「…………」

「人を守るはずの陰陽師が、今守っているのは自分たちの立場です」

老人の表情が変わった。

「…………」

「家の名誉、権力、地位……それを守るためなら、平気で人の命を犠牲にする」

「…………」

「守るべき人々の命よりも、家の存続を優先する」

男は老人をまっすぐ見据えた。

「……それでは、何のための陰陽師なのでしょうか」

老人は黙っていた。

男は続けた。

「我々は、分家の待遇だけを変えたいわけではありません」

「…………」

「陰陽師が、本来の使命を果たせるようにしたいのです」

「……理想は分かります」

老人が静かに答えた。

「ですが、あなた方は今の四大家を知らない」

「…………」

「本家の人間が、自らの立場を手放すとでも?」

男は何も言わなかった。

老人は続けた。

「彼らは、自分たちの権力を守るためなら何でもする」

「…………」

「あなた方には、その恐ろしさが分からないのです」

その言葉に、男は少しだけ目を伏せた。

「……いいえ」

「…………?」

「……分かっているつもりです」

そして。

「……私たちも、かつてその頂点にいましたから」

「…………」

老人の表情が止まった。

「……え?」

男は静かに続けた。

「だからこそ、知らなかったでは済まされないのです」

「…………」

「私たちも、あの体制を支えてきた人間です」

その瞬間だった。

老人の手が、ぴくりと震えた。

「…………」

男の顔を見る。

そして、隣に座る女へ視線を移す。

「……まさか……」

老人は目を見開いた。

どこかで見たことのある顔。

聞き覚えのある声。

遠い昔。

四大家の者たちが集まった、あの場所で――。

「……い、いや……そんなはずは……」

老人の呼吸が浅くなる。

「……どうされました?」

男が尋ねた。

だが、老人には聞こえていなかった。

「……そのお顔……」

「…………」

「……その声……!」

老人は震える手を机についた。

「……ま、待ってくだされ……!」

ゆっくりと立ち上がる。

「……あなた方は……!」

次の瞬間。

――ガシャンッ!!

老人の手から湯呑みが滑り落ちた。

「ご当主!?」

控えていた術師たちが、一斉に顔を上げる。

だが、老人は床に散らばった破片を見ることすらしなかった。

「……そんな……!」

老人の顔から、みるみる血の気が引いていく。

「……あなた方は、もしかして……!!」

老人は思わず一歩後ずさった。

「……かつて……!」

声が震えていた。

「……安倍家と蘆屋家を率いておられた……!」

「…………」

「あの、お二方では……!?」

室内が静まり返った。

控えていた術師たちも、驚愕の表情で二人を見つめていた。

男は老人を静かに見返した。

そして。

「……はい」

小さく頷いた。

「――――っ!!」

老人は言葉を失った。

そのまま数歩、後ずさる。

「……な……!」

「…………」

「……なぜ……!」

老人は震える声を絞り出した。

「……なぜ、あなた方ほどのお方が……このような場所に……!!」

かつて四大家の頂点に立っていた二人。

その二人が今、目の前にいる。

しかも。

自らが率いていたはずの四大家を、変えようとしている。

「……し、信じられん……!」

老人は額に手を当てた。

「……あの安倍家と蘆屋家の……!」

男は静かに口を開いた。

「……驚かせてしまい、申し訳ありません」

「……い、いえ……!」

老人は慌てて姿勢を正そうとした。

だが、膝が小さく震えていた。

「……まさか……このような……!」

女が穏やかに声をかけた。

「……どうか、お座りください」

「…………」

老人は二人を見つめたまま、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

男は続けた。

「……私たちは、かつて四大家の頂点に立っていました」

「…………」

「ですが、変えられなかったものがあります」

老人は黙って聞いていた。

「家の利益を優先し、人の命を軽く扱う仕組み」

「…………」

「それが間違っていると分かっていても、変えることができなかった」

男は静かに拳を握った。

「……だからこそ、今度こそ変えたいのです」

女も口を開いた。

「……私たちも、あの体制を支えてきた人間です」

「…………」

「だから、知らなかったでは済まされない」

女は老人をまっすぐ見た。

「私たちには、責任があります」

老人は二人を見つめた。

長い沈黙。

やがて。

「……それほどまでに……」

かすれた声が漏れた。

「……それほどまでに、今の四大家を……」

男は静かに首を横に振った。

「……四大家そのものを憎んでいるわけではありません」

「…………」

「人を守ろうとする術師たちも、大勢います」

「……ええ」

男は続けた。

「ただ、その者たちが自分の意思を捨て、家のために命を差し出すことを当然とされる」

「……その仕組みを終わらせたいのです」

老人は目を閉じた。

「…………」

しばらくして、ゆっくりと口を開いた。

「……お二方のお考えは、分かりました」

25

「…………」

「ですが……」

老人は苦しそうに眉を寄せた。

「……それでも、今すぐに協力をお約束することはできませぬ」

「…………」

「我が一族には、まだ守らねばならぬ者たちがおります」

男は静かに頷いた。

「……承知しております」

「……申し訳ありませぬ」

「謝らないでください」

男は穏やかに答えた。

「それこそ、我々が望んでいることです」

老人が顔を上げる。

「……?」

「家のためではなく、ご自身の意思で決めていただきたい」

「…………」

「その選択を、我々が責めることはありません」

老人は何も言えなかった。

やがて、二人は静かに立ち上がった。

「……突然の訪問、失礼いたしました」

女も頭を下げた。

「お話を聞いていただき、ありがとうございました」

老人は慌てて立ち上がった。

「……お、お待ちください!」

二人が振り返る。

「……せめて、お見送りを……!」

男は小さく微笑んだ。

「……お気遣いなく」

「…………」

「どうか、ご家族を大切になさってください」

老人は深々と頭を下げた。

二人が部屋を出ていくまで、その頭を上げることはなかった。

* * *

屋敷を出た二人は、山道を歩いていた。

「……駄目だったわね」

女が呟いた。

「ああ」

26

「……どうする?」

男はしばらく黙っていた。

「……ほかを当たろう」

「…………」

「一度断られたくらいで、諦めるわけにはいかない」

女は小さく頷いた。

「……そうね」

二人はそのまま歩き続けた。

その背中が、木々の向こうへ消えていく。

* * *

一方、屋敷では。

老人が、二人の座っていた場所を見つめていた。

「…………」

傍らに控えていた術師が口を開く。

「……ご当主」

「…………」

「……本当に、あのお二方なのでしょうか」

老人は静かに目を閉じた。

「……間違いない」

「…………!」

「あの方々を、見間違えるはずがない……」

老人の声は震えていた。

「……まさか、あのお二方が……」

長い沈黙が流れた。

やがて、控えていた術師が尋ねた。

「……本家に報告いたしますか?」

その言葉に、老人はゆっくりと目を開いた。

「…………」

先ほどの男の言葉が、耳に残っていた。

『家のためではなく、ご自身の意思で決めていただきたい』

老人は、自分の手を見つめた。

長い年月。

命令に従うことだけを考えてきた。

逆らわず、疑わず、家を守るために。

そして――

「……いや」

小さく答えた。

27

「……何も聞かなかったことにしろ」

「……承知しました」

老人は再び目を閉じた。

「…………」

先ほどまで震えていた手は、静かに膝の上に置かれていた。

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