第三十三話 新たな報告
呼び出し
* * *
安倍家、本邸。
薄暗い廊下を、一人の本家術師が歩いていた。
その表情には、苛立ちが滲んでいる。
「……ちっ」
男は小さく舌打ちした。
少し前の出来事が、頭から離れなかった。
あの四人の分家。
自分の命令に背き、あろうことか誠人の側についた連中。
そして――
『身分わきまえろや、ポンコツ』
「……くそっ……!」
思い出すだけで腹が立つ。
分家を従わせることなど、これまで当たり前だった。
それなのに。
あの少年は、自分に向かって身分をわきまえろと言い放った。
「……調子に乗りやがって……」
男が拳を握りしめた時だった。
「……こちらです」
案内役の術師が足を止めた。
目の前には、重厚な扉。
「当主様がお待ちです」
「…………」
男の表情が、わずかに強張った。
――コンコン。
「失礼いたします」
扉が開く。
室内には、安倍家当主が座っていた。
その傍らには、上級術師の榊原宗一郎が立っている。
「……来たか」
当主が静かに口を開いた。
「……はっ!」
男は慌てて頭を下げた。
「お呼びでしょうか、当主様」
「……今回の任務について聞きたいことがある」
「…………」
「お前は、調査に同行した分家四名を単独で行動させたそうだな」
「……それは……」
男は一瞬、言葉を詰まらせた。
「調査を効率よく進めるためでございます」
「…………」
「まさか、あのような妖怪が潜んでいるとは……」
宗一郎が口を開いた。
「今回の任務は、二班が連絡を取り合いながら行動するよう通達していたはずだ」
「……はっ」
「単独行動を命じた理由を聞いている」
「……ですから、調査を迅速に進めるために……」
「……それで四名を失ったのか」
「…………!」
男は俯いた。
「……分家の者たちが、もう少し注意深く行動していれば……」
その時。
「……お前」
当主の低い声が響いた。
「……はっ!」
「何か勘違いしていないか?」
「…………?」
当主は静かに男を見据えた。
「分家が何人死のうと、それ自体は問題ではない」
「…………」
「だが、お前の勝手な判断によって、誠人が危険に晒された」
男の表情が強張った。
「……い、いえ! 私は……!」
「……何だ?」
「誠人様は、ご自身の判断で妖怪と交戦されたのであって……!」
「…………」
「私が命じたわけではございません!」
男は必死に弁明した。
「それに、私は撤退しようと……!」
宗一郎が資料を開いた。
「……報告では、お前は戦闘中に分家四人へ、自分を守るよう命じている」
「…………!」
「その後、交戦に加わることなく戦闘不能となっているな」
「……そ、それは……」
「撤退しようとしていたのではなかったのか?」
男は何も答えられなかった。
宗一郎は資料を閉じた。
「……判断を誤ったこと以上に、自らの失態を他者の責任にする姿勢が問題だ」
「…………っ!」
当主が静かに立ち上がった。
「……よく聞け」
「……はっ!」
「お前がどれほど分家を使い潰そうと、私は構わん」
「…………」
「だが、誠人だけは違う」
当主の視線が鋭くなる。
「安倍家の跡取りを、お前の勝手な判断で失うわけにはいかん」
「…………っ!」
「二度と同じ失態を繰り返すな」
「……は、はい!」
「……下がれ」
男は深々と頭を下げた。
「……失礼いたします!」
慌てて部屋を出ていく。
――バタン。
扉が閉まった。
* * *
廊下へ出た男は、大きく息を吐いた。
「……くそっ……」
額には汗が滲んでいた。
しかし、しばらくすると、その表情が怒りへと変わっていく。
「……どいつもこいつも……!」
男は拳を握りしめた。
当主に逆らうことなど、できるはずがない。
宗一郎に言い返すこともできなかった。
だからこそ。
その怒りは、別の場所へ向けられていた。
「……あの分家ども……」
そして、もう一人。
「……誠人……!」
男は歯を食いしばった。
だが、その名を口にした途端、先ほどの当主の言葉が蘇る。
『安倍家の跡取りを、お前の勝手な判断で失うわけにはいかん』
「…………」
男は周囲を見渡した。
誰もいないことを確認すると、再び歩き始めた。
* * *
衰えゆく一族
その頃。
四大家の支配が及ぶ、とある地域。
山あいに古い屋敷が建っていた。
かつては多くの術師を抱え、相応の力を持っていた一族。
しかし、その勢力は長い年月の中で衰え、今では本家の命令に従いながら、かろうじて家を維持
していた。
屋敷の門には、長年修繕されていない傷が残っている。
庭の手入れも、隅々まで行き届いているとは言えなかった。
その門の前に、二人の男女が立っていた。
「……ここね」
女が静かに呟いた。
「ああ」
男が答える。
「かつては、相当な力を持っていた一族らしい」
「……今は?」
「任務で術師を失い続け、家の力も落ちている」
「…………」
「本家からの扱いも、年々悪くなっているそうだ」
女は屋敷を見上げた。
「……それでも、四大家の体制に従っているのね」
「従うしかないんだろう」
男は静かに答えた。
「逆らえば、今度こそ家そのものが潰される」
「…………」
二人は、ゆっくりと門へ向かった。
* * *
屋敷の一室。
向かい合って座る男女。
その奥には、年老いた一人の男性が座っていた。
この家を率いる当主だった。
「……それで」
老人が口を開く。
「わざわざこのような場所まで、何の用ですかな」
男は静かに答えた。
「……単刀直入に申し上げます」
「…………」
「我々に、協力していただきたい」
老人の目が細くなった。
「……協力?」
「はい」
「……何に対してですかな」
男は少し間を置いた。
「……四大家の体制を変えるためです」
室内の空気が、一瞬で変わった。
老人の傍らに控えていた術師たちが、わずかに身構える。
「……ほう」
老人は二人を見つめた。
「随分と危険なことを口にされる」
「……承知しております」
「それが何を意味するか、分かっておられるのかな?」
「……ええ」
男は老人から目を逸らさなかった。
「ですが、このままでは何も変わりません」
「…………」
「本家は分家の命を軽く扱い、任務で命を落としても、代わりを補充するだけ」
老人の眉が、わずかに動いた。
「……それが、今の四大家だ」
男は続けた。
「その仕組みを、変えたいのです」
しばらくの沈黙。
やがて、老人が口を開いた。
「……綺麗事ですな」
「…………」
「長い間、幾人もの術師が同じことを口にしてきた」
老人は静かに目を伏せた。
「しかし、何も変わらなかった」
「…………」
「我が一族も、数え切れぬほどの者を失いました」
老人の声は、淡々としていた。
「息子も、孫も、親族も……本家の命令に従い、命を落としてきた」
「…………」
「そのたびに、立派な働きだったと褒められる」
老人は小さく笑った。
「……それだけです」
女は黙って話を聞いていた。
「悲しむ暇もなく、次の任務が届く」
「…………」
「そして、残された者たちがまた出ていく」
老人はゆっくりと顔を上げた。
「……その繰り返しです」
男は静かに頷いた。
「……だからこそ、変えたいのです」
「…………」
「これ以上、命を使い捨てにするような仕組みを続けさせたくない」
老人はしばらく男を見つめていた。
「……それで?」
「…………」
「あなた方には、その力があると?」
男はすぐには答えなかった。
やがて。
「……今は、まだ足りません」
老人の眉が動く。
「……正直ですな」
「だからこそ、協力していただきたいのです」
「…………」
「すべての四大家を敵に回したいわけではありません」
男は続けた。
「家を守りたい者もいる。今の制度に疑問を抱いている者もいる」
「…………」
「そういう者たちと、力を合わせたいのです」
老人は目を閉じた。
長い沈黙が流れた。
そして――
「……お帰りください」
女が顔を上げる。
「…………」
「我々には、もはやそのような危険を冒す余裕はありません」
老人は静かに告げた。
「これ以上、一族の者を失うわけにはいかないのです」
男は小さく頷いた。
「……分かりました」
「…………」
「突然の申し出、失礼いたしました」
二人は立ち上がった。
その時。
「……一つだけ」
老人が口を開いた。
二人が振り返る。
「……あなた方は、なぜそこまでするのですかな」
「…………」
「ご自身の命まで危険に晒して、何を得ようとしているのです?」
男はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……陰陽師の在り方そのものを、変えたいのです」
「…………」
「本来、陰陽師は何のために存在していると思われますか?」
老人は眉をひそめた。
「……妖怪から人を守るためでしょう」
「……その通りです」
男は少し視線を落とした。
「……ですが、今は違う」
「…………」
「人を守るはずの陰陽師が、今守っているのは自分たちの立場です」
老人の表情が変わった。
「…………」
「家の名誉、権力、地位……それを守るためなら、平気で人の命を犠牲にする」
「…………」
「守るべき人々の命よりも、家の存続を優先する」
男は老人をまっすぐ見据えた。
「……それでは、何のための陰陽師なのでしょうか」
老人は黙っていた。
男は続けた。
「我々は、分家の待遇だけを変えたいわけではありません」
「…………」
「陰陽師が、本来の使命を果たせるようにしたいのです」
「……理想は分かります」
老人が静かに答えた。
「ですが、あなた方は今の四大家を知らない」
「…………」
「本家の人間が、自らの立場を手放すとでも?」
男は何も言わなかった。
老人は続けた。
「彼らは、自分たちの権力を守るためなら何でもする」
「…………」
「あなた方には、その恐ろしさが分からないのです」
その言葉に、男は少しだけ目を伏せた。
「……いいえ」
「…………?」
「……分かっているつもりです」
そして。
「……私たちも、かつてその頂点にいましたから」
「…………」
老人の表情が止まった。
「……え?」
男は静かに続けた。
「だからこそ、知らなかったでは済まされないのです」
「…………」
「私たちも、あの体制を支えてきた人間です」
その瞬間だった。
老人の手が、ぴくりと震えた。
「…………」
男の顔を見る。
そして、隣に座る女へ視線を移す。
「……まさか……」
老人は目を見開いた。
どこかで見たことのある顔。
聞き覚えのある声。
遠い昔。
四大家の者たちが集まった、あの場所で――。
「……い、いや……そんなはずは……」
老人の呼吸が浅くなる。
「……どうされました?」
男が尋ねた。
だが、老人には聞こえていなかった。
「……そのお顔……」
「…………」
「……その声……!」
老人は震える手を机についた。
「……ま、待ってくだされ……!」
ゆっくりと立ち上がる。
「……あなた方は……!」
次の瞬間。
――ガシャンッ!!
老人の手から湯呑みが滑り落ちた。
「ご当主!?」
控えていた術師たちが、一斉に顔を上げる。
だが、老人は床に散らばった破片を見ることすらしなかった。
「……そんな……!」
老人の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……あなた方は、もしかして……!!」
老人は思わず一歩後ずさった。
「……かつて……!」
声が震えていた。
「……安倍家と蘆屋家を率いておられた……!」
「…………」
「あの、お二方では……!?」
室内が静まり返った。
控えていた術師たちも、驚愕の表情で二人を見つめていた。
男は老人を静かに見返した。
そして。
「……はい」
小さく頷いた。
「――――っ!!」
老人は言葉を失った。
そのまま数歩、後ずさる。
「……な……!」
「…………」
「……なぜ……!」
老人は震える声を絞り出した。
「……なぜ、あなた方ほどのお方が……このような場所に……!!」
かつて四大家の頂点に立っていた二人。
その二人が今、目の前にいる。
しかも。
自らが率いていたはずの四大家を、変えようとしている。
「……し、信じられん……!」
老人は額に手を当てた。
「……あの安倍家と蘆屋家の……!」
男は静かに口を開いた。
「……驚かせてしまい、申し訳ありません」
「……い、いえ……!」
老人は慌てて姿勢を正そうとした。
だが、膝が小さく震えていた。
「……まさか……このような……!」
女が穏やかに声をかけた。
「……どうか、お座りください」
「…………」
老人は二人を見つめたまま、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
男は続けた。
「……私たちは、かつて四大家の頂点に立っていました」
「…………」
「ですが、変えられなかったものがあります」
老人は黙って聞いていた。
「家の利益を優先し、人の命を軽く扱う仕組み」
「…………」
「それが間違っていると分かっていても、変えることができなかった」
男は静かに拳を握った。
「……だからこそ、今度こそ変えたいのです」
女も口を開いた。
「……私たちも、あの体制を支えてきた人間です」
「…………」
「だから、知らなかったでは済まされない」
女は老人をまっすぐ見た。
「私たちには、責任があります」
老人は二人を見つめた。
長い沈黙。
やがて。
「……それほどまでに……」
かすれた声が漏れた。
「……それほどまでに、今の四大家を……」
男は静かに首を横に振った。
「……四大家そのものを憎んでいるわけではありません」
「…………」
「人を守ろうとする術師たちも、大勢います」
「……ええ」
男は続けた。
「ただ、その者たちが自分の意思を捨て、家のために命を差し出すことを当然とされる」
「……その仕組みを終わらせたいのです」
老人は目を閉じた。
「…………」
しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「……お二方のお考えは、分かりました」
「…………」
「ですが……」
老人は苦しそうに眉を寄せた。
「……それでも、今すぐに協力をお約束することはできませぬ」
「…………」
「我が一族には、まだ守らねばならぬ者たちがおります」
男は静かに頷いた。
「……承知しております」
「……申し訳ありませぬ」
「謝らないでください」
男は穏やかに答えた。
「それこそ、我々が望んでいることです」
老人が顔を上げる。
「……?」
「家のためではなく、ご自身の意思で決めていただきたい」
「…………」
「その選択を、我々が責めることはありません」
老人は何も言えなかった。
やがて、二人は静かに立ち上がった。
「……突然の訪問、失礼いたしました」
女も頭を下げた。
「お話を聞いていただき、ありがとうございました」
老人は慌てて立ち上がった。
「……お、お待ちください!」
二人が振り返る。
「……せめて、お見送りを……!」
男は小さく微笑んだ。
「……お気遣いなく」
「…………」
「どうか、ご家族を大切になさってください」
老人は深々と頭を下げた。
二人が部屋を出ていくまで、その頭を上げることはなかった。
* * *
屋敷を出た二人は、山道を歩いていた。
「……駄目だったわね」
女が呟いた。
「ああ」
「……どうする?」
男はしばらく黙っていた。
「……ほかを当たろう」
「…………」
「一度断られたくらいで、諦めるわけにはいかない」
女は小さく頷いた。
「……そうね」
二人はそのまま歩き続けた。
その背中が、木々の向こうへ消えていく。
* * *
一方、屋敷では。
老人が、二人の座っていた場所を見つめていた。
「…………」
傍らに控えていた術師が口を開く。
「……ご当主」
「…………」
「……本当に、あのお二方なのでしょうか」
老人は静かに目を閉じた。
「……間違いない」
「…………!」
「あの方々を、見間違えるはずがない……」
老人の声は震えていた。
「……まさか、あのお二方が……」
長い沈黙が流れた。
やがて、控えていた術師が尋ねた。
「……本家に報告いたしますか?」
その言葉に、老人はゆっくりと目を開いた。
「…………」
先ほどの男の言葉が、耳に残っていた。
『家のためではなく、ご自身の意思で決めていただきたい』
老人は、自分の手を見つめた。
長い年月。
命令に従うことだけを考えてきた。
逆らわず、疑わず、家を守るために。
そして――
「……いや」
小さく答えた。
「……何も聞かなかったことにしろ」
「……承知しました」
老人は再び目を閉じた。
「…………」
先ほどまで震えていた手は、静かに膝の上に置かれていた。




