第十九話 歪んだ笑み
――ガシャァァン!!
本家の術師と分家の術師が、食堂の壁へ叩きつけられた。
崩れた壁から瓦礫が降り注ぐ。
「……ぐっ……!」
本家の術師が起き上がろうとする。
しかし、身体に力が入らない。
その隣では、分家の術師も倒れたまま動けずにいた。
「……っ!」
悠太を守っていた三人の分家が息を呑む。
「……本家様!!」
「……そんな、一瞬で……!」
目の前の妖怪が、ゆっくりと顔を上げる。
圧倒的な邪気。
あの資材置き場で遭遇した四本腕の妖怪を思い出すほどの威圧感だった。
「……くそっ!」
一人が符を構えた。
「結界を維持しろ! 誠人様を――」
そのとき。
「…………」
背後から、かすかな声が聞こえた。
「……あ……」
三人が振り向く。
悠太だった。
頬には涙の跡が残り、手にはあのバットを握っている。
「……あは……」
「……誠人様?」
悠太の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「……あはは……」
笑っていた。
「……ははっ……」
肩を小さく震わせながら。
涙を流したまま。
「……あはははは……!」
「…………っ」
三人は言葉を失った。
『……悠太?』
欠片が呼びかける。
『……悠太、聞こえていますか?』
しかし、返事はなかった。
悠太の視線は、目の前の妖怪だけに向けられていた。
その瞬間。
――ドンッ!!
床が砕けた。
「……っ!?」
悠太の姿が消えた。
次の瞬間。
――ドガァッ!!
「ギッ!?」
妖怪の顔面に、霊力をまとったバットが叩き込まれた。
巨体が横へ大きく傾く。
だが、倒れない。
妖怪が怒りの声を上げ、太い腕を振り下ろした。
――ブォンッ!!
しかし、そこに悠太はいなかった。
「……あはっ!」
――ドゴッ!!
今度は側面から一撃。
妖怪の脚が折れ曲がり、巨体が床に沈む。
「ギィィィッ!!」
「……あはははっ!!」
悠太は笑っていた。
妖怪が起き上がろうとする。
――ドガッ!!
バットが背中へ叩き込まれた。
再び床へ倒れる。
「ギィッ!!」
それでも妖怪は腕を伸ばした。
悠太を捕らえようとする。
しかし。
――バキィッ!!
悠太がその腕を打ち払った。
「……あはっ!」
妖怪が怯んだ瞬間、悠太はさらに踏み込んだ。
――ドンッ!!
腹部へ強烈な蹴り。
巨体が床を滑り、倒れた机を押し潰した。
「…………」
三人の分家は、ただ立ち尽くしていた。
「……何だ、あの動き……」
「……速すぎる……」
それだけではなかった。
悠太の身体から、凄まじい量の霊力が溢れ続けている。
足元の床板が軋み、周囲の瓦礫が小刻みに震えていた。
『……悠太!!』
欠片の声が響く。
『霊力を使いすぎです! このままでは身体が持ちません!』
「……あはははっ!!」
笑い声だけが返ってきた。
* * *
妖怪が咆哮した。
「グオオオオッ!!」
その巨体から邪気が膨れ上がる。
身体中の筋肉が不自然に盛り上がり、傷ついた脚が元の形へ戻っていく。
「……再生している……!」
分家の一人が呟いた。
妖怪は立ち上がると、両腕を大きく振り上げた。
――ドォンッ!!
床が砕け散った。
悠太はその攻撃をかわし、妖怪の懐へ入り込む。
「……あはっ!」
――ドガァッ!!
バットが妖怪の顎を跳ね上げた。
続けざまに脚。
胴体。
肩。
――ガッ!!
――ドゴッ!!
――バキィッ!!
何度も。
何度も。
妖怪が立ち上がろうとするたび、悠太は叩き伏せた。
「ギィィィッ!!」
妖怪が苦しげに鳴く。
その声を聞いて。
悠太は、さらに笑った。
「……はは……」
俯いたまま、肩を震わせる。
「……あははははっ!!」
目から涙がこぼれ落ちた。
その顔に浮かんでいたのは、笑みだった。
けれど、楽しそうには見えなかった。
『……悠太』
欠片の声が、険しくなる。
『……もう十分です。早く祓ってください』
妖怪は何度も傷つけられ、動きが鈍くなっていた。
祓いの符を使えば、決着をつけられるかもしれない。
だが。
悠太は符を取り出さなかった。
代わりに、バットを握り直した。
「……まだや……」
かすれた声が漏れる。
妖怪が、わずかに身を引いた。
「……まだ、終わってへんやろ……」
悠太の口元が歪む。
「……あはっ」
――ドンッ!!
再び踏み込んだ。
「……っ!!」
妖怪が咄嗟に腕を構える。
だが、その防御ごとバットが叩き込まれた。
――バキィィン!!
今度はバットの方が耐えきれなかった。
柄に亀裂が走り、真っ二つに折れる。
「…………」
悠太は、折れたバットを見つめた。
自分が死んだあの日。
最後まで握っていたもの。
子どもたちを守ろうと、必死に振り回したもの。
「…………」
一瞬だけ、笑い声が止まった。
そして。
「……あ……」
ぽたっ。
涙が床へ落ちた。
「……あは……」
悠太は折れたバットを手放した。
カランッ。
乾いた音が響く。
妖怪がその隙を狙って飛びかかった。
「グオオオッ!!」
「……あははっ!!」
悠太は笑いながら、右手を突き出した。
――ズドォンッ!!
掌から放たれた膨大な霊力が、妖怪の巨体を押し返した。
「ギィィッ!!」
妖怪が壁へ激突する。
それでも悠太は止まらない。
妖怪が壁から崩れ落ちるより早く、その眼前へ移動していた。
右手を振り上げる。
霊力が集中する。
――ドガァッ!!
妖怪の身体が、再び床へ叩きつけられた。
「……はは……っ!」
――ドンッ!!
「……あはははっ!!」
――ドガッ!!
一撃ごとに、床が砕ける。
妖怪が抵抗しようとしても、悠太は容赦なく叩き伏せた。
祓おうとはしない。
倒そうともしていない。
ただ、何度も痛めつけていた。
* * *
「……誠人様……」
分家の一人が呟いた。
「……もう、十分では……」
誰も答えなかった。
彼らの知っている誠人様は、どれほど傷ついても、仲間を守るために戦う人だった。
妖怪を祓ったあとには、真っ先に仲間の無事を確かめる。
あの資材置き場でも、そうだった。
けれど。
今、目の前にいる少年は違った。
倒れている本家と分家に、目を向けることすらない。
妖怪が動けなくなっても、攻撃をやめない。
そして何より――。
ずっと、笑っていた。
「……止めた方が……」
一人がそう口にした。
しかし、別の一人が小さく首を振った。
「……近づくな」
「…………」
「……今の誠人様には、俺たちの声が届いていない」
そのとき。
『悠太!!』
欠片が叫んだ。
『……もうやめてください!!』
『……悠太!!』
それでも。
「……あははははっ!!」
悠太の笑い声は止まらなかった。
* * *
暴走 — 尽きるまで
* * *
――ドゴォッ!!
妖怪の巨体が、床へ叩きつけられた。
「……あははっ!」
――ズガァン!!
悠太の拳が、妖怪の胴体へめり込む。
衝撃で床板が砕け、周囲に亀裂が走った。
妖怪が腕を持ち上げる。
だが。
――バギッ!!
その腕が、横から叩き折られた。
「……あは……はははっ……!」
悠太は笑っていた。
頬を涙で濡らしながら。
何度も、何度も。
妖怪が身を起こそうとすれば、叩き伏せる。
逃げようとすれば、足に霊力を集中させて追いつく。
反撃しようとすれば、その部位ごと破壊する。
もはや、戦闘と呼べるものではなかった。
* * *
「……ぐっ……」
崩れた壁の向こうで、瓦礫が動いた。
本家の術師だった。
片足を引きずりながら、壁に手をついて戻ってくる。
「……はぁ……はぁ……」
身体のあちこちに傷を負い、立っているだけでも辛そうだった。
数歩進んだところで、足から力が抜ける。
「……くっ……」
その場に、どさりと座り込んだ。
「本家様!」
分家の一人が振り向く。
しかし、本家の術師は答えなかった。
視線は、食堂の中央へ向けられていた。
――ドンッ!!
妖怪が床へ叩きつけられる。
――バキィッ!!
その身体の一部が砕け散った。
「……なんだ、あれは……」
本家の術師が、呆然と呟いた。
目の前で起きていることが、理解できなかった。
妖怪はすでに、まともな形を保っていなかった。
腕は砕け、脚はひしゃげ、胴体も大きく崩れている。
再生しようとするたびに、悠太がその部分を破壊していた。
――ドガァッ!!
「……あはははっ!!」
また一撃。
妖怪の身体が、さらに崩れる。
「…………」
本家の術師の喉が動いた。
「……祓っているんじゃ、ない……」
分家の三人が顔を向ける。
「……え?」
本家の術師は、震える声で続けた。
「……あれは……」
――ズガァンッ!!
「……ただ、壊している……!」
* * *
妖怪が、かすかに動いた。
もはや立ち上がる力も残っていない。
それでも、残った腕を伸ばそうとする。
悠太は、その腕を見下ろした。
「……あはっ」
――ドンッ!!
腕が砕けた。
「……はは……っ!」
さらに拳を振り下ろす。
――ドゴッ!!
妖怪の身体が、また一つ崩れた。
原形を失った身体から、黒い邪気が漏れ出している。
しかし、祓われて消えていくときの光景とは違った。
浄化されているのではない。
霊力をまとった拳によって、その存在を物理的に削り取られていた。
「……もう、あれほどしか残っていないのに……」
分家の一人が呟いた。
「……どうして、攻撃をやめないんだ……?」
誰にも分からなかった。
本家の術師は、悠太の身体を見つめた。
溢れ続ける霊力。
一撃ごとに、凄まじい量の霊力が放出されている。
「……あのままでは……」
声が漏れた。
「……霊力が尽きるぞ……」
だが、悠太は止まらなかった。
「……あはは……!」
――ドガァッ!!
また一撃。
「……ははははっ!!」
――ドンッ!!
何度も。
何度も。
『……悠太!!』
欠片の声が響いた。
『もうやめてください!!』
『……これ以上は……!!』
届かない。
悠太の呼吸も、次第に荒くなっていた。
足元がわずかにふらつく。
それでも、妖怪が動くたびに拳を振り下ろした。
――ドゴッ!!
「……あは……っ!」
――ガンッ!!
「……はは……!」
その笑い声も、少しずつ弱くなっていく。
妖怪は、すでに巨体のほとんどを失っていた。
残っているのは、黒ずんだ身体の一部だけ。
それがかすかに蠢いている。
「…………」
本家の術師は、息を呑んだ。
あれほど強大だった妖怪が。
自分たちを一瞬で吹き飛ばした妖怪が。
今や、その姿さえ保てなくなっていた。
そして、それを成した少年もまた――。
「……はっ……はっ……」
限界を迎えようとしていた。
悠太がもう一度、拳を持ち上げる。
その拳に霊力が集まる。
しかし。
――フッ。
光が、弱々しく揺らいだ。
「…………」
悠太は、自分の拳を見つめた。
もう一度、霊力を流そうとする。
けれど、拳にはかすかな光しか灯らない。
『……悠太……』
欠片が呼びかける。
『……もう、限界です……』
悠太の身体が、ぐらりと揺れた。
「……あ……」
口元には、まだ笑みが残っている。
目からは、涙がこぼれ続けていた。
それでも、目の前の妖怪へ手を伸ばそうとする。
「……そこまでだ」
静かな声がした。
「…………?」
本家の術師が顔を上げる。
そこには、一人の男が立っていた。
「……っ!?」
「……あなたは……!」
男は答えなかった。
ただ、悠太を見つめている。
次の瞬間。
――シュッ。
男の姿が消えた。
「……っ!?」
気づいたときには、悠太の背後にいた。
「……もう十分だ」
男が指先を悠太の首元へ添えた。
一瞬、わずかな霊力が走る。
「……あ……」
悠太の笑い声が途切れた。
そのまま、身体から力が抜ける。
男は倒れかけた悠太を片腕で支えた。
「……寝てろ…」
分家の三人が息を呑む。
「保護しろ」
男が短く告げた。
「……は、はい!」
悠太を分家に預けると、男は食堂の奥へ目を向けた。
そこには、わずかに蠢く妖怪の残骸があった。
「……まだ生きているのか」
男は静かに手を上げた。
「……祓え」
――カッ。
一瞬、光が走った。
「……ギ……」
妖怪の声が途切れる。
残されていた黒い塊が、光の中へ消えていった。
「…………」
食堂に静寂が戻った。
本家の術師は呆然としていた。
あれほど苦戦した妖怪が。
たった今、何事もなかったように祓われた。
「……討伐完了だ」
男は淡々と告げた。
「負傷者を運べ。こいつが最優先だ」
「……承知しました!」
男は一度だけ、意識を失った悠太へ目を向けた。
「…………」
その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。




