第十八話 崩れゆく心
* * *
――ギィィ……。
壊れた扉の向こうから、低い鳴き声が響いた。
「……来ます!」
分家の一人が叫ぶ。
暗い廊下の奥。
何かが、ゆっくりと姿を現した。
天井に届きそうなほど背の高い妖怪だった。
異様に長い腕。
曲がった背骨。
身体のあちこちから突き出した、鋭い骨のようなもの。
その後ろには、小さな妖怪が何体も蠢いている。
「……一体ではないのか」
本家の術師が低く呟いた。
妖怪たちは、食堂の中へ顔を向けていた。
その視線の先には――。
「……あっ……あっ……」
床に膝をついた悠太がいた。
涙を流しながら、浅い呼吸を繰り返している。
「……誠人様!」
分家の一人が声をかける。
しかし、悠太は反応しなかった。
本家の術師が素早く状況を確認する。
「……一人は私のサポートにつけ!」
「はい!」
「残りの三人は誠人様を守れ! 何があっても近づけるな!」
「承知しました!」
四人の分家が一斉に動いた。
一人は本家の術師の隣へ。
残る三人は悠太を囲むように位置についた。
「結界、展開!」
三枚の符が光る。
地面から立ち上がった霊力が、悠太の周囲に防御結界を形成した。
「……維持するぞ!」
「ああ!」
三人が互いに声を掛け合う。
かつて資材置き場では、結界を維持するだけで精いっぱいだった。
だが、今は違う。
三人の霊力が均等に行き渡り、光の壁は安定していた。
「……よし!」
一方、本家の術師は前方へ踏み出した。
「まずは大きい方を抑える。小型の妖怪は近づけさせるな!」
「はい!」
二人が符を構える。
その瞬間。
「ギィィィッ!!」
大きな妖怪が地面を蹴った。
――ドンッ!!
「……っ!」
本家の術師は横へ跳び、振り下ろされた腕をかわす。
床が大きく砕けた。
「拘束!」
後方の分家が符を放つ。
光の帯が妖怪の右腕へ絡みついた。
「……今です!」
「分かっている!」
本家の術師が素早く符を構える。
しかし――。
ブチッ!!
「……なっ!?」
妖怪は拘束を力任せに引きちぎった。
「……通常の下級妖怪より、明らかに強いな」
本家の術師は眉をひそめた。
それでも、慌てる様子はなかった。
「もう一度だ。今度は脚を狙え!」
「はい!」
二人は連携し、妖怪の動きを封じにかかった。
* * *
そのころ。
結界の内側では、悠太がまだ床に膝をついていた。
「……はっ……はっ……」
床に残された血の痕。
壊れた机。
倒れた椅子。
そのすべてが、あの日の光景と重なっていた。
「……あっ……あぁ……」
涙が止まらない。
『……悠太』
欠片が呼びかける。
『……今は危険です。聞こえていますか?』
返事はなかった。
『……悠太!』
「……あっ……あっ……」
悠太はただ、血の痕を見つめ続けていた。
そのとき。
――ガンッ!!
結界の外側から、何かがぶつかった。
「……っ!」
小型の妖怪だった。
一体。
二体。
三体。
次々と結界へ群がってくる。
「……くそっ! 数が多い!」
「慌てるな! 結界を維持しろ!」
三人は霊力を流し続ける。
「……このままじゃ!」
「大丈夫だ! 訓練どおりにやれば持つ!」
一人が符を構えた。
「……祓いの符!」
光が走る。
結界へ群がっていた妖怪の一体が、悲鳴を上げて消えた。
しかし、別の妖怪がすぐに飛びかかってくる。
――ガンッ!!
結界が揺れた。
「……っ!」
「誠人様! 少しだけ下がってください!」
分家の一人が振り向く。
だが。
「…………」
悠太は、何も答えなかった。
* * *
――ギィィッ!!
本家の術師が、大きな妖怪の腕をかわした。
「……今だ!」
「はい!」
分家が拘束符を放つ。
妖怪の両脚が光の帯に縛られた。
「……そこだ!」
本家の術師が祓いの符を構える。
そのとき。
「……っ!?」
結界の方から、突然強い霊力が流れ込んできた。
「……何だ!?」
術師が振り向く。
結界の内側。
悠太が、ゆっくりと立ち上がっていた。
「……誠人様?」
分家の一人が声をかける。
悠太は何も言わなかった。
頬には、まだ涙が伝っている。
目は、床の血の痕を見つめたままだった。
「……誠人様……?」
悠太の右手が、ゆっくりと持ち上がる。
『……悠太?』
欠片が声をかけた。
『……待ってください。今のあなたは――』
返事はない。
悠太の手に、霊力が集まり始めた。
「……っ!?」
分家の一人が息を呑む。
「……霊力が……!」
その量は、明らかに異常だった。
普段の悠太なら、必要な分だけを慎重に流す。
修行を重ね、ようやく身につけ始めた制御。
だが、今は。
まるで堰を切ったように、霊力が溢れ出していた。
「……誠人様!」
一人が近づこうとした。
その瞬間。
――バンッ!!
悠太の手から、凄まじい霊力が放たれた。
「……っ!?」
放たれた霊力は、結界のすぐ外にいた小型の妖怪へ直撃した。
「ギィッ――」
悲鳴が途切れる。
妖怪の身体が、一瞬で消し飛んだ。
「…………」
三人が言葉を失う。
「……い、今の……?」
しかし、悠太は止まらなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
その目から、また涙がこぼれた。
「…………」
目の前で蠢く妖怪たち。
あの日。
自分たちの日常を壊したものと、同じ存在。
悠太の手が、再び動く。
――バンッ!!
二体目が消えた。
――ドンッ!!
三体目。
「……っ!」
分家の一人が思わず後ずさった。
「……誠人様!?」
悠太は何も答えない。
ただ、妖怪へ向けて霊力を放ち続けていた。
「……待ってください! 霊力を使いすぎです!」
『……悠太!!』
欠片が叫ぶ。
『……そんな使い方をしてはいけません!』
それでも、悠太には届かなかった。
「…………」
涙を流したまま。
表情を失ったまま。
悠太は、目の前の妖怪たちを次々と祓っていった。
* * *
――ズガァンッ!!
大きな妖怪が、床へ倒れ込んだ。
「……祓え!」
本家の術師が符を放つ。
眩い光が妖怪を包み込む。
「ギィィィッ!!」
断末魔の叫びとともに、その身体が消えていった。
「……ふぅ」
本家の術師が息を吐く。
「……終わったか」
しかし、すぐに異変へ気づいた。
「……何だ、この霊力は……?」
振り返る。
食堂の中央。
そこに悠太が立っていた。
周囲には、妖怪の姿が一体も残っていない。
分家の三人は、ただ呆然と悠太を見つめていた。
「……誠人様?」
本家の術師が近づく。
「……もう妖怪はいません。術を止めてください」
悠太は反応しなかった。
「……誠人様」
「…………」
その両手からは、今も霊力が溢れていた。
『……悠太!』
欠片の声が響く。
『……もう敵はいません! 聞こえていますか!?』
「…………」
悠太の唇が、わずかに震えた。
しかし、言葉にはならなかった。
そのときだった。
――……ドクン。
「…………?」
本家の術師が顔を上げた。
何かがおかしい。
今まで感じていた妖怪の気配とは、明らかに違う。
――ドクン。
重苦しい気配が、食堂の奥から漂ってきた。
「……っ!?」
本家の術師の表情が変わる。
「……全員、警戒しろ!」
分家の四人が一斉に顔を上げた。
「……ま、まだいるんですか!?」
「……いや」
本家の術師は、奥の暗がりを睨んだ。
「……今までのものとは違う」
床が、わずかに震え始めた。
ミシッ……。
ミシミシッ……。
食堂の奥。
暗い廊下の向こうから、何かが近づいてくる。
――ズン。
重い足音。
――ズン。
壁が軋む。
天井から、細かな埃が落ちた。
「…………」
分家の一人が、ごくりと唾を呑んだ。
「……何だ、これは……」
本家の術師が符を構える。
しかし、その額には汗が滲んでいた。
「……全員、私の指示を待て」
暗闇の奥。
そこに、何かがいた。
今までの妖怪とは比べものにならないほど、濃密な邪気。
姿はまだ見えない。
それなのに、圧倒的な存在感だけが伝わってくる。
「…………っ」
分家の一人が、無意識に一歩下がった。
その瞬間。
――バキィッ!!
廊下の奥の壁が、内側から砕けた。
瓦礫が床へ落ちる。
舞い上がる埃。
そして。
その向こうに――。
巨大な影が、ゆっくりと姿を現した。
「…………」
本家の術師が息を呑む。
『……悠太』
欠片の声が、低くなった。
『……これは……』
だが、悠太は答えなかった。
ただ、その影へ顔を向けた。
涙の跡を残したまま。
その目には、もう周囲の術師たちの姿すら映っていなかった。
* * *
* * *
――ズン。
巨大な影が、瓦礫を踏みしめた。
食堂の奥から現れた妖怪。
その全身から、異様なほど濃い邪気が漂っていた。
「…………っ」
本家の術師が息を呑む。
「……全員、警戒!」
分家の四人が身構える。
「三人はそのまま誠人様を守れ! 一人は私についてこい!」
「はい!」
本家の術師は符を構えた。
目の前の妖怪が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
本家の術師が符を構えた。
「拘束――!」
しかし。
――ドゴォッ!!
「……がはっ!?」
術が発動するより早く、凄まじい衝撃が本家の術師を襲った。
身体が宙を舞う。
――ガシャァン!!
「……ぐっ……!」
床に叩きつけられた本家の術師が、苦しげに顔を上げる。
「……何だ、今のは……!」
そのとき。
妖怪が、再び動いた。
「……っ!!」
「結界、展開!!」
本家のサポートについていた分家の術師が、咄嗟に符を構えた。
二人を包み込むように、防御結界が形成される。
「……っ!」
倒れていた本家の術師が顔を上げた。
「一人の結界では……!」
その瞬間。
――ドォォンッ!!
妖怪の一撃が結界に直撃した。
「……ぐっ!!」
分家の術師が必死に霊力を流し込む。
しかし――。
ピシッ。
結界に亀裂が走る。
「……っ!?」
――バギィィンッ!!
次の瞬間、結界が粉々に砕け散った。
――ドガァァン!!
「ぐああっ!!」
「……がはっ!!」
凄まじい衝撃が二人を襲った。
本家の術師と分家の術師は、結界ごと食堂の反対側へ弾き飛ばされた。
――ガシャァァン!!
古い壁が崩れ、瓦礫が降り注ぐ。
二人はそのまま床へ倒れ込んだ。




