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第十七話 残されたもの

「まずは外周から確認する」

本家の術師が静かに告げた。

「建物の中へ入るのは、そのあとだ。気配の確認を怠るな」

「承知しました」

分家の四人が散っていく。

悠太は返事をしなかった。

ただ、目の前の荒れ果てた孤児院を見つめていた。

「……誠人様」

本家の術師が一歩近づく。

「無理はなさらず」

「……うん」

短く返し、悠太は門をくぐった。

足元で雑草が擦れる。

かつては、子どもたちが走り回っていた庭だった。

今はもう、人の気配も、笑い声もない。

* * *

敷地の端を歩いていた分家の一人が、足を止めた。

「……これは」

悠太も視線を向ける。

草むらの中に、汚れたサッカーボールが転がっていた。

色は褪せ、表面もひび割れている。

けれど、その形はよく覚えていた。

「…………」

悠太は無意識に、そのボールへ近づいていた。

しゃがみ込み、そっと手を伸ばす。

指先が触れる。

土と、長い時間雨ざらしになったざらつきが伝わってきた。

「……これ」

『……悠太』

『……これ、俺らのや』

声がかすれる。

『庭でよう遊んでたやつや』

誰かが蹴って、誰かが取り損ねて、また笑って。

そんな何でもない時間が、頭の奥でぼんやりとよみがえった。

悠太はボールを拾い上げかけたが、途中で手を止めた。

そのまま、そっと元の場所へ戻す。

「……先、見よう」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

* * *

建物の横手へ回ると、物干し場があった。

「……っ」

悠太の足が止まる。

そこには、まだ洗濯物が干されたままだった。

風に吹かれて色を失った布が、弱々しく揺れている。

子ども用の小さな服。

少し大きめのシャツ。

タオル。

そして、シスターが使っていたと思われる白い布も混じっていた。

「…………」

分家の一人が小さく息を呑んだ。

「……そのまま、残っているのですね」

悠太は何も言わなかった。

ただ、その洗濯物を見上げていた。

干したまま。

取り込まれることのなかった服。

あの日、いつも通りの朝があって。

いつも通り洗濯をして。

いつも通り一日が過ぎるはずだったのだ。

それが、途中で途切れた。

『……悠太』

『……うん』

『……中、行こか』

悠太は小さく頷いた。

* * *

本家の術師が建物の入口へ立つ。

「内部へ入る。二手には分かれない。全員で動く」

「はい」

扉は半ば外れ、斜めに傾いていた。

誰かが無理やりこじ開けたような跡がある。

悠太は、その壊れた入口を見上げた。

ここを通るのは、何度目だろう。

毎日当たり前に出入りしていた場所なのに、今はひどく遠く感じた。

中へ足を踏み入れる。

空気は淀み、木と土埃の匂いが鼻についた。

床板はきしみ、壁には爪で引き裂いたような跡が残っている。

分家の一人が周囲を警戒しながら進む。

「妖怪の気配は……薄いですが、残っています」

「油断するな」

本家の術師が短く返す。

悠太は、皆の少し後ろを歩いていた。

そして――。

廊下の途中で、ふいに足を止めた。

「……あ」

誰も気づかないほど、小さな声だった。

『……どうしましたか?』

欠片の問いに、悠太はすぐ答えられなかった。

視線は、廊下の床に落ちている。

「……ここ」

そこは、悠太が倒れた場所だった。

長い時間が経っていても、床には乾いた血の痕が黒ずんで残っていた。

そのすぐ脇に、一本のバットが落ちている。

「…………」

悠太は、ゆっくりと近づいた。

しゃがみ込み、バットへ手を伸ばす。

持ち上げると、手にずしりと重みが伝わった。

あの日、必死に握りしめていた重さ。

震えていた自分の手。

「……これ」

『……悠太』

『……俺、これ持って走ってん』

声が、少しずつ低くなる。

『見えへんくせに、よう分からんまま……これ持って……』

バットを握る手に、力がこもる。

廊下の向こうに、あの日の景色が重なる。

暗がり。

軋む床。

そして、突然目の前に現れた異形。

「…………っ」

悠太は唇を噛んだ。

分家の一人が、そっと声をかける。

「……誠人様?」

悠太は返事をしなかった。

ただ、床に残る乾いた血の痕を見つめていた。

本家の術師も、その視線の先を追う。

だが、何も問わなかった。

「……先へ進む」

その一言だけが、静かに落ちた。

悠太はバットを見つめたあと、ゆっくりと立ち上がる。

少し迷ってから、そのバットを手に持ったまま歩き出した。

* * *

やがて一行は、食堂の前へたどり着いた。

扉は無残に壊されていた。

蝶番ごとひしゃげ、原形を留めていない。

「……っ」

悠太の喉が詰まる。

ここだ。

子どもたちが集められた場所。

シスターが結界を張って守っていた場所。

本家の術師が先に中を確認し、低く告げる。

「……入るぞ」

悠太は、そのあとに続いた。

食堂の中はひどい有様だった。

床はあちこちが抉れ、壁にも深い傷が走っている。

机や椅子は倒れ、砕け、散乱したままだった。

まるで、ここで激しい戦いがあったことを、そのまま残しているようだった。

そして――。

「…………」

悠太の視線が、部屋の一角で止まる。

そこには、乾いた血の痕が広く残っていた。

ほかよりも、濃く。

はっきりと。

「……ここ」

足が勝手にそちらへ向かう。

『……悠太』

『……シスターが、おったとこや』

声が震えた。

『……最後までみんな守ろうとして…』

それ以上、言葉が続かない。

悠太の呼吸が乱れた。

握っていたバットが、ぎしりと鳴る。

分家の一人が不安そうに本家の術師を見る。

「……誠人様のご様子が……」

本家の術師は眉をひそめた。

「誠人様」

呼びかけても、悠太は反応しない。

視線は血の痕に釘付けになっていた。

『……悠太、落ち着いてください』

欠片の声が響く。

『呼吸を整えてください』

しかし、悠太は答えなかった。

ただ、床に残された血の痕を見つめていた。

「…………」

握りしめていたバットが、小刻みに震える。

呼吸が浅くなる。

一度、大きく息を吸おうとした。

けれど。

「……っ、はっ……」

うまく吸えない。

「……はっ……はっ……」

胸が苦しい。

息を吸っているはずなのに、少しも楽にならない。

『……悠太?』

その瞬間。

ガクッ。

悠太の膝から力が抜けた。

ドサッ。

「……っ!?」

分家の一人が振り向いた。

「誠人様!?」

悠太は床に両膝をついたまま、動かなかった。

カランッ。

握っていたバットが手から滑り落ちる。

乾いた音が、静まり返った食堂に響いた。

「……はっ……はっ……!」

悠太は胸元を押さえた。

肩が激しく上下する。

「……あっ……あっ……あっ……」

何度も息を吸おうとする。

けれど、呼吸は乱れるばかりだった。

「誠人様!? どうなされたのですか!?」

分家の一人が慌てて駆け寄った。

「おい、待て! 急に動かすな!」

本家の術師が制止する。

悠太の目から、一粒の涙がこぼれた。

ぽたっ。

床に落ちる。

その下には、あの日から残された血の痕があった。

「……あっ……あっ……」

また一粒。

ぽたっ。

そして、もう一粒。

「……っ、あっ……あぁ……」

涙が止まらなかった。

顔を覆おうとしても、手が震えてうまく動かない。

目の前には、あの日の光景があった。

子どもたちの泣き声。

必死に守ろうとするシスター。

子どもたちを囲んだ結界。

伸ばした手。

届かなかった手。

「……あっ……あっ……あっ……!」

悠太は両手を床についた。

背中が丸まり、身体が小さく震える。

「……あぁ……っ……」

喉の奥から、声にならない音が漏れた。

「……あ……あぁぁ……!」

涙が床に落ち続ける。

「…………」

分家の四人は、言葉を失っていた。

あの資材置き場で。

自分たちを守るために、一人で化け物に立ち向かった少年。

傷だらけになっても立ち上がり、恐ろしい妖怪を前にして笑っていた少年。

その同じ人物が。

今、目の前で泣き崩れていた。

「……誠人、様……?」

一人が、かすれた声で呟いた。

悠太には聞こえていなかった。

「……あっ……あっ……!」

息を吸う。

また吸う。

けれど、苦しい。

視界が滲んでいく。

「……あぁ……あぁぁっ……!」

とうとう、押し殺していた声が漏れ出した。

「あぁぁぁ……っ!!」

壊れた食堂に、悠太の泣き声が響いた。

『……悠太!!』

欠片が呼びかける。

『悠太、聞こえますか!?』

返事はない。

『……悠太!』

悠太は、ただ泣いていた。

何度も息を詰まらせながら。

床に両手をつき、身体を震わせていた。

本家の術師が膝をつく。

「……誠人様。私の声が聞こえますか?」

返事はなかった。

「……大丈夫です。ゆっくり息をしてください」

その背後で、分家の一人が顔を上げた。

「…………?」

何かが聞こえた。

ギシッ。

廊下の奥。

「……今、何か……」

別の一人も振り向く。

ギシ……ギシッ……。

床板が軋む。

ゆっくりと。

何かが近づいてくる。

「……っ!」

分家の一人が符を構えた。

「妖怪の気配です!」

本家の術師が顔を上げる。

「……全員、警戒!」

四人がすぐさま悠太の周囲へ集まった。

廊下の暗がり。

その奥から、何かを引きずるような音が聞こえてくる。

ズル……。

ズル……。

悠太の泣き声が響くたびに。

その音が、少しずつ近づいてきた。

「……まさか」

本家の術師が廊下を睨む。

「……声に引き寄せられているのか?」

ズル……。

ギシッ。

「……来ます!」

分家の四人が符を構える。

けれど、悠太は顔を上げない。

「……あっ……あっ……」

床を見つめたまま。

涙を流し続けていた。

『……悠太』

欠片の声が、わずかに震えた。

そのとき。

食堂の壊れた扉の向こうで。

――ギィィ……。

低い鳴き声が響いた。

* * *

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