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豊臣秀次太閤記  作者: とこ


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第8話 賤ヶ岳の七本槍と存分な飯

 峯城を囲んでひと月ほど経つ頃には、戦はほとんど睨み合いになっていた。


 攻めても、押し返される。城方も大きく打って出てはこない。


 そこへ、北から報せが入った。


 柴田勝家が動き始めたという。


「孫平次はここへ残して、お前は長浜へ戻れ」


 叔父上からの下知は短かった。


 峯城は、中村殿に任せられる。


 だが、北で大軍が動けば、必要になる米も馬も道も桁が違う。


 俺は大場殿と与右衛門らを連れ、急ぎ長浜へ戻った。


     ◇


「佐久間盛政、動きました!」


 天正十一年四月二十日。


 北伊勢で一月以上粘った峯城が開いたとの報せが、長浜へ届いたばかりだった。


 朝靄の残る長浜城の帳場へ、泥まみれの使者が転がり込んできた。


「兵、およそ八千。大岩山へ攻めかかり、中川瀬兵衛様は――」


 使者がそこで口を閉じた。


 聞かなくても分かった。


「討死か」


「……はっ」


 佐久間盛政の奇襲。


 秀吉様は岐阜で再び兵を挙げた織田信孝の抑えのため大垣まで出ている。


 つまり今、賤ヶ岳の羽柴本隊には秀吉がいない。  


 大岩山砦を守る中川清秀は、ここで死ぬ。


 そして大垣にいる秀吉が、五十キロほどの道を恐ろしい速さで賤ケ岳に戻ってくる。後世に美濃大返しと呼ばれる強行軍だ。


 どうやら、大返しは羽柴軍の十八番らしい。


 俺は賤ケ岳の戦いを歴史として知っている。


 だが、何時に大垣を発ち、何人がどの順で来るのかまでは知らない。五時間で駆けたという話も覚えているが、全軍が揃って走ったのか、先鋒だけなのか、後世の誇張なのかも分からない。


 前世の記憶なんてものは、存外役に立たないものだ。


 今の俺に分かるのは、これから大勢の腹を空かせた兵が、北国脇往還へ押し寄せるということだけだ。


「秀吉様へ知らせは」


「先の使者が大垣へ。某は長浜へ回されました」


「叔父上は」


「田上山の陣に」


 前にも敵がいる。後ろから来る軍もいる。


 俺は壁に掛けた地図へ向かった。


 その横で、常陸が帳面を抱え直す。


「常陸介様は、戦支度をなさらぬので」


 使者と一緒に入ってきた若い下役が尋ねた。


「しておる」


 常陸が受払の帳面を叩いた。


「帳面も、戦支度のうちじゃ」


「常陸」


「何でございます」


「格好をつけているところ悪いが、すぐに開いてくれ」


 常陸がジトっとこちらを睨めつけながら帳面を開いた。


「長浜の握り飯は」


「今あるのは三百ほど。昼まで待てば、千二百は」


「待てない。その三百はすぐ出せ。途中の蔵にある米は」


「米ならありまする。飯にはなっておりませぬ」


 米は、俵のままでは兵の腹へ入らない。


 洗い、浸し、炊く。薪も水も釜も要る。兵が着いてから火を熾していては、急行軍をそこで止めることになる。


「爺。街道沿いで、すぐに釜を借りられる村をどれだけ知っている」


「ワシに、朝から村々を叩き起こせと」


「頼めるのか」


「頼むだけなら。ただし、米を炊かせ、薪を使わせ、井戸まで空にして、あとで知らぬ顔はできませぬぞ」


「もちろん手間賃は払う。常陸、村ごとに使った米と薪を控えておいてくれ」


「この忙しい時に、また役目を増やされるので」


「戦支度なのだろう」


 さっき自分で言った言葉である。


 常陸は黙って下役を呼んだ。


「坂本屋を起こせ。寝ておっても起こせ。死んでおったら倅を連れてこい」


「かしこまりました。」


「おいおいまだ働いてもらわねば困るのだ。引きずって連れてくるくらいで容赦してやれ」


「まったくお主らは新右衛門をなんだと思っておるのだ」


 爺が笑いながら立ち上がった。


「ではワシは北国脇往還へ出まする。若殿は」


「南へ行く。大垣から来る軍を、途中で拾う」


 俺は大場殿へ向き直った。


「河内から来た者を二手に分けてください。一手は水、一手は草鞋。馬を扱える者は飼葉へ」


「兵糧は」


「米は商人と村に頼む。大場殿には、渡す場所で揉めないよう人を置いてほしい」


「我らは戦場(いくさば)へは出ぬのでございますか」


 大場殿は、やはりそこを気にした。


「出たいですか」


「武士でございますれば」


「ならば槍を持って行ってください。ただし、私の横で水桶を守るために使っていただきます」


「水桶を」


「奪い合いになれば、味方同士でも槍が出ます」


 大場殿は不服そうだったが、断りはしなかった。


 あの男も、まだ俺の家臣ではない。


 賤ヶ岳が終わるまで、俺も量られている途中だった。


     ◇


 坂本屋新右衛門が城へ来た時には、日が山の端から昇り始めていた。


「これはまた、ずいぶん急な御商いで」


「握り飯を、できるだけ多く」


「できるだけ、が一番高うございますぞ」


「知っている。街道沿いの村と寺へ米を出してくれ。炊く場所は爺が押さえる」


「いくつ、お要りで」


「まず三千。あとから同じだけ」


 坂本屋が、眠そうだった目を大きく開いた。


「いつまでに、でございますか」


「昼までに三千。できた端から運ぶのだ。百できたら、百から兵の通る道へ出してくれ」


「米は出せます。人と釜は」


「こちらで途中の村々へ頼む」


「手間賃は、相応にいただきますぞ」


「なぜだ」


「朝から叩き起こされ、柴田勢が迫る道で飯を炊く値にございます」


 まったくその通りだった。


「二割増し」


「三割」


「二割。それに、炊き終わった釜と余った薪はこちらで買い取る」


「釜まで何になさるので」


「帰りの兵へ汁を出す」


「帰りでございますか」


「勝っても負けても、腹を空かせた兵は戻る」


 坂本屋は少し考えた。


「二割五分。支払いは戦が終わってから十日以内」


「七日」


「九日」


「決まりだ」


坂本屋が頭を下げる。


「次からは、戦を始める前に声をおかけくださいませ」


「俺に言うな。秀吉様へ言ってくれ」


「ひぃ、それがしまだ命が惜しゅうございます」


 それだけ言うと、坂本屋は駆け出した。


     ◇


 米を炊かせる者を残し、俺たちは長浜を出た。


 長浜から東へ出て、北国脇往還へ向かう。


 大垣から兵が北へ駆け上がる道に沿って、村ごとに違う物を置いた。


 最初の村には水と握り飯。


 次には味噌を溶いた熱い汁と草鞋。


 その先には飼葉と、使者や荷駄のための替え馬。


 全部を揃えた大きな受け渡し場を一つ作る時間はなかった。それなら、あるものをある場所で出してもらうしかない。


 兵は一度に来ない。


 先触れ、馬廻、足軽、荷駄、遅れた者。間を空けて、ばらばらに来る。


 その流れを止めずに、何を手へ渡せるか。


 前世で工場や倉庫を見てきた時も、品物の数だけ見たことはなかった。どこで人が立ち止まり、何を探し、誰の返事を待って列が止まるのか常に導線を見る。


 ただし、今いるのは倉庫ではない。


 泥だらけの道で、刀と槍を持った男たちが走ってくる。


 昼のあいだに水桶と筵を並べ、握り飯が届くたび道沿いへ振り分けた。


 日が西へ傾き、山の影が街道へ伸び始めたころだった。


「来ました!」


 物見の声が飛んだ。


 南の道から、まず騎馬の一団が現れた。


 羽柴の瓢箪の馬印。


 先頭の馬は泡を吹き、乗る男たちも肩で息をしている。


「水だ!」


「馬を先に!」


 怒鳴り声が重なった。


 桶へ人と馬が一緒に寄り、たちまち道が詰まった。


「大場殿、人を右へ。馬は左だ!」


「聞いたか! 馬を曳く者は左へ寄れ!」


 大場殿が三好の者を走らせる。


 俺は水を汲んだ椀を、馬上の武者へ渡した。


「孫七郎様が、なぜここに」


「飲んだら行ってください。後ろが詰まっております」


「殿はすぐ後ろです!」


 男は水を飲み干し、椀を返す暇も惜しんで北へ駆けた。


「若殿、椀が」


「あとで請求する」


「誰にで」


「当然殿に」


 常陸は返事をしなかった。


 次に来たのは足軽の一団だった。


 握り飯を置いた筵へ殺到し、前の者が二つ、三つと掴む。後ろから手が伸び、筵ごとひっくり返りそうになる。


「一人一つだ!」


「足りませぬ!」


「次の村にもある。ここで食う分だけ取れ!」


「本当にあるのですな」


「ある。次は汁もある。だから一つでいい。後ろにも残せ」


 男は両手に持った握り飯を見比べた。


「……先にも、飯があるのでございますか」


「あると言っているだろう」


 男は二つ目の握り飯を、そっと筵へ戻した。


「もし、なかったら」


「なければ俺の首を取れ!」


 言ってから、約束が大きすぎたと思った。


 だが足軽たちは笑い、握り飯を口へ押し込みながら走り出した。


「若殿」


「分かっている。次からは首以外にする」


 常陸が何も言う前に答えておいた。


 日が落ちても、北へ急ぐ兵の列は切れなかった。


 街道脇の松明へ火を移して回ったころ、道の向こうから、ひときわ大きな怒鳴り声が聞こえた。


「止まるな! 飯は歩きながら食え!」


 秀吉だった。


 兜の緒を緩め、全身を泥と汗で濡らしている。馬もひどい有様だった。


 俺を見つけると、目を剥いた。


「孫七郎! 何をしておる!」


「叔父上からいただいた役目を」


「飯を炊くことがか!」


「私は私の戦をしておるのです。それに飯は私が炊いたわけではありませぬ。」


「もういい、減らず口を叩く元気があるなら、握り飯を寄越せ!」


 俺が差し出した握り飯を、秀吉は二口で食べた。


「塩が足りん!」


「急でしたので」


「もう一つ!」


「一人一つです」


「わしは大将じゃぞ」


「では後ろの兵の分を横取りすればよいでしょう」


 秀吉は一瞬だけ黙り、それから大笑いした。


「ふんっ、勝ったら腹一杯食わせろ!」


「おい常陸忘れん様、帳簿にしたためておけ」


「おい本当に書くな、馬鹿者!」


 秀吉は馬腹を蹴った。


 止まったのは、握り飯一つを食う間だけだった。


 その後ろから若い武者が二人、競うように走ってきた。


 一人は大柄で、顔を真っ赤にしている。


 もう一人はそれより細いが、目つきが鋭い。


「市松、俺の分まで取るな!」


「遅い方が悪い!」


「一人一つだと言っている!」


 俺が怒鳴ると、大柄な方が振り向いた。


 福島市松正則。


 もう一人が、加藤虎之助清正。


 この戦で名を上げる若者たちだった。


「孫七郎様も来られるので」


 虎之助が尋ねた。


「俺はここに残る」


「槍を持たずに、何の手柄が立ちます」


 市松が笑った。


 腹は立たなかった。


 今の俺が槍を持ってあの二人の横へ並んでも、守る者を一人増やすだけだ。


「槍はお前たちに任せる。その代わり帰りの飯は残しておく。手柄を立てて帰ってこい」


「ならば、勝ったら猪の肉も頼みまする!」


 市松が言った。


「勝ってから言え!」


「では、勝って参ります!」


 二人は本当に笑いながら北へ走っていった。


 あれで死なないのだから、歴史に名を残す人間は頑丈にできている。


 そう思いながら、二人の背を見送った。


 秀吉様の本隊が北へ抜けると、俺たちも残った荷をまとめた。


 南の受け渡し場には大場殿の者を残し、俺と大場殿、常陸は木之本まで上がる。


 飯を置く場所も、軍と一緒に北へ動かさなければならない。


 木之本へ着いたころには、夜も深くなっていた。大岩山から退いた負傷兵が南へ流れ、北へ向かう後続の兵と狭い道でぶつかり始めていた。


     ◇


 翌二十一日。


 空が白むと、賤ヶ岳の方角から鬨の声が響き始めた。


「退け! 前へ行く兵を通せ!」


「こちらも急いでいる! 腹を斬られておるのだぞ!」


 担架と荷駄が、狭い道でぶつかっていた。


 前へ向かう兵は一刻でも早く戦場へ着きたい。戻る者も、一刻遅れれば死ぬ。


 どちらも退けない。


 俺たちは、北へ向かう軍へ飯を渡すことばかり考えていた。


 戦場へ兵を送れば、同じ道から傷ついた兵が戻ってくる。当たり前のことを、目の前へ現れるまで考えていなかった。


「担架は脇へ寄せろ! そこを通せ!」


 畑の畦を指したが、夜半の雨で土が柔らかい。二人が担架を担いで入ると、足首まで沈んだ。


「若殿、それでは運べませぬ!」


「空いた荷駄馬を使え!」


「馬は荷を取りに戻しまする!」


 俺が言葉に詰まった時、血の付いた具足の男が北から歩いてきた。


「東に、村道が一本ございます」


「与右衛門」


 与右衛門だった。


 左肩の袖が裂け、血が滲んでいる。


「怪我をしているではないか」


「かすり傷にございます。それより、あの畦の先へ板を渡せば、空荷の馬なら通せまする。前へ行く兵と道を分けられましょう」


「板はどこにある」


「この先の農家に、納屋の戸がございます」


「借りられるか」


「某が話します」


「その前に手当てを」


「急ぎまする」


「叔父上から借りた男を、壊して返すわけにはいかない」


「貸し出されたのは、とうに九日を過ぎておりますぞ」


「なら余計にまずい。無断で借りていることになる」


 与右衛門が初めて傷を見たような顔をした。


 近くにいた僧へ預け、裂いた布で肩を縛らせる。その間に大場殿が人足を集め、納屋の戸板を借りて畦へ並べた。


 戸を外された農家の男が、不安そうに見ている。


「必ずお返します」


「戦で壊れたら」


「新しい戸にして返す」


「いつで」


「戦が終わって九日以内だ」


 横にいた坂本屋の手代が吹き出した。


「何がおかしい」


「いえ。同じ日をよくお使いになると思いまして」


「覚えやすいだろう」


 これ以上、支払日を増やせば常陸に殺される。


 板を渡した村道へ、空の荷駄馬を回した。歩けない者を腹ばいに乗せ、軽い傷の者は綱につかまらせる。


 腹を斬られた男の担架も、ようやく南へ動いた。


 次は手当てする場所が足りなくなった。


 味噌汁を出すために借りた木之本の寺の軒下へ筵を敷き、傷の深い者を先に寝かせた。歩ける者は井戸の向こうへ座らせ、自分で傷口を押さえてもらう。


「布が足りませぬ!」


「草鞋の荷に麻布がある!」


「足りねば坂本屋に用意させろ。言い値で構わん」


 日が高くなるにつれ、北から戻る負傷者が増えた。


 誰が勝っているのか、俺には見えない。


 届くのは、佐久間勢が退き始めた、いや踏みとどまった、賤ヶ岳の砦も危うい、前田勢が動かない――そんな途切れた話ばかりだった。


 ただ、前へ向かう羽柴兵の流れは止まっていない。


 握り飯は二つの村で尽きたが、その先に残っていた。


 水桶は一つ割れたが、井戸はまだ使えた。


 飼葉は足りなくなり、近くの農家から藁を買った。


 俺の考えた通りになど、何一つ進まなかった。


 それでも誰かが足りない物を拾い、次へ渡している。


 昼を過ぎたころ、北から歓声が近づいてきた。


「佐久間勢、崩れました!」


「柴田方、退きまする!」


 その声に、傷の浅い兵まで立ち上がった。


 俺は喜ぶより先に、道を見た。


「大場殿、北へ行く道を空けてください。追う兵が来ます」


「勝ったのでございますぞ」


「だからだ、もっと来る」


 案の定だった。


 戦場から下がってきた兵と、これから追撃へ向かう兵で、木之本はまた混み始めた。水を飲み、飯を掴み、新たな下知を受けた者からまた北へ走っていく。


 その中に、市松がいた。


「孫七郎様! 猪の肉は!」


 頬に返り血を浴びながら、最初に言うことがそれだった。


「まだ戦は終わっていない!」


「されど今日は不思議なもので、腹が減りませなんだぞ!」


「何の話だ」


「大垣から駆け通しだというのに、飯があり、水があり、途中には熱い汁まであった。槍を合わせる頃になっても腹の虫が鳴かぬ。こんな戦は初めてじゃ!」


 すぐ後ろを走っていた虎之助が、市松の背を槍の柄で叩いた。


「ありがたかったのは、先にも飯があると分かったことです」


「腹が減らぬことではなく?」


「今ある一つを、後のために残さず食えまする。水を見つけるたび、隊を離れる者も出ませぬ」


「難しい話はよく分からんが。腹が減らぬと、槍もよく出る!」


「お前は飯がなくても出るだろう」


「虎之助! お主も人のことは言えぬぞ!」


「それで、勝ったのか」


「当然です!」


「勝家殿が退いただけだ!」


「では、北ノ庄まで追えば猪の肉でございますな!」


「話を大きくするな!」


「行くぞ、市松。褒美なら殿から取れ」


「孫七郎様の方が話しやすい!」


「それはそうだ!」


 二人は口喧嘩をしながら北へ消えた。


 後から、虎之助と市松だけではないと知った。


 加藤孫六、脇坂甚内、平野権平、片桐助作、糟屋助右衛門。秀吉麾下の若者たちが、我先にと敵陣へ槍を入れたという。


 彼らの名は、この戦のあと長く語られることになる。


 俺がその場で見たのは、握り飯を頬張り、草鞋を泥だらけにして、猪の肉の約束で喧嘩をする若者たちだった。

     ◇


 夕刻、追撃の兵を送り出した秀吉様が、木之本の補給所へ顔を出した。


 今度は馬から下りていた。


「勝ったぞ、孫七郎」


「おめでとうございます」


「何じゃ、嬉しくなさそうじゃな」


「嬉しいです。ですが、借りた釜が二十一、戸板が六枚。割れた桶が四つ。使った麻布の値はまだ常陸から聞いておりませぬ」


「勝った日の話がそれか!」


「誰かがしなければなりませぬ」


 秀吉は呆れた顔をしたあと、道の脇を見た。


 空になった筵。泥のついた椀。飼葉を食い散らかした馬。その向こうでは、僧と村人が傷兵の布を替えている。


「軍は止まったか」


「握り飯を奪い合って、少し。水場で一度。負傷者とぶつかって、もう一度」


「そうか二度か」


「次は、もっと減らします」


「次なあ」


「秀吉様が、これで終わりになさいますか」


 秀吉が笑った。


「ならぬな」


 北には、柴田勝家がいる。


 その先の北ノ庄には、お市様と三人の娘がいる。


 この勝利で、すべてが終わったわけではない。


 秀吉は、俺の肩を一度叩いた。


「虎之助や市松は、槍で稼ぎよる」


「はい」


「小一郎は羽柴の土台を支えておる」


「はい」


 秀吉が、空になった筵を見た。


「お前は飯か」


「飯だけではございませぬ」


「なに似たようなもんじゃ」


「まだ、叔父上から借りている役目にございます」


「ならば返すな。役目とはな一度つかんだら意地でも誰かにとられてはならんぞ」


 欲しかった言葉だった。


 兵糧と商人を扱う役目を、正式に俺へ渡すということだ。


「褒美は」


「今、役目をやったであろう」


「役目と褒美は別にございます」


「まったく誰に似たのだろうな」


 秀吉が笑いながら去っていく。


 照れくさくてあんただよとは口に出来なかった


 しかしもう少し確かな褒美の約束を取るべきだったかもしれない。


 支払い大丈夫かな。


 だが、その前に田上山から使者が来た。


「小一郎様より御下知! 残る兵糧を北へ回されたし!」


「どれだけだ」


「あるだけ、との仰せにございます!」


 常陸が俺を見た。


「二日の予備分は」


「それも、とのことにございます」


「若殿」


「分かっている」


 二日分の米は、叔父上自身が出せないようにした。


 俺か、爺か、常陸。そのうち誰かが印を据えなければ、蔵は開かない。


「……叔父上め」


「何と」


「最後だけ、俺に決めさせるつもりだ」


 残る二日分をすべて前へ出せば、北へ追う兵は食える。


 だが、追撃が止まった時、空腹の軍勢が同じ道を戻ってくる。


「一日分だけ出す。残り一日は動かすな」


「小一郎様の御下知に背くことになりませぬか」


「叔父上は、俺たちの印が要ると決めた。ならば、これは命令ではなく、俺たちへの問いだ」


 常陸が帳面を開いた。


「若殿のお名前で残しますぞ」


「頼む」


 俺は蔵役の差し出した紙へ印を据えた。


 帰るために残していた米の半分を、前へ出すことにした。


 釜の火は、朝から一度も消えていない。


 疲れ切った村の女たちが、また米を研ぎ始めた。


 俺も袖をまくった。


「次は、塩を忘れないでくれ」


 近くで聞いていた爺が笑った。


「そこからでございますか」


「秀吉様がうるさいのだ」


「大将へ出す飯より、兵へ出す飯を先になされませ」


「分かっている」


 北へ向かう道では、虎之助や市松たちが槍を担いで走っている。


 その後ろへ送る飯を、俺たちはもう一度炊き始めた。


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