第9話 勝ってからも大戦
勝ち戦のあと、最初に俺のところへ来たのは、首を取った武者ではなかった。
「戸を返してくだされ」
木之本の陣所で、農家の男が言った。
天正十一年四月二十四日。
賤ヶ岳の決着から三日。
俺たちが負傷兵を通すために借りた、納屋の戸の持ち主だった。
「新しい戸にして返すと約束した。戦が終わって九日以内に必ず返す」
「戦が終わってから、九日でございましたな」
「そうだ」
「北ノ庄は、まだ落ちておりませぬな」
「落ちていない」
「ならば、九日はまだ始まってもおりませぬ」
「……そうなる」
「戦が今日終わったとしても、その九日のあいだ、納屋には戸がございませぬ」
男は怒鳴りもしなかった。
ただ、ひどく眠そうだった。
「夜は、誰かが見張っておるので」
「見張らなければ、鶏や道具を盗まれるかもしれませぬ。雨が降れば、中の藁も濡れまする」
期日までに返せば約束は守ったことになる。
だが、この男はその日まで毎晩、戸のない納屋を見張ることになる。
「常陸」
「聞いておりまする」
「木を売る者と、戸を作れる者を探してくれ。今日中に頼む」
「若殿」
「何だ」
「すでに探しております」
常陸が嫌そうな顔で帳面を開いた。
「戸板六枚。うち二枚は、まだ使えまする。残り四枚は馬に踏まれ、薪よりほかに使い道がありませぬ。大工は二人、木は坂本屋が押さえております」
「なら、今日作れるのか」
「銭が出れば」
そこが問題だった。
北へ追う兵には、まだ米も銭も要る。
柴田勝家は北ノ庄へ退き、秀吉様の軍勢がそのあとを追っている。勝ったとはいえ、軍はまだ解けていない。
俺が返事に詰まったところへ、北からの使者が駆け込んできた。
「北ノ庄、落城にございます!」
陣所の中が静かになった。
「柴田殿は」
「お市様とともに、城にて御最期を」
「三人の姫は」
「助け出されたとの由にございます」
知っていた結末だった。
柴田勝家とお市様は死ぬ。茶々、初、江の三人は生き残る。
それでも、知っていることと、いま人の口から聞くことは違った。
農家の男が、遠慮がちに口を開いた。
「では、戦は終わったのでございますか」
「……ひとまずは」
「ならば、戸も作っていただけますな」
この男にとって、北ノ庄の落城は納屋へ戸が戻る日だった。
「今日、作らせる。暗くなるまでに間に合わなければ、見張りの者をこちらから出す」
「かたじけのうございます」
男は、勝家の死を聞いた時より深く頭を下げた。
◇
戸の男を帰すと、次の者が入ってきた。
釜を貸した寺の僧だった。
その次は、井戸を使わせた村の庄屋。
桶を割られた女。飼葉を出した馬持ち。負傷兵を運んだ人足。夜通し飯を炊いた者。麻布を運んだ坂本屋の手代。
勝った軍の後ろには、長い列ができていた。
誰も敵の首など持っていない。
代わりに、割れた桶や煤けた釜、泥のついた草鞋を持っている。
「釜が一つ足りませぬ」
僧が言った。
「割れたのでは」
「割れた釜は二つ。足りぬのは、それとは別にございます」
「常陸」
「こちらの控えでは、借りた釜は二十一。戻したものが十八。割れたものが二つ」
「一つ足りないな」
「ですから、そう申しておりまする」
常陸の機嫌が悪い。
昨日まで、首と怪我人と兵糧を数えていた。今日は釜と桶を数えている。
「どこへ行った」
「北へ送った汁の釜へ、羽柴の印を付けた者がおります。陣の釜と間違えて、そのまま北ノ庄まで運ばれたのではないかと」
「取りに行かせるか」
僧の顔が引きつった。
「新しいものを返します」
「それがよろしいかと」
常陸まで即答した。
北ノ庄まで釜一つを追わせれば、釜より人の飯代の方が高くつく。
「若殿」
爺が廊下から顔を出した。
「外をご覧くだされ」
「まだいるのか」
「増えておりまする」
庭へ出ると、門の外まで人が並んでいた。
その向こうには、別の列がある。
敵の首を持った武者、槍傷を見せる足軽、討ち取った相手の名を証す者。こちらは恩賞を求める列だ。
釜の列と、首の列。
どちらも、勝った羽柴へ支払いを求めている。
「同じところへ並べたのは誰だ」
「若殿にございます」
「俺か」
「勝ったあとのことは、すべてこちらへ持ってこいと仰せでしたので」
確かに言った。
言った覚えがあるから、叱る相手もいない。
俺は列の先頭を見た。
首を抱えた武者の隣で、村の老婆が割れた椀を持っている。
「分けよう」
「何を基準に」
「約束した銭を受け取る者と、働きの褒美を求める者だ」
「米を運んだ武士は」
「働きの褒美だ。ただし、馬代や運び賃を約束していたなら、そちらは先に払う」
常陸が、ますます嫌そうな顔になった。
「一人が、二つの列へは並べませぬ」
「二度並んでもらおう」
「揉めますぞ」
「今のままでも十分揉めている」
老婆の後ろで、首を抱えた武者が先に見ろと怒鳴り始めていた。
俺は庭へ下りた。
「敵の首を持ってきた者は右へ! 米、薪、釜、馬、人足の銭を受け取りに来た者は左へ並んでください!」
「両方ある者は!」
「先に左だ! 借りたものから返す!」
右の列から不満の声が上がった。
「我らの手柄が、釜より後でございますか!」
「釜を借りた時には、返す日を約束した。お前の褒美は、秀吉様がこれから決める!」
「いつ決まります!」
「そんなもの俺が知りたい!」
怒号は鳴りやまぬ中、ようやく列は、二つに分かれ始めた。
◇
北ノ庄から戻った秀吉様を捕まえたのは、その後だった。
常陸の控えを抱え、俺は羽柴の陣所へ乗り込んだ。
「戦に勝ったのに、借りが増えておるではないか」
秀吉様は、常陸がまとめた控えを一枚めくっただけで言った。
部屋には、首の覚えと感状の下書きが積まれている。
その端へ、俺は釜と桶と米の代を書いた紙を置いた。
「勝つためにできた借りです」
「北でずいぶん使った。まだ軍を解いたわけではない。村には少しくらい待たせよ」
「分かっております」
「ならば待たせよ」
「次の戦も、待たせた相手から借りねばなりませぬ。しからば相手を待たせれば待たせるほど羽柴の損にございます」
「次もあると決めておるのか」
「ありませんか」
秀吉様は答えなかった。
代わりに、紙の一番下を指で弾いた。
「戸板六枚。何じゃ、これは」
「負傷兵を通す道に敷きました」
「戸まで道にするな」
「道がありませんでしたので」
「なければ作れ。与右衛門がおったであろう」
「その与右衛門が、戸を使えと」
「あやつめ」
秀吉様が笑いかけ、すぐに顔を戻した。
部屋の端で、爺が小さく息を吐いた。
常陸は帳面から顔も上げない。
「叔父上。今回、村へ頼みに回ったのは爺です。あの者たちは、私の名より爺の顔を信じて釜と米を出しました」
「それがどうした」
「払わなければ、爺の名に泥を塗ります」
「ワシは老い先短いゆえ、少しくらい泥が付いても構いませぬぞ」
「爺は黙っていてくれ」
「はい」
秀吉様が鼻を鳴らした。
「お前の褒美から出せ」
「まだ頂いておりませぬ」
「役目をやった」
「役目は銭になりませぬ」
「賤ヶ岳では、役目をやったと喜んでおったではないか」
「今日は支払いの話をしております」
「面倒な奴じゃな!」
秀吉様が控えを放り出した。
「どれだけあれば、約した日までに払える」
常陸が初めて顔を上げた。
俺ではなく、常陸が金額を答える。
その数を聞いて、秀吉様の片眉が上がった。
「高すぎる」
「戦の最中に決めた値にございます」
「誰が決めた」
「私です」
「ならば、お前が払えばよかろう」
「でしたら、私の褒美をください」
しばらく、誰も喋らなかった。
秀吉様が先に吹き出した。
「半分は出してやる」
「全部」
「半分じゃ」
「いえ全部頂くまで退けませぬ」
また沈黙が落ちた。
「小一郎!」
秀吉様が怒鳴った。
廊下の向こうから、秀長が顔を出した。
「聞こえております」
「お前の甥を何とかせい!」
「兄者の甥でもありまする」
「ならば半分ずつ何とかせい!」
秀長が俺の前の控えを見た。
「兄者。その半分は、いずれにせよ羽柴が払う銭です」
「分かっておる!」
「であれば同じこと、潔く全部お出しなされ」
「二人して、わしから銭を取るのか!」
「殿が始めた戦です」
「北ノ庄まで追えと申されたのも兄者です」
秀吉様は俺と秀長を順に睨んだ。
「払え! ただし、一文でも余計に出してみよ。孫七郎、お前の褒美から三倍取るぞ!」
「褒美は頂けるのですね」
「そこだけ聞くな!」
秀吉様の怒鳴り声は、外の二つの列まで聞こえたらしい。
庭から歓声が上がった。
◇
銭を出すと決まっても、仕事は終わらなかった。
むしろ、そこからが長かった。
桶を割ったのは誰か。
飼葉はどの村から何束出たのか。
飯を炊いた者は何人で、夜中まで残ったのは誰か。
若江衆の一人、森九兵衛を呼んだ。
「九兵衛」
「はっ」
「この名の者を知っているか」
「水桶を守っていた男にございます。羽柴の足軽に桶を奪われかけ、殴られても離しませなんだ」
「怪我は」
「頬を腫らしただけでございます」
「それを本人にも聞いてくれ」
「疑われますか」
「褒めるためだ。殴られたところまで記録に残しておけ」
九兵衛が、少し妙な顔をした。
「首は、取っておりませぬぞ」
「水桶を取らせなかった」
「それが手柄でございますか」
「ああ立派な手柄だ」
九兵衛は紙を持って出ていった。
入れ替わりに、大場殿が入ってきた。
「水桶の番にまで、褒美を出されるとか」
「不満ですか」
「いいえ」
大場殿は座ったまま、膝へ両手を置いた。
「我らの働きを、戦働きではないと一蹴されるのかと思っておりました」
「槍を交えただけが戦なら、私は何もしていません」
「若殿は、あの道におられました」
「飯を渡し、道で怒鳴っていただけです」
「それを戦と仰せになるので」
「秀吉様には、飯係だと言われました」
大場殿の口元が、わずかに動いた。
「では、我らも飯の働きをしたことにしておきましょう」
「その飯の働きを、次からも頼みたいのだ」
笑いが消えた。
「三好のもとへ戻られますか」
「そのつもりでございました」
「今は」
「若殿が、我らへ何を出されるか見てからでも遅くないかと」
「何を見出すかですか」
「ええつまりはお役目です」
今度は、俺が黙る番だった。
この男は、褒美の額をねだるのではなく、この先も自分たちの働きを戦として扱うかと聞いている。
「兵糧と道を扱う役目を殿より正式にいただきました」
「存じております」
「私には、近江の道を知る者も、荷を守る者も、報せを運ぶ者も足りません。大場殿たちが残ってくださるならできる限りの扶持を出します」
「槍働きは」
「必要ならお願いします。ただし、槍より水桶が大事な時にはこれからも遠慮なく水桶を守っていただきます」
「またでございますか」
「嫌なら、若江へ戻られて構いません」
大場殿はしばらく俺を見た。
「まずは、次の役目が済むまで」
「次が何か、まだ決まっていません」
「ならば、決まるまでにございますな」
それが長いのか短いのかは分からなかった。
ただ、大場殿は若江へ帰るとは言わなかった。
◇
約束の九日目。
坂本屋新右衛門は、朝一番に来た。
「早いな」
「支払いの日に遅れる商人はおりませぬ」
「殊勝なこころがけだな」
「ええそれは。信用にかかわりまする」
常陸が銭箱を開けた。
坂本屋は一枚ずつ改めた。
米。味噌。麻布。薪。釜。運び賃。危ない道へ手代を出した分。朝から叩き起こされた分まで、きっちり入っている。
「一文残らずあるか」
「はい」
「少しくらい、まけてもよいぞ」
「何を仰います」
「言ってみただけだ」
「聞かなかったことにいたします」
坂本屋は銭箱の蓋を閉じた。
「次も頼む」
「もちろんお値によります」
「そこは変わらないのか」
「変えては近江商人の名が泣きまする」
新右衛門は銭箱を供の者へ渡し、いったん帰っていった。
やはり、一文もまけてはくれなかった。
◇
その日の夕方。
木之本の寺の門前から、味噌とも酒とも違う匂いが流れてきた。
「猪の匂いだな」
「味噌で煮ておりますな」
俺と常陸は、同時に顔を上げた。
庭へ出ると、爺が待っていた。
「若殿。お約束の猪が届いておりますぞ」
「俺は頼んでいない」
「市松殿は、頼んだつもりでおられるようですが」
寺の門前では、大鍋が三つ火に掛けられていた。
猪肉と根菜を味噌で煮た汁が、湯気を上げている。酒樽も開いていた。
飯を炊いた女たち。荷を担いだ人足。馬借。船頭。寺の僧。
あの、戸を外された農家の男までいる。
「戸はどうだ」
「日暮れ前に付けていただきました」
「それはよかった」
「ただ、前の戸より少し重うございます」
「丈夫になったと思ってくれ」
「毎夜、開け閉めするのはワシでございます」
口では不満を言っているが顔は喜びを隠せていない。
そして鍋の前には、新右衛門がいた。
「これは何だ」
「猪汁にございます」
「見れば分かる。頼んだ覚えはないぞ」
「私がご用意しました」
「さっき持って帰った銭でか」
「あれは米と働きの対価にございます。これは、その商いで得た私の利から」
「なぜだ」
新右衛門が、鍋の周りを見た。
「あの者どもへ、次も働いてもらうためにございます」
「次のためか」
「夜中に起こされ、戦の道へ米を運び、それで儲けを一人だけ懐へ入れれば、次からは誰もついては来ませぬ」
「ずいぶん使ったように見えるぞ」
「猪は二頭。酒は三樽。手間賃まで入れても、頂いた利のすべてではございません」
「きちんと残るのだな」
「当然でございます」
そこは、やはり新右衛門だった。
「せめて半分、払おう」
「要りませぬ」
「俺が約束した猪でもある」
「若殿は、約束した米と運び賃を払われました。ここから先は、坂本屋の大盤振る舞いにございます」
「商人が奢るのか」
「奢ったことにしておいた方が、皆が喜びます」
「本当は」
「次の荷の仕入れが安うなります」
新右衛門が笑った。
人を喜ばせたうえ、次の商いまで取るつもりらしい。
「孫七郎様!」
人垣の向こうから、市松が走ってきた。
虎之助もいる。
「猪は、本当にあったではないか!」
「新右衛門の奢りだ」
「誰でもよい! 食ってよいのであろう!」
「働いた者からだ!」
「ならば我らが先でございますな!」
市松はもう椀を持っている。
「飯を炊いた者が先です」
虎之助が、市松の襟を掴んだ。
「虎之助、放せ! 猪が沈む!」
「お前が取ったから沈んだのだ!」
鍋の周りで笑いが起きた。
新右衛門は自分では椀を取らず、酒の減りと鍋へ並ぶ人数を見ている。
あれも商人の戦なのだろう。
「孫七郎」
振り返ると、秀長が立っていた。
「叔父上。今日は召し上がりましたか」
「まだ何も申しておらぬ」
「召し上がっておられませんね」
「先ほど握り飯を一つ」
「それは飯ではなく、つまみ食いです」
「お前は最近、わしの膳に厳しすぎぬか」
「九年を十年にしたいので」
「その一年のために、会うたびに小言に付き合わねばならんのか」
「できれば、その先ももっとずっと」
秀長は諦めたように息を吐き、猪汁の椀を受け取った。
「それで、何か御用でしたか」
「ああこれを渡しに来た」
秀長が脇に抱えていた書状の束を、俺へ差し出した。
「何ですか」
「兵糧、運送、商人、村への支払い。兄者へ上げる前に、わしのところへ来ていたものじゃ。約束通り兵站と商人に関わる仕事はすべてお主に託そう」
「全部ですか」
「全部じゃ」
受け取ると、見た目より重かった。
「叔父上の仕事を減らすのは賛成ですが、私の仕事が増えすぎでは」
「役目は、一度掴んだら誰にも取られるなと兄者に言われたのであろう」
「それでは叔父上も寂しいでしょう。少しくらいは――」
「ならぬぞ」
秀長は椀の中から猪肉を一切れ取り、ようやく口へ入れた。
「うまいな」
「新右衛門の奢りです」
「ほう。あの男が」
新右衛門の耳は、離れていてもよく聞こえるらしい。
「次も御贔屓に!」
門前に声が響いた。
「次も頼むぞ!」
俺が返すと、新右衛門は深く頭を下げた。
「次のお値は倍にございます!」
「今のは取り消す!」
猪汁を食べていた者たちが、一斉に笑った。
ようやく戦が終わったのだと実感できた。




