第7話 二万の大将
「二万?」
聞き返すと、秀吉は地図から顔を上げた。
「集まり切れば、それに近くなる」
天正十一年正月。
滝川一益が、北伊勢で兵を挙げた。
北には柴田勝家がいる。その味方をする一益を放っておけば、羽柴は南と北から挟まれる。雪が深く、勝家が越前から動けないうちに、伊勢の滝川方を押さえなければならない。
そこまでは分かる。
分からないのは、その先だった。
秀吉は、近江から北伊勢へ三本の線を引いた。
「小一郎は筒井、稲葉らと土岐多羅越。わしは安楽越」
残った真ん中の線を、扇の先で叩く。
「お前は孫平次と江州中郡の衆を連れ、大君ヶ畑を越えよ」
「私が?」
「お前が」
「この前まで、米俵を運んでいたのですが」
「お前は一門衆なのだ。いつまでも米運びというわけにはいかん」
秀吉は簡単に言った。
中村孫平次一氏と江州中郡の衆を付ける。河内から来た大場殿たちも連れていけ。鳥居本方面から犬上郡へ入り、大君ヶ畑を経て伊勢へ出ろという。
孫平次殿の軍について、軍役を学ぶだけだと思っていたのだが。
「大将は誰です」
「もちろん、お前じゃ」
「中村殿ではなく」
「孫平次はあくまで副将。三本ある道の一本を預かる軍の大将は、三好信吉じゃ」
後ろにいた叔父上へ目を向けた。
「聞いておりませぬ」
「今、聞いたであろう」
逃げ道まで塞がれた。
叔父上が言った。
「与右衛門を連れていけ」
「よろしいのですか」
「前にもお前と働いておる。知らぬ者を付けるよりいいだろう」
「叔父上の方は」
「一人抜けたくらいで動かぬ軍なら、わしの方が問題じゃ」
出陣前、俺は叔父上と長浜の蔵へ入った。
湖から来た米と、東の道を越えた米は、混ぜずに積まれている。
味噌は別の蔵にあり、薪は城外に置かれていた。飼葉は馬を替える場所へ先に届いている。
「これで十日か」
叔父上が聞いた。
「十二日分ございまする」
蔵役が答えた。
「ただし、特別に許可しない限り二日分の備蓄は絶対に出してはいけません」
俺が言うと、蔵役が困った顔をした。
「あるのにでございますか」
「そうです」
「伊勢へ持っていかぬのか」
叔父上が聞いた。
「伊勢へ運ぶ米は別に用意します。これは北へ戻る兵と、帰る兵のためです」
勝っても負けても、兵は帰らねばならない。
最後の米まで前へ出せば、帰り道で腹を空かせる。その時に襲われるのは、敵の城ではなく、道中の村だ。
叔父上の顔から笑みが消えた。
「蔵役。二日分は、孫七郎か、将右衛門、常陸介のいずれかの印がなければ出すな」
「叔父上の印は」
「わしは、仕事を減らすところから始めるのであろう」
清洲の夜の話を覚えていたらしい。
「はい」
「嬉しそうな顔をするな。腹が立つ」
「効いていますね」
「その言い方もやめよ」
◇
閏正月。
集まり切れば二万近いという数は、聞けばそんなもんかと思っていたが、
鳥居本へ集めてみると、列の終わりが見えないほどだ。
先頭の旗が街道へ出ても、後ろではまだ具足を締めている者がいる。槍を持つ足軽の間へ、鉄砲、弾薬、鍋、米、薪、飼葉が続く。馬の口を取る者もいれば、俵を運ぶ人足もいる。
一万を超す兵を動かすために、兵だけでは数えられないほど多くの人と物が道へ出ていた。
「若殿」
中村一氏が馬を寄せてきた。
太い眉の下から、こちらを遠慮なく見ている。秀吉の甥だから上へ置かれた若造が、どんな無茶を言うか量っている顔だった。
「出立の順を決めていただきたい」
「中村殿なら、どうします」
一氏が一度だけ瞬いた。
「先に軽い兵を出します。荷駄を挟み、その後ろへ次の備えを。峠へ一度に入れれば詰まりまする」
「では、それで」
「よろしいので?」
「私は二万近い軍勢を率いたことがありません。先達に倣う方がかしこいでしょう」
「若殿が大将にございますぞ」
「だからです」
一氏は少し黙ったあと、各隊の頭を呼んだ。
大場殿には河内勢をまとめてもらった。与右衛門には先へ出て、道の幅と雪、馬を休ませる場所を見てもらう。
俺は中央に置かれた。
周りには旗が立ち、使者が控え、馬廻りが囲む。前へ出ようとすれば誰かが先に道を空け、後ろを見ようとすれば旗まで向きを変えた。
大将らしいと言えば大将らしい。
ただ、ひどく窮屈な行軍だ。
夜明けに先手が鳥居本を出た。
最後の隊が動き始めた時には、もう日が高い。先の兵が最初の休みを取る頃、後ろではようやく出立の鬨を上げていた。
「全軍、出ました」
そう報告された時にも、先頭がどこにいるのか俺には見えなかった。
一つの軍と呼ぶのは簡単だ。
だが実物は、同じ時に出発することさえできないほど長かった。
◇
大君ヶ畑へ向かう道は、雪解けの泥を抱えていた。
昼前、先から使者が戻った。
「道は開いております。先手、滞りなく進んでおりまする」
「ならば、少し急がせてください」
伊勢へ早く入れば、それだけ滝川方へ備える暇を与えずに済む。
初陣ではない。だが、二万近い軍勢を預かった大将として、何もせず着いただけでは格好がつかない。せめて進軍くらいは早くしたかった。
半刻ほどして、後ろから与右衛門が来た。
泥が具足の膝まで跳ねている。
「若殿。先を止めてくだされ」
「前は順調に進んでいると聞きました」
「進んでおります」
「ならば」
「後ろが着いて来ておりませぬ」
振り返った。
すぐ後ろには兵がいる。旗もある。荷駄も見える。
「どこが止まった」
「二つ後ろの谷で、馬がぬかるみへ脚を取られました。避けようとした荷駄が道を塞いでおります。その後ろは、どこまで詰まったかまだ分かりませぬ」
先頭は進んでいる。
俺の周りも動いている。
それなのに軍の後ろ半分は、山の向こうで止まっていた。
「中村殿」
「先手を大君ヶ畑の手前で止めましょう。大場殿の兵を荷駄へ。全員で助けに行けば、今度は谷が人で埋まります」
「お願いします。与右衛門は、荷を道から外せる場所を探してください」
出したばかりの急げという命令を、今度は止まれに変えた。
大場殿が河内勢を分け、縄と丸太を持たせて後ろへ送る。一氏は先手が勝手に進まないよう、隊ごとに止める場所を決めた。
詰まりが解けたのは、日が傾き始めてからだった。
急がせたせいで、半日遅れた。
戻ってきた大場殿が、焚き火の前へ腰を下ろした。
「後ろの者は、何と」
「若殿は先だけ連れて伊勢へ行くおつもりか、と不満を漏らす兵もおるようです」
「そのように見えましたか」
「先頭の旗は見えませぬ。前へ進めという声だけ後ろへ届けば、そう思う者もおりまする」
俺には前からの報せが来る。
後ろの兵に届くのは、命令だけだった。
「怒っていましたか」
「どうでしょう」
「士気にかかわりなければよいが」
「まあ腹が膨れれば不満などは萎みます。食えば、明日までには忘れましょう」
大軍では、先頭が進むことと、軍が進むことは別らしい。
その日の夜、俺は出立の順を書いた紙を見直した。
紙の上では、すべて一行ずつ綺麗に並んでいた。
◇
伊勢へ入ると、滝川方の小勢が俺たちの前から退いた。
山裾を二百ほどの兵が走っていく。
「追いますか」
一氏へ聞いた。
「追うことはできます」
「ならば――」
「戻れるかは別にございます」
一氏は、敵が消えた道の先を指した。
左右から山が迫り、その間だけ道が細い。さらに先は峯城からも見えるという。
「あの先で止められれば、後ろの兵は横へ広がれませぬ」
「伏せていると」
「分かりませぬ。某なら、伏せます」
追えば手柄になる。伊勢へ入った初日に敵を追い散らせば、周りも俺をただの飾りとは見なくなる。
「与右衛門。少数の兵を連れて見てきてください」
「追わぬので?」
「戻れなくなるのは困ります」
与右衛門と数人が山へ入り、夕方に戻った。
「道の脇に、人が伏せた跡がございます。火縄の灰も。何人いたかまでは分かりませぬ」
一氏は勝ち誇らなかった。
「明日は、あの道を使わず南へ回します」
俺も、追っていればどうなったとは口にしなかった。
◇
二月。
峯城の周りには、すでに戦の匂いが溜まっていた。
焼けた草。掘り返された土。湿った火薬。城へ逃げ込めなかった者の家には、人の代わりに兵が入っている。
城を守るのは、滝川儀太夫益重。
滝川方は城と周辺の要所を固めていた。高い山城ではないが、斜面を登った先には土塁と堀があり、攻め手が並べる場所は限られている。
俺たちは峯城を囲む諸勢へ加わり、道と集落を押さえた。城は、山を越えてきた大軍の旗を見たからといって、その日に門を開けはしなかった。
「これだけいれば、力押しで落とせるのでは」
城を見上げながら言うと、一氏は首を横へ振った。
「二万おっても、二万で一度に攻められるわけではございませぬ。あの斜面へ並べるのは一部だけ。残りは替えの兵となり、道と荷を守りまする」
実際の攻城は、槍だけでは始まらなかった。
鉄砲と火矢で城兵の頭を下げさせ、その間に木材を運ぶ。鋤、鍬、玄翁、鶴嘴で仕寄せを前へ伸ばす。槍を持つ兵より、人足の列の方が長く見えた。
翌朝から、報告が続いた。
「右手の林から敵が出ました」
「中村殿へ。追いすぎぬよう伝えてください」
「前の鉄砲組、弾が足りませぬ」
「後ろの組から半分回す。残りはいくつか控えさせて」
「手負いが戻っております」
「荷駄と同じ道へ入れるな。大場殿、村の裏へ下がる道を見てください」
答えるたび、別の使者が来る。
城の近くでは槍がぶつかる音がする。鉄砲が鳴るたび、腹へ低く響いた。
周りには落ち着いてみせているが、手には汗。膝も貧乏揺すりを止めるので精いっぱいだ。
昼を過ぎた頃、前から大きな鬨の声が上がった。
「敵の砦が一つ落ちました!」
使者の声を聞いた瞬間、立ち上がっていた。
「前へ出る」
馬を出すと、旗持ちも馬廻りも続いた。
柵が見えるところまで来た時、後ろから別の使者が追いついてきた。
「若殿! 左手の兵が押されております!」
続いて、もう一騎。
「後ろの鉄砲組より――」
鉄砲が鳴った。
二人の声が重なり、どちらも最後まで聞き取れない。
振り返ると、本陣にいたはずの使者も慌ててこちらへ走ってきていた。
俺が前へ出たからだ。
報告を持ってきた者は、大将のいる場所まで来る。
俺が動けば、報告の集まる場所まで動く。
前では城が見える。
その代わり、軍全体が見えなくなった。
「戻る」
「よろしいので?」
「ここにいては全体が見えない。前線で勇ましく攻めかかるのだけが将の仕事ではないらしい」
元の床几へ戻ると、前線だけでなく、左右や後ろの兵からの報告もまた俺のところへ集まる様になった。
その後、俺が槍を取る事はなかった。
◇
夕刻が近づいた頃、一氏が前から戻ってきた。
肩の具足に泥がつき、頬には細い傷があった。
「もう一押しできます」
「城へ入れますか」
「二の丸までは間違いなくなだれ込めるかと」
大場殿も続いた。
「河内の者も、まだ動けまする」
攻めたかった。
ここまで来て、取ったのは城外の砦一つだけだ。一軍を預かって、俺自身は槍も使っていない。もう一つ取れば、少なくとも何をしに来たのかは形になる。
そこへ与右衛門が戻った。
「兵站に遅れが出ております。山陰は、もう道が凍り始めました」
「前の兵の飯は」
「今日明日でどうこうなるわけではありません。ですが、継戦を考えるのでしたら不安はありまする」
別の使者が、右手の兵は水を飲ませるため交代させたいと告げた。
前だけを見れば、どんどん前へ攻められる。
だが軍全体には、朝から戦った兵と、遅れ始めた荷と、凍り始めた帰り道があった。
「今日は、ここまでにしよう」
一氏が俺を見た。
「よろしいので?」
「取った砦は死守。前の兵を一つ下げて、まだ戦っていない組と替えてください。右手にも予備を置く。手負いと空の荷駄は、道が凍りきる前に後ろへ」
「敵が退けば」
「今は追わない。明るくなってから、立て直しだ」
自分で言いながら、惜しかった。唇に少し血がにじむのを感じる。
一氏は短く頭を下げ、前へ戻った。
日が山へ隠れてから、滝川方が右手の林から出てきた。
そこには、交代したばかりの兵がいた。最初の鉄砲を伏せて受け、近づいたところへ槍を出す。大場殿の兵も横から加わり、暗くなる前に敵は城へ退いた。
もし、安易に前に出る選択をしていたら、右手の兵は崩れていただろう。
だから俺の判断が正しかった、と言い切る気にはなれなかった。
敵が出てこなければ、ただ攻め時を逃しただけだったかもしれない。
たらればを考えても仕方がないのだ。
◇
「こちらの損は」
夜、陣へ戻った一氏へ聞いた。
「討死、三十余。手負い、軽重の差はありますが、百二十ほどにございます。手負いは、まだ増えるかもしれませぬ」
三十人。
二万のうちのたった三十人、と考えかけてやめた。
今朝、その三十人も大軍の中にいた。
冬に八千人の兵糧を計った時、一日に必要な米は四十石だった。
この冬までの俺なら、兵の数をまず米の量に換算していた。
だが、減った三十人を米の量には直せなかった。
床几の横には、朝から結局一度も使わなかった槍がある。
俺が一人斬っても、一万を超す軍は動かない。
だが、選択を一つ間違えれば全軍が混乱する。米が一日遅れれば、全軍が腹を空かせる。疲れた兵を替えなければ、空いた場所から敵が出る。
槍で名を上げる将は格好いい。
少し未練もあるが。
「中村殿」
「何でございましょう」
「次も、前をお願いできますか」
一氏がこちらを見る。
「若殿は」
「私は本陣にて軍全体を見ます」
「その方が助かりまする」
褒められたわけではないのは分かる。
だが、俺という大将はそれでよいのだ。
◇
翌日も攻めた。
鉄砲を撃ち、火矢を放ち、土を掘った。前の兵が疲れれば後ろの兵と替えた。壊された仕寄せは、夜のうちに人足が直した。
それでも、峯城の門は開かなかった。
周りの拠点が一つずつ羽柴方へ傾いても、滝川益重の旗は城内に残っている。
敵も、こちらと同じだった。
城内の米と水を数え、傷ついた兵を下げ、崩れた場所へ次の兵を置いている。こちらが一日で終わると思えば、相手はもう一日立つつもりでいる。
「与右衛門」
「何でございましょう」
「明日の米は、無事届くか」
「届きまする」
「攻城の木と、鉄砲玉は」
「しかと道を見ております。遅れても、昼までには」
「ならば、明日も攻められるな」
二万近い軍勢を連れて山を越えた。
それでも、まだ一つも城は落ちなかった。
城を取るというのは、門を壊せば終わる話ではないらしい。
相手より一日長く、こちらの兵と米を立たせ続ける。
それも、戦だった。
峯城は、まだ落ちない。
華麗なる戦を描きたかったのですが、
ここで秀次は自分なりの戦の勝たせ方を少し掴んだ様です。
まだまだ城は落ちませんが、戦国の世に自分の居場所を見出した。
そんなお話




