第6話 兵糧は槍より先に着く
「荷は通りませぬな」
天正十年十一月。
藤堂与右衛門を叔父上から借りて、九日目。
近江から戻った与右衛門は、挨拶より先にそう言った。
脚絆には乾いた泥がこびりつき、草鞋は片方だけ新しい。途中で履き潰したらしい。
「道は」
「通ります」
「では、なぜ荷が通らない」
「道しかないからです」
与右衛門は地図へ指を置いた。
「山城から近江へ入り、湖の東を北へ向かいました。街道は生きております。大きな橋も落ちておりませぬ。一疋二疋の馬ならば、今も通っております」
「ならば、荷駄も通せるのではないか」
横で聞いていた大場が口を挟んだ。
「荷駄を百疋も続けて入れれば、三日目には止まりまする。宿は柴田方が先に押さえ、替え馬も足りませぬ。飼葉の値も上がっております」
「では、こちらで宿を押さえればよろしいので」
「宿だけでは足りませぬ。馬と飼葉、それに荷を一晩置ける蔵も要ります」
大場が俺を見た。
「河内側の蔵と人足は、三好の者へ声を掛けております。こちらから南の受け渡し場までは、某が揃えましょう」
「お願いします。与右衛門は近江で、荷が止まる場所を見てください。宿、替え馬、飼葉、船、蔵。誰へ話を通せば使えるかまで」
「承知しました」
叔父上が片眉を上げた。
「九日で返す約束ではなかったか」
「荷が通らぬと分かったところで返しては、何のために借りたのか分かりませぬ」
「九日増やす気か」
「まず七日」
「増えておるではないか」
「なるべく早く返します」
「返す気のある者の顔ではないぞ」
与右衛門は何も言わず、地図を見ていた。
道が壊れているなら、直すか別の道を使えばいい。
道はあるのに、使う馬も、休む宿も、食わせる草もない。その方が面倒だった。
「孫七郎」
叔父上が木札を一枚置いた。
「長浜が我らの手に戻ったとする。兵八千を十日置くと、米はどれだけ要る」
「兵だけなら四百石」
答えると、部屋にいた蔵役が顔を上げた。
「すぐ出るのか」
「米一石は千合。一人一日五合なら、八千人で四十石。十日で四百石です」
「では四百石を用意いたします」
「それでは途中で次々と飢えまする」
蔵役の顔が険しくなる。
「先ほど若殿が四百石と申されたのではないですか、間違いでもありましたか」
「叔父上は兵は八千へと申された。しかし城の中にはそれだけではない。荷を運ぶ人足は。馬丁は。使者は。怪我人へ食わせる粥は」
叔父上が木札をもう一枚置いた。
「入っておらぬ」
「ならば、その口を足します。米は十二日分。ただし二日分は、十日分と分けて置きます。馬の飼葉は米と別です」
俺は地図の上へ木札を並べた。
長浜だけに米を貯めてはなりませぬ。南に一つ、湖岸に二つ。兵が増えれば開く蔵と、最後まで開けない蔵とを分ける。
米を湖から運ぶなら、薪まで船へ載せる必要はない。薪は長浜に近い村から買う。飼葉は馬を替える場所へ置く。味噌と塩は米と同じ日に着かなくてもいいが、釜より後になってはいけない。
木札を置き直すたび、与右衛門と大場の目が地図の上を追った。
「これで、何日かかる」
叔父上に聞かれ、顔を上げた。
「米を持つ者と、船を出す者と、馬を替える者が今日決まれば、最初の荷は六日で動かせます」
「今日決まらねば」
「一日ずつ遅れます」
「それはそうだ」
「戦は待ってくれません」
与右衛門が、近江から持ち帰った紙を地図の脇へ置いた。
「坂本の米は、九日前より値が上がっております。柴田方の買い付けと、冬支度が重なったのでしょう」
「河内から出せる米だけでは足りぬか」
大場へ聞く。
「人足と蔵は揃えられます。ですが米まで河内だけで集めれば、値も上がり、北へ出すのも遅れましょう」
数は出た。
蔵も決められる。
肝心の米は、俺の都合のよい値では買えない。
実に分かりやすい壁だった。
◇
「近江の商人を呼ぶ。米を持っている者だけでは駄目だ。蔵と、船と、馬借へ顔の利く者がいい」
俺が言うと、爺が立ち上がった。
「心当たりがございまする」
「頼む。なるべく値の安い者を」
「約束の日に品を揃えられて、値まで安い者でございますな」
「いるだろう」
「いれば、近江一の商人になっておりましょう」
「二番手でも三番手でもいい必ず連れてきてくれ」
爺は笑って出ていった。
入れ替わりに、叔父上の近習が膳と書状の束を運んできた。
「小一郎様。昼餉にございます」
「そこへ置け」
叔父上は椀を引き寄せると、汁をすすりながら書状を開いた。
「叔父上」
「なんだ食っておるぞ」
「飯を召し上がるようになったのは、大変結構ですが」
「ならば黙っておれ」
「次に叔父上の近習に申すことが増えました」
「増やさんでもいい」
近習が笑いを堪えている。
少なくとも、飯は食うようになった。
叔父上の近習からの密告はまだ一度も受けていない。
懐が痛まぬまま叔父上の食事が改善している。よいことだ。
俺は書状の束へ手を伸ばした。
丹波からの訴え。山城の普請。兄者へ上申する恩賞の控え。その間に、近江の米と船についての書状まで混じっていた。
「これは私へ回す約束です」
「わしが一度見てから渡すつもりじゃった」
「それでは叔父上の仕事が減りませぬ」
「お前にすべて分かるのか」
「分からぬところをまとめるのも私の仕事です」
「今聞けばよかろう」
「今日はもう十分叔父上は働かれました」
兵糧と商人の書状を抜き、常陸へ渡した。
「若殿。これは小一郎様の書状では」
「今日から私の書状だ」
「ずいぶん強引ですな」
「この数月で図々しくなったそうだぞ、俺は」
「誰にそんなことを申されました」
「叔父上が」
当の叔父上は、俺と常陸を睨んでいる。
「決めたことと、私では決められぬことを、まとめて明日の朝にお話しします」
「わしの仕事を奪って、朝からまた仕事を持ってくるのか」
「たまには共に朝餉でも囲みましょう」
「こんなことで本当に病を防げるのか」
「まあ、よいではありませんか。叔父上には一刻でも半刻でも長く生きてもらわねば困ります」
叔父上は大きく息を吐いたが、書状は取り返さなかった。
◇
爺が羽柴方の伝手で連れてきたのは、坂本屋新右衛門と名乗る近江の商人だった。
年は四十を越えているように見える。
細い身体に、よく動く目を持っていた。部屋へ入ると、俺より先に叔父上を見て、その次に爺を見た。
三好孫七郎という新しい名は、まだ商人に気を遣わせるほど重くないらしい。
「単刀直入に言う米を売ってくれ」
「近頃、そればかりでございます」
商人らしく愛想はよい。
しかしいかな羽柴家とは言え、決して言いなりにはならんと一分の隙も見せてこない。
それが近江商人として生きてきた男の矜持だといわんばかりの態度だ。
俺は地図を見せた。長浜の南に一つ、湖岸に二つ、印をつけている。
「まず南の蔵へ。長浜が開けば湖から北へ入れる。長浜がそれまでに落ちなければ、そこで荷を止める」
「止めた米は、どうなります」
「羽柴が買う」
「長浜のお城が開かずとも」
「買う」
新右衛門はそこで初めて叔父上を見た。
「当然銭は払おう」
叔父上が短く答えた。
新右衛門が示した値は、大場の報告にある相場よりさらに高かった。
「高いな」
「これから雪の中を、羽柴様と柴田様の間へ運ぶ値にございます。妥当な値かと」
「とても米の値ではない」
「運ぶ者の命も、馬も、失う荷の値も入っておりますれば」
「野盗に奪われても、商人の損か」
「我々の荷にございますれば」
「長浜が開かず、売り先を失っても」
「売った者の見込み違いでございましょう」
「雪で道が閉じても」
「それも、こちら持ちにございましょうな」
これでは米を買うのではない。
戦の危険を、全部新右衛門へ押しつけている。
高くなるのは当たり前だった。
「羽柴の印をつけた荷を、野盗が奪った時はこちらが払う」
新右衛門の目が止まった。
「先ほども言ったが、城が開かなくても、南の蔵へ入れた米は買う。雪で道が閉じた時は、知らせが届いた日までの運び賃を払う。その先は、別の道を一緒に探す」
「船が沈めば」
「あなたが選んだ船なら、全部は払えない。こちらが乗せろと命じた船なら、こちらで持つ」
「それを、どなたのお名前で」
俺が答える前に、爺が口を開いた。
「三好孫七郎様と、この前野将右衛門が請け負う。足らぬと申すなら、ワシの知行を当てにされよ」
「爺」
「ご自分の知行を持たぬ、若殿のお名前だけで米を出さぬのは、この者が真っ当な商人ということにございます」
少し悔しいが、そのとおりだった。
叔父上が、自分の印を押した紙を文机へ置く。
「兄者の戦へ使う。わしも据えれば否やはなかろう」
新右衛門は三人の顔を順に見た。
「先に半分いただきとうございます」
「多い」
「こちらも米を買い、蔵を借り、馬を雇いまする」
「三分の一。南の蔵へ入れた日に、もう三分の一。届いた俵を一緒に数えて、残りを払う」
「数が合わぬと仰せなら」
「あなたの手代と、こちらの者が同じ場所で数える。控えは双方で持つ」
「こちらの者とは」
「常陸」
常陸が顔を上げる。
「坂本屋の申告とこちらの数が違う時は、お主はどちらへ味方するのだ」
「もちろん数の合う方の味方です」
新右衛門が小さく笑った。
「怖い御方ですな」
「俺もそう思う」
常陸だけが笑わなかった。
新右衛門は最初に示した値から、少しだけ下げた。
まだ安くはない。
だが、人と馬を死なせず、次も同じ商人を使うためと考えればこの値なら払える。
「米は、この値で頼む」
「味噌と塩も、こちらで揃えましょう」
「いやそれは別の者へ頼む」
「信用いただけませぬか」
「信用するから米を頼むのだ。しかし全部は一人へ頼まぬ」
新右衛門は少し考えた。
「そうですか、では味噌を扱う者は紹介いたしましょう」
「口銭は」
「当然いただきます」
「取るのか」
「商いにございますれば」
新右衛門が、ようやく深く頭を下げた。
◇
米が動き始めると、与右衛門は再び近江へ出た。
宿の主、馬借、船頭へ話を通し、どこへ何疋の馬を置けるか、湖岸のどこなら荷を積み替えられるかを決めていく。
大場は俺の側へ残った。
連れてきた三人のうち、一人を河内の蔵へ、一人を人足集めへ走らせ、残る一人には近江から届く報せを運ばせた。俺が決めた数を、大場が三好の者へ役目として振っていく。
「我らに、俵の番をさせるとは思いませなんだ」
大場は不満を隠さなかった。
「槍も持って行ってくだされよ。奪われれば困る」
「さながら米問屋の用心棒でございますな」
「その米が着かなければ、槍を持つ兵も行かせられぬ」
「兵は来ましょう」
「腹が減れば、村の蔵を襲う野盗にもなるやも、という事を、我ら軍を預かる者は忘れてはならんのだ」
大場の口が閉じた。
山崎で見た兵を、俺は忘れていない。
奪うなと命じるだけでは足りない。奪わずに済む物を、先に置かなければならない。
「北の戦が終わるまで、頼みます」
「その頃まで、我らが残っておれば」
「残るかどうかは、見て決めてください」
「言われずともそのつもりです」
大場は頭を下げなかった。
だが翌朝には、三人をそれぞれの持ち場へ送り出し、自分は新しい報せを持って俺の横へ戻ってきた。
十二月。柴田勝豊が長浜城を羽柴方へ明け渡した。
城を開かせたのは秀吉の本軍である。
俺の役目は、取った城へ米を入れることだった。
その翌日、南の蔵から最初のまとまった荷を出した。
その翌朝、小橋が落ちた。
前夜の雨と融けかけた雪で沢が増し、道ごと持っていかれたという。
「迂回すれば、二日遅れまする」
報せを持ってきた男は、息を切らしていた。
「お前、名は」
「森九兵衛にございます」
「九兵衛。荷は」
「すでに出ております」
「南の受け渡し場で止めろ。湖へ回す」
「船が要りまする」
「もう頼みました」
与右衛門が部屋へ入ってきた。九兵衛よりひどく泥に汚れている。
「三艘、湖岸へ回しておりまする。坂本屋の手代と、以前から知る船頭へ話を通しました」
「俺の返事を待たずにか」
「待っておれば、船が柴田方へ取られます」
「うむ。よくやった」
与右衛門がわずかに目を見開いた。
「叱られるものと思っておりました」
「兵を待たせるくらいなら、道は変えていい。村から奪うのだけは駄目だ」
「値も決めてきてございまする」
「あとで見る」
「やはり、そこは御覧になりますか」
「当然だ」
三艘へ、米をできるだけ等しく分けた。一艘が止まっても、残り二艘は着く。
「与右衛門は船を。大場殿は、東の道へ回す馬と人を揃えてください」
全部を湖へ回さず、半分は東の坂道へ送った。馬の荷を軽くし、途中の蔵で一度休ませる。
最初に皆で立てた計画は消えた。
代わりに、与右衛門と船頭と大場たちが二つの新たな道を作った。
湖へ回した米は、翌日には長浜へ入った。
東へ回した荷は一日遅れたが、途中の蔵へ米を残した。北へ兵が増えれば、そこで渡せる。
小橋が落ちる前より、荷は一か所で詰まらなくなっていた。
その後、湖と東の二つの道から、何便も長浜へ荷が入るようになった。
◇
最初の荷が着いた日から、約束した相手への支払いを始めた。
坂本屋には約定の残りを、船方には船を返した日に、村には薪を受け取った日に払う。
羽柴方の役人は、戦が終わってからまとめればよいと渋った。
「まだ柴田殿との戦にもなっておりませぬ」
「だから今払う。戦が始まる前に、次の荷を出してもらうためだ」
「戦にならなければ」
「約束した荷は届いた。それで充分、商人の役目は果たされておる」
叔父上の印を見せると、役人はようやく銭を出した。
新右衛門は受け取った銭を数え終えると、懐から別の紙を出した。
「これは何だ」
「湖北で急に米を集め始めた蔵と、飼葉の値が上がった宿の一覧にございます」
「なんだ新たな売り物か」
「いいえ。今回はよい商売をさせていただきました。これは私から羽柴の若殿への投資です」
「そうか。これからも羽柴を頼むぞ」
「値によりますな」
「情報にも値をつけるのか」
「米より腐るのが早うございます」
紙には、見た者の名と日まで書いてあった。
新右衛門は、俺が何を知りたがるかまで覚え始めている。
兵糧は槍より先に着いた。
そして一度道ができれば、米以外のものまで、その道を通ってくるらしい。




