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豊臣秀次太閤記  作者: とこ


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6/13

第5話 今日より孫七郎

 宮部の名に筆が馴染んだころ、秀吉はその名を取り上げた。


 天正十年十月。


 俺は山城に置かれた羽柴方の陣所で、近江から届いた米の値書きを見ていた。


 同じ米でも、買う場所が違えば値が違う。運ぶ日が遅れれば、馬借へ払う銭も増える。商人の名と値段を紙の端へ書き、その下へ自分の名を記した。


 宮部次兵衛尉吉継。


 清洲から三月あまり、毎日のように書いてきた名だ。


 初めは、筆を持つたびに他人の名を書いているような気がした。今では吉の下から継へ移る手も止まらない。


 その文字が乾く前に、秀吉が言った。


「次兵衛。その名は今日までじゃ」


 聞かなかったことにして、値書きの続きを読もうかと思った。


 向かいに座る秀長が、諦めたように俺を見る。


「宮部を離れ、三好康長の養子となれ」


 やはり聞き間違いではなかった。


「清洲で仰っていた話は、それでございましたか」


「何じゃ。気づいておったか」


「また養子かとお尋ねしたではありませぬか」


「わしは、まだ何も申しておらぬと答えた」


「否定はなさいませんでした」


「そう言葉尻を取るようなまねをするな」


 清洲で何が足りないかを見ろと言ったのは秀吉だ。


 俺の養父が足りないとは思ってもみなかったが。


「返事は」


「嫌にございます」


 今回は、はっきり言えた。


 何の話かも分からないうちから嫌だとは言えない。だが、宮部を離れろと命じられて、喜べるはずもなかった。


 秀吉は怒らなかった。


「三好が嫌か」


「三好を嫌うほど知りませぬ。ようやく書き慣れた名を、また私の知らぬところで替えられるのが嫌なのです」


「そなたの名じゃが、そなただけのものではない」


「私が書く名です」


「羽柴の役に立ちたいともうしたのはお前だろう」


 秀吉の返しは早かった。


 腹は立つが、間違ってはいない。


「大名の子も、武家の養子も似たようなものじゃ。家を残すために入り、家をつなぐために出される」


「分かっております」


「分かっておる顔ではない」


「分かることと、腹が立つことは別です」


 秀長が小さく息を吐いた。


「兄者。次兵衛は、嫌だとは申しておりますが、断るとは申しておりませぬ」


「そうよ。こやつは、素直じゃないのお」


「私の名の話です。少しくらいは、ややこしくさせてください」


 秀吉が笑った。


「よい。ならば聞け。康長へ入るのは、三好の家へ婿入りして安穏と暮らすためではない」


「それだけは、最初から期待しておりませぬ」


「これ、話の腰を折るな」


 秀吉が机の上へ一通の書状を放った。


 阿波から堺を経て届いたものだった。


「右府様は、三七様を康長の養子になさるおつもりであった」


「そのまま四国へ?」


「総大将としてな。康長は先に阿波へ渡り、旧臣や縁者を集めておった」


「それが、本能寺で全て無くなった」


「そういうことじゃ。三七様は、もはや康長の養子にはなられぬ」


 渡るはずだった軍が消え、阿波では長宗我部元親が三好方を押し込んでいる。康長へ従った者も、次々と追われているらしい。


 秀吉の指が、阿波から河内へ動いた。


「康長は名と昔の縁を持っておる。じゃが、その名だけで阿波へ戻れるほど世は甘くない」


「そこで、私をお渡しになるのですか」


「渡すとは人聞きが悪い」


「では、お貸しになる」


「もっと悪い」


「養子に出すとは、そういうことでございましょう」


 秀吉は笑いを収め、書状の上へ指を置いた。


「康長は羽柴と切れられぬ。わしは康長の名で、河内と阿波に残る三好の者へ声を掛けられる」


「そして将来的には私を通して四国が殿の手に入ると」


「否定はせん!」


 まるで人の形をした証文である。


 そこまでは口に出さない分別くらいは持ち合わせているのだ


「康長殿には、どこまでお話しを」


「甥を養子に出す。よしなに頼む、と」


「それだけですか」


「それだけじゃ」


「怒っておられませぬか」


「まあおるじゃろうな」


「なぜ、先にお話しを詰めておかれないのです」


「詰めた話を持って行けば、お前に行かせる意味がなかろう」


 康長との面倒な話を、十四歳の俺へ丸投げしたらしい。


「どこまで約束してよろしいので」


「阿波一国を必ず返す、とは申すな。余計な言質は絶対とられるなよ」


「ほかには」


「康長が何を欲しがるか、まず聞け」


 清洲で俺へ与えられた役目と同じだった。


 自分で考えろ。よく見ろ。相手の話を聞け。


 そして失敗すれば、俺のせいになる。


「叔父上も来てくださるのでしょうか」


「わしは同席する」


「助かります」


「だが口は出さぬぞ」


「叔父上はケチですな」


「独りで決めるなとは申した。代わりに決めてやるとは申しておらぬ」


 清洲の夜の約束を、こういう時だけ叔父上はよく覚えている。


「分かりました。お受けします」


「嫌なのであろう」


 秀吉が面白そうに聞いた。


「成功した暁にはたんまりと褒美を期待しておりまする」


「それでよい」


 秀吉は満足げに頷いた。


 俺は机の上の値書きを畳んだ。


 最後に書いた宮部吉継の墨は、もう乾いていた。


 立ち上がった叔父上が、文机の脇に積まれた書状へ手を伸ばした。


 その向こうに、膳が置かれている。


 飯も汁も、手をつけた様子がなかった。


「叔父上。それは昼の膳ですか」


「そうじゃったか」


「召し上がっていないのですか」


「康長殿を待たせておる。戻ってからでよい」


 膳へ触れると、椀は冷え切っていた。


 清洲の夜も、叔父上の膳は冷めていた。


 この人が何の病で死ぬのか、俺は知らない。飯を抜かず、夜に眠れば助かるという証拠もない。


 それでも、この働き方が身体によいはずはなかった。


 見えているものを減らすところから始めるしかない。


「温め直して今すぐ食してください」


 近習へ膳を渡した。


「役目を果たす前から、わしへ指図するか」


「食べ終わるまで、康長殿のところへ参りません」


「そなたの養子入りであろう」


「ですから、私も咎めを受けてしまうでしょう」


 秀吉が声を上げて笑った。


「小一郎、食え。康長には、甥が叔父を飯抜きで連れて行けぬと申しておったと伝えればよい」


「兄者まで面白がるな」


 叔父上は嫌そうな顔をしたが、温め直された膳の前へ座った。


「それから、兵糧と商人に関わる書状は、今日から私へ回してください」


「役目を得た途端、それか」


「飯を食う暇もないのでしょう。あきらかにやりすぎです」


「わしの仕事を奪うつもりか」


「まず、その一束だけ」


「この三月で、ずいぶん図々しくなったな」


 叔父上は汁を一口飲み、俺を睨んだ。


「効いていますか」


「腹が立っておる」


 近習が笑いを堪えている。


「叔父上が膳へ手をつけず下げさせたら、私へ知らせてください。褒美を出します」


「目の前で、わしの近習を買収するな」


「食べてくだされば、私の懐も痛まずすみます」


 叔父上はもう一度俺を睨み、今度は飯へ箸をつけた。


 これで叔父上の寿命が変わるかは分からない。


 だが、これが無駄になることはないと信じてひとつひとつ積み重ねるしかないのだ。


      ◇


「半年で信長の御子から、羽柴の甥へ替わるか。三好の家は、空いた座へ誰でも据えればよいというものではないぞ」


 三好康長は、挨拶を終える前から怒っていた。


 河内にある屋敷の座敷には、俺と秀長、その後ろに爺と常陸が控えている。


 康長は俺を息子を見る目では見なかった。


 どう使えるのか、どんな使命を背負ってここへ来たのか。


 まずは品定めをする目だった。


「私も、望んでまた名を替えるわけではございませぬ」


「ならば帰られよ」


「そうも参りませぬ」


「羽柴殿の命か」


「はい」


「素直な犬じゃな」


 隣に座る秀長が、こちらを見た。


 口を出さないと言った手前、本当に黙っている。


 少しは助けてほしい。


「犬かどうかはじきにわかるでしょう」


「では申せ。羽柴殿は、なぜそなたを寄越した」


「三好と羽柴の縁を強く結ぶためです」


 康長の後ろに控える家臣たちの空気が変わった。


「そして三好の名を使い、河内と阿波の者を集めるためでもあります」


「よく言えたものよ」


「隠しても、康長殿は御存じでしょう」


「知っておることと、相手の口から聞くことは違う」


「では、もう一つ。今の秀吉様には、康長殿へ阿波を必ず返すとはお約束はいたしかねます」


 康長が笑った。


 喜んだ笑いではない。


「養父になる者へ、手土産もなし。阿波も返せぬ。そなたは何を持ってきた」


「私だけです」


「要らぬと言えば」


「それは困りましたな」


「そなたがか」


「康長殿とこの横の叔父上が」


「自分は困らぬか」


 すぐに答えられなかった。


 ここで断られれば、宮部へ戻れるのだろうか。


 おそらく秀吉は別の手を考える。俺の名と行き先について、また俺のいないところで話が進むだけだ。


「もちろん私も困ります。次にどこへ出されるか分かりませぬので」


 康長の頬が、ほんの少し緩んだ。


「そなたも、好きでここにおるわけではないか」


「正直に申せば。ですが、お受けするなら、三好の名を決して粗末には扱いませぬ」


「何ができる」


「分かりませぬ」


「そればかりじゃな」


「三好について、今日初めて康長殿からお話を伺うのです。わたくしになにが分かりましょうや」


 康長はしばらく俺を見た。


「阿波を取り戻すと、旧臣へ触れを出せ」


 試されている。


「できませぬ」


「なぜじゃ」


「私はできぬ約束はいたしませぬ」


「できぬ約束でも、人は集まるぞ」


「一度は」


「二度目はないと」


「はい」


 約束を破れば、次からは高い銭を積んでも人は動かない。


 前世で嫌というほど見た。


「三好の名で人を集めるなら、何をしてほしいのかは先に申します。阿波を返すためだと偽って呼ぶことはいたしませぬ」


「用が済めば捨てるか」


「捨てませぬ」


「全員か」


「それは……」


「すぐ綺麗な返事をするな」


 康長の声が低くなった。


「そなたに付く者すべてが、役に立ち、裏切らず、最後までそなたを好くと思うか」


「思いませぬ」


「ならば、捨てぬとは何じゃ」


「一度羽柴の傘に入ってくださった者は皆家中、私が命に代えてでも守りまする」


「その者らが皆使えるとは限らんぞ」


「その者の能力に応じてよき場所を」


「そなたが決めるのか」


 康長が言葉を重ねた。


「人は、そなたの駒ではないぞ」


 言い返しかけて、やめた。


「最後は本人が選べばようございます」


「そなたに付いて来るか。三好へ残るか。別の主を探すか。それを決めるのは本人というわけか」


「はい」


「すぐ認めるのも、腹が立つな」


「言い返した方がよろしいですか」


「要らぬ」


 康長が、初めて声を立てて笑った。


 秀長の肩から、わずかに力が抜ける。


 この叔父上、本当に一言も助けなかった。


「次兵衛」


「はい」


「そなたは、三好で一生を終える気はないのだろう」


「自分でも、よくわかりません」


「いずれ羽柴殿が、またそなたを欲しがる」


「その時は」


「黙って人を根こそぎ連れて行くな。三好の名を離れる前に、わしのところへ来い。この家を誰へ残すか、そなたに付く者がどこへ行きたいか、その時改めて話を聞く」


「せいぜい長生きしてくだされ」


「憎まれ口を申すな。まだ死なぬわ」


「最近、人の寿命が気になるもので」


 秀長が小さく咳払いをした。


 康長は不思議そうに叔父上を見たが、それ以上は聞かなかった。


「承知しました。三好の名を離れる時は、必ず義父殿とお話します」


「約束じゃぞ」


「紙へ書きますか」


「要らぬ。破れば、そなたもワシもそれまでの男だというだけの話」


 その方が、紙より重かった。


     ◇


 康長が手を二度叩くと、後ろの襖が開いた。


 四人の男が入ってくる。


「大場土佐」


 康長が、先頭の男だけを俺へ引き合わせた。


「この者をはじめ、三好に仕え、河内と阿波で働いてきた者どもじゃ」


 四人とも、俺を新しい若殿として喜んで迎える顔ではなかった。


 大場土佐が一歩前へ出る。


「我らを、三好を羽柴へ差し出されるのでございますか」


「言い訳はせぬ」


 康長は平然と答えた。


「この次兵衛が、そなたらを欲しがるかは知らぬ。そなたらが付いて行きたいと思うかも知らぬ」


「ずいぶん勝手なお話ですな」


 大場は俺ではなく、康長を睨んでいる。


「私も先ほど、似たようなことを申しました」


 思わず口を挟むと、大場がこちらを見た。


「では、断られましたか」


「いいえ。ここへ座っております」


「ならば、我らも同じように従えと」


「それを決めるのは、あなた方だと教わったところです」


 大場が康長を見る。


「大場。しばらく次兵衛に付け」


 康長が命じた。


「いつまででございます」


「まず、こやつの最初の役目が済むまでじゃ。嫌になれば戻ってこい」


 康長が俺を見る。


「次兵衛。そなたも要らぬと思えば返せ。ただ、無体はこのわしが許さぬ」


「承知しました」


 俺へ異論を挟む余地はなかった。


 大場たちも同じらしい。


「次兵衛殿」


 大場が俺を見た。


「我らへ、何をお命じになります」


「今ここで決めなければなりませんか」


「何もなければ、今すぐ戻ります」


 挑発ではない。


 この男たちにも、働く場所と食う扶持が要るのだ。


「では、河内から近江へ荷を運べる馬借と、街道沿いの宿を知る者を探してください」


「三好の我らに、荷運びをせよと」


「槍を持つ兵も、米が着かなければ動けませぬ」


「米問屋の真似事で、我らを量るおつもりか」


「これが羽柴の、いえ私の戦い方です」


 大場は頭を下げなかった。


 だが、帰りもしなかった。


「承知しました。まず道を見ます」


 そこで秀長が、初めて口を開いた。


「道を見るなら、ひとり貸そう」


 廊下へ声を掛けると、すぐに男が入ってきた。


 大きい。


 爺も背は低くないが、その男は座ってもなお肩の位置が高かった。日に焼けた顔に、太い指。飾りのない小袖を着ているのに、腰の刀だけが妙によく手入れされている。


「藤堂与右衛門にございます」


 頭を下げた男の名を聞いて、思わず見直した。


 藤堂高虎。


 その名を聞いた瞬間、俺はもう一度男を見た。


 ……叔父上、そんな大物を隠してたのか。


「与右衛門は近江の生まれじゃ。道も川も、わしより知っておる」


「殿より知らぬ者を探す方が難しゅうございます」


「何じゃと」


「道を御存じでも、すぐ道から外れられますので」


 秀長が言い返す前に、与右衛門は俺へ向き直った。


「荷を通す道を見ればよろしいので」


「道だけではなく、橋と宿もお願いします。馬を替えられる場所と、飼葉が買える村も」


「何日で」


「七日では」


「河内から近江まで見て七日は無理にございます。十日」


「八日」


「九日」


「分かりました」


 横で大場が、わずかに目を細めた。


「我らの返事は値切られ、藤堂殿の日数はすぐお認めになるのですな」


「できぬと言う者へ、できると答えさせても道は短くなりませぬ」


「それはそうですが」


 不満は残ったらしい。


 秀長が俺と与右衛門を見比べた。


「貸すだけじゃぞ」


「承知しております」


「……返せよ」


「まだ何も申しておりませぬ」


「顔に出ておる」


 確かに、返したくないとは思った。


「大場殿」


「はい」


「先ほどの役目を変えます。近江の道と宿は与右衛門へ任せましょう。大場殿には河内側で、荷を集める者と置いておく蔵を探していただきたい」


「一度命じたことを、もう変えられるので」


「近江に詳しい者が来たのですから、同じところを二人で見る必要はありませぬ」


 大場は与右衛門を見た。


「ならば、河内の三好の者へ声を掛けます。蔵と人足ならば、我らの方が集められましょう」


「お願いします」


「それから、荷を扱える商人が要ります」


 俺が大場へ言うと、今度は与右衛門が答えた。


「近江なら坂本に米を扱う者がおります。湖の船まで押さえるなら、そちらが早いでしょう」


「堺も見たい」


「ならば小西隆佐じゃな」


 秀長が言った。


「兄者の御用をしておる薬種商じゃ。米の商いが本分ではないが、堺で誰に話を通せばよいかは知っておる」


「小西?」


「隆佐殿の倅に、弥九郎という若い者がおります。備前にも縁があるとか」


 小西弥九郎。


 その名も覚えている。


「会えるなら、いずれ会いたい」


「まずは隆佐殿に、米を扱える者を紹介していただくのが先でしょうな」


「分かりました」


 その日は、大場たちに与右衛門が加わり、堺へは小西隆佐を訪ねる使者が出ることになった。


 三好の名をもらう前から、その名に集うものたちと仕事が始まった。


     ◇


 名を改めるために、大げさな儀式はなかった。


 それから幾日か後。


 秀吉と秀長、康長、爺、常陸、大場たちが座る前で、一枚の紙が読み上げられた。


「今日より、三好孫七郎信吉と名乗れ」


 秀吉の声が座敷へ響いた。


 三好。


 孫七郎。


 信吉。


 昨日までの俺にはなかった名だ。


「御受けいたします」


 頭を下げた。


「返事が小さいぞ、孫七郎」


 呼ばれて、一瞬遅れた。


「はい」


「もう忘れたか」


「まだ覚えておりませぬ」


「今日中に覚えよ」


 秀吉が笑った。


 康長は笑わない。


「孫七郎」


 今度は、すぐに顔を上げた。


「はい、養父上」


 康長の眉が動く。


「無理に父と呼ぶな。人前ではそれでよいが、二人の時は康長殿でよい」


「よろしいのですか」


「わしも、そなたを息子と思えるか分からぬ」


「そうですか」


「そこは、よろしくお願いいたしますと申すところじゃ」


「これから覚えます」


 康長は呆れた顔をした。


 秀長は横で笑いを堪えている。


 座を下がると、爺と常陸が廊下で待っていた。


「帰るぞ」


「承知しました、若殿」


 常陸が、いつもどおり答えた。


 その呼び方へ、少しだけ肩の力が抜ける。


 庭へ下りかけたところで、爺が後ろから呼んだ。


「ま、孫……」


 振り返る。


「何でもございませぬ」


「今、噛んだだろう」


「人の名は、そうすぐ舌へ馴染みませぬ」


「俺には今日中に覚えろと言ったぞ」


「それは筑前守様へお申しくだされ」


 常陸が横から口を挟んだ。


「孫七郎様。御帰りの馬を御用意しておりまする」


 こちらは噛まなかった。


「練習したか」


「若殿が頭を下げておられる間に、三度ほど」


 想像すると、少し腹が立った。


 けれど、二人の口から聞く新しい名は、秀吉に命じられた時とは違って聞こえた。


「もう一度、呼んでくれ」


 爺と常陸が顔を見合わせる。


「孫七郎様」


 今度は二人とも噛まなかった。


「その名も悪くないか」


 自分でそう答えてから、付け足した。


「しばらくはな」


「また変わるおつもりで」


「俺が決めることではないらしい」


「ならば、何度でも覚えまする」


 爺が言った。


「何度でもか」


「ワシが生きておる間ならば」


 何でもない言葉だった。


 なのに、返事をするまでに少し間が空いた。


「長生きしてくれよ」


「名を覚えるためにでございますか」


「それだけではない」


 爺は、理由を聞かなかった。


 屋敷の門を出る前に、秀長の使者が駆け込んできた。


「孫七郎様。北近江から急ぎの知らせにございます」


 差し出された書状を開く。


 長浜へ入った柴田勢が、米と馬を買い集めている。越前へ抜ける道では、冬を越す荷が増えているという。


 北国の雪が来る。


 雪で道が閉じれば、勝家の大軍は動きにくい。だが、その前に長浜へ米を入れられれば、近江の柴田勢は冬を越せる。


 清洲で決めた取り分を抱えたまま、双方が春まで大人しく待つとは思えなかった。


「大場殿」


 呼ぶと、後ろにいた大場土佐が顔を上げた。


「頼んでいた河内の蔵と人足の話を急いでください。北へ出す荷を集めます」


「承知しました」


「爺、常陸。戻ったら、北へ向かう道へ荷を置ける場所を探す」


「三好の御役目はよろしいので」


 常陸が聞いた。


「これが、三好孫七郎へ来た最初の役目だ」


 二人が頭を下げる。


「承知しました、孫七郎様」


 今度は、すぐに返事ができた。


「まず米の数からだ」


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