第4話 清洲は戦場である
談合の座で何が起きているのか、俺には見えなかった。
天正十年六月二十七日。
清洲城へ入った四人を、俺は中庭の隅から見送った。
柴田修理亮勝家は、供の者まで押し退けるような大股で歩いていた。丹羽五郎左衛門長秀は、すれ違う者へいちいち短く声を掛けていく。池田勝三郎恒興は、城へ入る直前まで自分の馬の脚を気にしていた。
最後が秀吉だ。
こちらへ気づき、笑いながら片手を上げた。俺も頭を下げたが、叔父の威勢を借りて奥までついていくことはできない。
四人の背中が廊下の先へ消える。
「次兵衛」
秀長が俺を呼んだ。
「はい」
「お前は、ここにおれ」
示されたのは、供侍や馬を預かる小者が集まる中庭だった。
「中ではなく?」
「十四の子に談合の席はないと申したであろう」
「覚えております」
「ならば、その残念そうな顔をやめよ」
「中で何が決まるのか、気にはなります」
「わしも気になる」
「叔父上も入られないのですか」
「座に着くのは、あの四人じゃ。わしは兄者の控えで、出てきた話を受ける」
秀長も主役ではないらしい。
それでも城内に控えがある。俺は中庭だ。同じ席がない者でも、大きく違う。
「お前にできることは、今日ここにいる者をつぶさに見ることじゃ。余計なことはするな」
「見ているだけですか」
「それができれば、上出来じゃ」
昨日、独りで決めるなと言われたばかりだ。
言い返すのはやめた。
「承知しました」
秀長は頷き、城の奥へ消えた。
「見ているだけ、とは難しいお役目をいただきましたな」
爺が俺の後ろで言った。
「おとなしくしておればよいのだろう」
「あの若殿が、でございますか」
「俺だって、何もしないことくらいできる」
常陸が何も言わず、俺から少し目を逸らした。
「何か言いたいなら言え」
「小一郎様は、若殿をよく御存じだと思いまして」
反論しようとした、その時だった。
「その馬を退けろ!」
井戸の方から、若い男の怒声が上がった。
爺が溜め息をつく。
「早速、見るものができましたな」
◇
井戸の前で、羽柴勢と池田勢が睨み合っていた。
先に並んでいたのは、池田家の馬だったらしい。五頭のうち二頭は白く汗を噴き、細い泡を口元へ垂らしている。
そこへ羽柴方の若侍が、自分の連れてきた馬を割り込ませた。
「道中を急いで参ったのはこちらも同じだ!」
池田方の馬廻りが、若侍の肩を押し返す。
「備中から走り通し、山崎で右府様の仇を討った我ら羽柴の馬を、後へ回せと申すか!」
「山崎で戦ったのは羽柴だけではない! 我ら池田勢も明智の兵と槍を交えたわ!」
周りにいた両家の侍まで声を上げた。
城の中では、四人が同じ席へ着いている。
その家臣たちは、井戸の前で刀へ手を掛けかけていた。
「双方、そこまでじゃ!」
爺の一喝で、何人かの手が柄から離れた。
だが、羽柴の若侍だけは退かなかった。
「将右衛門殿。この者らが、羽柴の馬を後へ回せと申すのです」
「先に並んだのはこちらだ!」
池田方も譲らない。
俺は馬を見た。
一番手前の栗毛が、前脚で何度も地面を掻いている。馬のことなら、俺より爺の方がはるかに詳しい。
「爺。あの馬は」
「だいぶ疲れておりますな。水を飲ませて、しばらく休ませた方がよろしいでしょう」
「どちらの馬だ」
「池田勢にございます」
俺たちの馬のために汲んであった水桶が、中庭の端に二つある。
「常陸。あれを持ってきてくれ」
「若殿たちの水は、如何します」
「井戸はなくならん。あとで汲めばいい」
常陸と小者が水桶を運んでくる。
「池田の馬へ飲ませてください」
俺が言うと、羽柴の若侍が目を剥いた。
「なぜ池田の馬へ!」
「今にも倒れそうだからだ」
「我らの馬も、山崎から働き詰めにございます!」
「ならば、そちらにも飲ませる」
「順が違いましょう!」
「先に並んだのは池田方だと言っている。そもそも、お前が割り込んだのだろう」
若侍の顔が赤くなった。
「羽柴の武功を軽んじられますか」
「喉が渇いた馬は、筑前守様の名など知らん」
周りの声が止まった。
「山崎で働いたのはお前だが、馬へ手柄を背負わせたうえ、水まで我慢させるな」
若侍は何か言い返そうとしたが、爺が横へ立つと口を閉じた。
池田方の馬廻りも、勝ち誇った顔をした。
「そちらも笑わないでください」
「なぜじゃ」
「羽柴の馬が待っている。自分たちの馬へ飲ませたら、すぐに井戸を空けてもらいます」
「我らが先であった」
「ですから、先ほどお譲りした桶を持ってさっさと退くがよかろうと申している」
馬廻りは不満げだったが、疲れた栗毛へ桶を差し出した。
馬が勢いよく水へ口をつける。
「お前、名は」
羽柴の若侍へ聞いた。
「中村源八にございます」
「源八。井戸を使うぞ」
「は?」
「さっさと汲んでわれらも退かねばまたいらぬ争いの種となろう」
「若殿は私に水を汲めと申されるか」
「俺も手伝ってやる」
若侍だけへ命じれば、池田方の前で恥をかかせることになる。それでは、あとで別の喧嘩が起きるだけだ。
俺は井戸の縄をつかんだ。
「若殿!」
爺の声が飛んだ。
「何だ」
「袖が濡れまする」
「そんなことか」
「お貸しください。ワシが」
「俺が言い出した事だ。源八、そちらを持て」
源八は納得していない顔のまま、桶の反対側へ手を掛けた。
二人で縄を引く。
井戸桶は思っていたより重かった。十四歳の腕では、途中から肩まで痛くなる。源八が俺の側へ重みが寄らないよう、さりげなく引いていた。
「助かる」
「いえ」
「まだ怒っているか」
「少し」
「正直だな」
「若殿も、馬の水くらい小者へお任せになればよろしいのです」
「それは俺も、今少し後悔しておる」
桶が井戸端へ上がったところで、縄が大きく揺れた。
水が俺と源八へ降りかかった。
どこからでもなく笑い声が起きる。
源八も顔を拭きながら、ついに笑った。
「もう一度だ」
「まだ汲まれますか」
「羽柴の馬がまだ飲んでいないだろう」
「では、今度は小者を呼びつつ進めましょう」
「そうしてくれ」
見ているだけという叔父上の命令は、半刻も持たなかった。
◇
「筑前の甥が、池田の馬番をしておるのか」
背後から、太い声がした。
池田勢の者たちが、一斉に頭を下げる。
談合の休息で中庭へ出てきた池田恒興だった。
俺も濡れた袖のまま平伏した。
「宮部次兵衛尉吉継にございます」
「知っておる。筑前の姉の子であろう」
「はい」
恒興は水を飲む馬と、ずぶ濡れの源八を交互に見た。
「それで、なぜ羽柴の甥が我が家の馬へ水を汲む」
「先に並んでおりました。それに、あの栗毛が倒れそうでしたので」
「それだけか」
「……城へ入られる前、池田殿が何度も馬の脚を御覧になっていたのも見ました」
恒興が目を細める。
「よく見ておるな」
「見ておれと、叔父上に命じられましたので」
「小一郎殿か」
恒興は笑い、俺の袖から落ちる水を見た。
「礼をしなければな」
「できましたら、名を覚えていただければ」
「名か」
「水桶二つで、池田殿に名を覚えていただけるなら安いものです」
「なるほど。さすが筑前の甥は、商人のような勘定をする」
「うちの殿なら、濡れる前に誰かへ頼んだと思います」
恒興が声を上げて笑った。
「次兵衛と申したな」
「はい」
「覚えておこう。次に会う時は、馬番以外でも活躍して見せよ」
「努めまする」
恒興は栗毛の首を一度叩くと、城内へ戻っていった。
池田方の馬廻りたちも、今度は素直に井戸を空けた。
「若殿」
爺が乾いた布を差し出す。
「なんだ」
「ずいぶん高い水桶になりましたな」
「安いと言ったばかりだぞ」
「濡れた御召物を洗う者の手間が、勘定から抜けておりまする」
「……常陸。いくらかかる」
「戻ってから聞いて参ります」
源八が隣で、また小さく笑った。
◇
談合は、昼を過ぎても終わらなかった。
俺は着替えを借り、今度こそ中庭で見ていた。
織田信雄と信孝本人の姿はない。二人の名を背負った使者だけが、城下と控えの間を忙しく行き来している。父と兄を失った織田家の行く末が決められる日にも、二人はその座へ着いてはいなかった。
城の奥から使者が出るたび、各家の控えがざわめいた。
三法師が織田家を継ぐ。
まだ幼い当主を、四人が支える。
日々そばで仕える傅役には、堀久太郎秀政がつく。
それ以上のことは、伝えに来る者によって少しずつ違った。
やがて、所領の分配も漏れ聞こえてきた。
羽柴方は、これまでの領地に加えて山城や丹波、河内の一部へ勢力を伸ばす。
柴田も越前を本拠としたまま、長浜を得て近江へ足場を持つ。
丹羽と池田にも、それぞれ新たな土地が渡るらしい。
羽柴勢は畿内で働く土地を増やし、柴田勢も越前から近江へ出る足場を得た。池田と丹羽の控えからも、不満ばかりではない声が聞こえる。
誰か一人がすべてを取ったわけではない。
だからといって、四人が同じ先を見ているようにも思えなかった。
夕刻近く、秀長が中庭へ出てきた。
朝よりも疲れた顔をしている。
「次兵衛。今日は何をしておった」
「言いつけ通り見ておりました」
「その割に、着物が変わっておるな」
「少し、井戸へ」
秀長が爺を見る。
「余計なことはするなと申したはずじゃが」
「ワシも止めました」
「袖が濡れるとだけは、止められたな」
「刀傷よりは、濡れた袖の方がよろしかろうと」
秀長はそれ以上聞くのを諦めたらしい。
「中で決まったことを、どこまで聞いた」
「三法師様が御当主となり、四人でお支えする。あとは土地を分ける、と」
「それで十分じゃ」
「叔父上。今日は、我が羽柴が勝ったのですか」
秀長はすぐには答えなかった。
「お前には、どう見えた」
朝、城へ入っていった四人を思い出す。
勝家の控えでは長浜の名が喜ばれ、羽柴勢は畿内に増えた役目を数えている。池田と丹羽の者も、主が手ぶらで戻る顔はしていない。
「四人とも、土産を持って帰れます」
「兄者もそうか」
「殿には、誰より多くの役目が残ります」
「それを勝ちと見るか」
「殿ならば」
秀長は、少し笑った。
「よく見ておったな」
「井戸ばかりではございませぬ」
「その井戸の話を、勝三郎殿から聞かねばならぬようじゃ」
「池田殿から?」
「兄者のところで、お前を待っておる」
こちらへ来てから、叱られてばかりだな、俺は。
◇
部屋へ入ると、秀吉と池田恒興が向かい合っていた。
「来たぞ、筑前。そなたの馬番じゃ」
恒興が俺を見て笑う。
「次兵衛。勝三郎殿から馬を奪ったそうじゃな」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。水を飲ませただけです」
「同じようなものであろう」
「違うと思いますが」
秀吉は大層機嫌がよかった。
談合で勝家を言い負かしたからではないだろう。明日から自分が動かせる土地と人が増えたことを、もう楽しんでいる顔だった。
「勝三郎殿が申すには、水桶二つで己の名を売り込んだそうじゃな」
「池田殿に聞かれたので、お答えしただけです」
「小一郎からは、余計なことをするなと言われておっただろう」
「馬を倒れさせぬことが、余計なこととは思いませなんだもので」
「聞きましたか、勝三郎殿。もう言い訳まで覚えた」
「言い訳ではございませぬ」
恒興が笑いながら立ち上がった。
「筑前。この小僧は面白い。馬の礼は、いずれ返す」
「ようこき使ってやってくだされ。こやつはよほどお役目が好きらしいからの」
「私は安くはございませぬぞ」
「これ!調子に乗るでない」
「そうかそうか、もし困ったことがあれば、わしの屋敷へ来い。水くらいは飲ませてやる」
「ありがたく頂戴いたします」
恒興が部屋を出ていく。
その背中へ頭を下げながら、俺はようやく息を吐いた。
「次兵衛」
「はい」
「姫路では軍を迎え、山崎では腹を空かせた兵に首を突っ込み、今度は他家の馬か」
「並べられると、まだまだ殿のお役には立てておりませぬ」
「兵も馬も、食わねば動かぬ。有り体に言えばわしはお主を気に入っておる」
秀吉の目が細くなる。
「何が欲しい」
突然の問いだった。
「褒美でございますか」
「土地がよいか。銭か。馬もあるぞ」
「馬は、しばらく遠慮いたします」
井戸の重さが、まだ肩に残っていた。
「では、何じゃ」
「叔父上のそばで、兵糧と商人を扱う役目をいただきとうございます」
秀吉は黙って値踏みをするように俺の目を見た。
「なぜ商人じゃ」
「戦が始まってから米を探しては、遅うございます。誰がどこに米を持ち、どの道なら運べるか。戦のない時から備えをしておきたいのです」
「商人は銭を渡せば言う事を聞くだろう」
「それだけではありませぬ。約束を守る者のためにも動きます。要は仕組みと信頼です」
「分かったようなことを申す」
「分からぬところは、叔父上や周りの者へ聞きます」
秀吉が膝を叩いた。
「よかろう。小一郎のそばで、兵糧と商人を見よ。まずは、わしらが何を持っており何が足りぬか、よく見て覚えよ」
「ありがとうございます」
「ただし」
来た。
よい話のあとに秀吉が付ける言葉は、大抵よくない。
「いつまでも、宮部の次兵衛で置くつもりはない」
「また養子でございますか」
「まだ何も申しておらぬぞ」
「違うのでございますか」
「話が早いのはよいが、可愛げがないのお」
「私の名ですので」
秀吉の笑みが、ほんの少し薄くなった。
「分かっておる。宮部殿へ礼を欠く移し方はせぬ。少し落ち着いたら、きちんと話す」
「承知しました」
「嫌ではないのか」
「よく分かりませぬ」
秀吉が目を丸くした。
「では、なぜ承知する」
「嫌だと申し上げても、お話は進められるのでしょう」
「よく分かっておるではないか!」
秀吉の笑い声を背に、俺は部屋を出た。
廊下では、四人の名を並べた沙汰を持つ使者が、京へ向かう支度をしていた。
今日、清洲で何が決まったのか、俺は全部を知らない。
ただ、中庭へ出された時と同じままだとは思わなかった。朝に着ていた小袖は水を浴び、池田恒興には名を聞かれ、これから扱う兵糧と商人まで増えている。
ついでに、また自分の名も変わるらしい。
爺と常陸の待つ中庭へ戻ると、池田の馬はもういなかった。
井戸のそばに、水で濡れた土だけが残っている。
「若殿。御褒美はいただけましたかな」
常陸が聞いた。
「兵糧と商人を扱う役目をいただいた」
「これはまた帳面仕事が増えますな」
「そうなるな」
「ほかには」
「また養子に出されるかもしれん」
二人が揃って黙った。
先に口を開いたのは、爺だった。
「今度は、どちらへ」
「まだ聞いていない」
「若殿のことでございます。まあなんとかなりましょう」
「そうだな。俺も、そう思う」
池田恒興が覚えたのは、宮部次兵衛尉吉継という今の名だ。
次に会う時まで、その名でいられるかは分からない。
せめて池田の馬へ水を汲んだ小僧と覚えていてくれれば、名が変わっても話は通じるだろう。
それなら、水桶二つ分の元は取れる。
後日、濡れた小袖はもう使い物にならぬと爺から聞いた。もう少し褒美をもらっておくべきだったか。




