第3話 叔父上の未来
清洲では、天下の行く末より先に、飯を炊く釜が足りなくなった。
天正十年六月二十六日。
城下の道という道を、柴田、丹羽、池田、羽柴の旗が埋めていた。
宿は埋まり、寺にまで武士が入り、馬は民家の軒下につながれている。井戸の前では、どこの家中が先に水を汲むかで朝から怒鳴り合いが起きていた。
明日、清洲城で重臣たちの談合がある。
だが、今夜の俺に出された膳は、冷えた飯と塩辛い漬物だけだった。
「今や天下を分ける方々が、一堂に押し寄せましたからな」
爺が固くなった飯を箸で割った。
「宿の釜が先に音をあげたようでございます」
「爺の飯も冷えているな」
「ワシだけ温かい飯をいただけば、若殿がおかわいそうでしょう」
「そんなこと気にせん」
「では、替えていただけばよかった」
「爺」
常陸が汁椀へ口をつけ、すぐに置いた。
「こちらも冷えておりまする」
「言われなくても見れば分かる」
「おやそうでしたか」
「お前たち、清洲へ来てから少し遠慮がなくなってないか」
「若殿が急にお役目にご興味をお持ちになりましたゆえ、こちらも張り合いがありまする」
誰が言ったのかと思えば、常陸だった。
爺まで感心した顔で常陸を見る。こういう時だけ仲がいい。
俺は冷えた汁を飲んだ。塩気が妙に舌に残った。
明日の談合に、俺の席はない。
秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興。織田家の今後を決めるのは、その四人だ。十四歳で、宮部家の養子にすぎない俺が口を挟める相手ではない。
後世には清洲会議と呼ばれる。
結果を先に知っているからといってどうと言うことはない。
襖の向こうで何が話されるかまで知っているわけではないし、仮に知っていても、俺が入ればつまみ出される。下手をすれば、秀吉の甥は己の身分も分からぬと嘲りの対象になるだけだ。
そもそも今世の俺は、十四だぞ。
あの四人の間へ入って何をしろというんだ。
そう考えていたところへ、秀長の使いが来た。
「小一郎様が、夜更けに一人で来るようにと」
ついに来たか。
山崎の夜、俺は秀長へ、自分が十三年後に死ぬと話した。
その先は話していない。
話せなかったと言う方が正しいだろう。
「爺」
「お供いたしまする」
「一人で来いと言われた」
「では、部屋の外まで」
「同じではないか」
「違いまする」
常陸は俺と爺の言い合いを聞きながら、冷えた汁を見ていた。
「若殿。温かい夜食でもご用意して、お持ちになってはいかがです」
「叔父上へ?」
「小一郎様は、昼から何も召し上がっておられぬそうで」
「どこで聞いた」
「台所でございます」
天下の行く末も、台所の噂も俺より常陸の方に早く届くらしい。
「大したものは用意できぬが」
「腹に入れば同じことです」
「そういう問題か」
だが、それで少しは場が和むならそれがいいだろう。
俺は台所の女へ頼み、握り飯と香の物を夜食に頼んだ。リーダー格の女が、羽柴方の侍は一日に何度も飯を求めると散々こぼしてから、約束してくれた。
「明日は鍋まで食われそうで冷や冷やしております」
「鍋は食べないと思うぞ」
「侍衆なら分かりませんね」
清洲の侍は、ずいぶんな信用だった。
◇
秀長が借りていたのは、城下の寺の小部屋だった。
廊下には使者が二人待たされていた。部屋の中から出てきた男は、俺と目が合うと露骨に眉をひそめた。誰かは知らない。おそらく向こうも、夜食を持った小僧がなぜ呼ばれたのか分からないだろう。
爺は約束どおり部屋の外で止まった。
「何かあれば必ずお呼びくだされ」
「叔父上と話すだけだろ」
「前にも同じことを聞きましたな」
山崎の夜もそうだった。
今夜は斬られない、と言い切る自信まではなかった。
障子を開けると、叔父上はまだ仕事着のままだった。文机の横へ書状が積まれ、灯明のそばには冷え切った膳が置かれている。
「何を持ってきた」
「夜食にございます。なんとまだ温かいですぞ」
「わしは、お前へ夜食を運べと申したか」
「昼から何も召し上がりになっていないと聞きました」
「誰からじゃ」
「台所から常陸へ、常陸から私へ」
「耳のいい家臣じゃな」
「食べ物のことだけは」
秀長は握り飯を受け取った。一口頬張り、わずかに目を見開く。
「温かい」
「温めましたので」
「見れば分かる」
「先ほど、私も同じことを申しました」
秀長の口元が少し緩んだ。
だが、顔を上げたときには、もう目に笑いがなかった。
「座れ、次兵衛」
「はい」
「今宵は、容赦はせぬ」
分かっていた。
俺は灯明を挟んで座った。
「山崎で、お前は十三年後に死ぬと申したな」
「申しました」
「その夢は、どこまで先を見ておる」
「私が死んだあとも、何年も何年も」
「何年もとはどれほどじゃ」
「四百年以上です」
秀長の指が、膝の上で一度だけ動いた。
「では、わしは」
その問いが最初に来るとは思わなかった。
嘘をつく意味はない。今夜ここへ来た時点で、隠し通せるとも思っていなかった。
「叔父上は、九年を待たずに亡くなります」
秀長は瞬きもしなかった。
「誰に討たれるのだ」
「病です」
「病か」
「はい」
「どこでじゃ」
「大和にございます。叔父上は、そのころ大和と紀伊を治めておられます」
「ずいぶん出世したものじゃな」
他人事のように言った。
秀長は、今度は香の物を口に運んだ。今度は味わう様子もない。
「九年か」
「はい」
「短いな」
その一言で、俺の胸が重くなった。
まだ三十代の男が、自分の残り時間を聞かされている。怒鳴られても、嘘つきと追い出されてもおかしくない。
だが秀長が次に聞いたのは、自分の病の名でも、死ぬタイミングでもなかった。
「わしが死んだあと、兄者のそばには誰がおるのだ」
答えに詰まった。
「次兵衛!」
「私はおります」
「だがお前は十三年後に死ぬのであろう」
「はい」
「ほかには」
「前田利家殿、徳川家康殿をはじめ、多くの者が殿をお支えしておりました」
「多くおるのに、家は割れるのか」
山崎の夜に言ったことを覚えている。
「はい」
「では、その者どもは何をしておる」
「それぞれが、それぞれの正しいことをします」
言ってから、随分と頼りない答えだと思った。
秀長もそう思ったらしい。
「正しき事が行われるのならば、戦など起きぬ」
「それは分かりませぬ」
「夢で見たのではないのか」
「分かるのは、起こった出来事だけです。人が胸の内で何を考え、何を決めたのかまでは」
「使えぬな」
「私も、そう思い始めております」
秀長は鼻で息を吐いた。
「兄者は、どこまで上る」
「関白になります」
今度は、明らかに顔が動いた。
「兄者が、そこまで出世なさるか」
「天下をほぼ統一し、朝廷から豊臣の姓を賜ります」
「豊臣」
聞いたことのない名を、秀長がゆっくり口にした。
「ならば、羽柴も木下も捨てるのか」
「捨てるというより、その上に新しい名をいただくのだと思います」
「お前の名も変わるか」
「何度も」
「そうか」
そこで初めて、秀長がわずかに笑った。
俺は笑えなかった。
「笑い事ではございませぬ」
「実際今の宮部の名も借り物のようなものだ」
「実際、借りております」
「借財のように返すつもりか」
「返せと言われれば」
「難儀な性分じゃ」
秀長は笑みを消した。
「兄者に子はできるのか」
来た。
「できます」
「男か」
「鶴松という男児が生まれます。ですが、幼くして亡くなります」
「そのあと、お前が継ぐのか」
「私が関白になります」
「兄者は隠居するのか」
「太閤となります」
「では、うまくお主に渡せたのであろう」
その言い方があまりに自然で、喉の奥が痛んだ。
「そのはずでした」
秀長の目が止まる。
「次の子が生まれるのか」
「はい。叔父上が亡くなったあとに」
「その子と、お前が争うか」
「争いませぬ」
「では、なぜ死ぬ」
返事ができなかった。
秀長が身を乗り出す。
「兄者に斬られるのか」
「分かりませぬ」
「また、それか」
「謀反の疑いをかけられ、高野山へ追われて、私は切腹します。ですが、本当に謀反を企てたのか、殿がどこまで私の死を望んだのか、私の知る話だけでは分かりませぬ」
「お前の話であろう」
「私であって、私ではありません」
秀長は苛立ったように舌を鳴らした。
「面倒な言い方をするな」
「私も、もう少し分かりやすく死んでいてくれればやりようもあったのですが」
口にしてから、何を言っているんだと思った。
秀長も一瞬、呆れた顔をしただけだった。
灯明の油が小さく鳴った。
「兄者の子はそれからどうなる」
「秀頼様と呼ばれます」
「兄者の跡を継ぐのか」
「継ぎます」
「ならば、お前が死んだあとは天下は治まるのか」
「いいえ」
秀長の顔から、残っていた色が消えた。
「三河の家康殿が天下を取り、秀頼様は大坂城で母君とともに腹を召されます。そこで豊臣のお家はお終いです」
「いくつじゃ」
「二十を少し越えた頃です」
「兄者は」
「その前に亡くなっております」
「何を残した」
「巨大な城と、金と、兵と――」
「それで息子一人すら守れぬのか!」
秀長の拳が文机を打った。
目の前の帳面がバラバラとその場に崩れていく。
障子の向こうで、何かが動いた。爺だろう。だが、俺が呼ばないので入ってはこなかった。
秀長は肩で息をしていた。
「お前を斬り、兄者の子も死ぬ。それで豊臣は終わるのか」
「はい」
「お前に妻は」
「おります」
「子は」
「おります」
「どうなる」
答えたくなかった。
俺には、まだ顔も知らない妻たちだ。まだ生まれてすらいない子もいる。
だが、ここを隠せば、十三年後に死ぬという言葉の重さまで嘘になる。
「妻や側室、子供たちは、悉く京の三条河原で処刑されます」
「何人じゃ」
「三十人を越えます」
「子もか」
「はい」
「いくつじゃ」
俺は首を振った。
「申せ」
「まだ、乳を飲む子も、まだ輿入れ前の妻まで」
秀長が立ち上がった。
何をするのかと思った時には、壁際の水差しが畳へ叩きつけられていた。
割れはしなかった。水が畳へ広がった。
「なぜそうなるのだ!」
怒鳴り声が、狭い部屋を震わせた。
俺に答えられるはずがなかった。
「何も」
「ならば、なぜ殺す!」
「分かりませぬ!」
俺も声を上げていた。
秀長が俺を睨んだ。
怖かった。
それでも、目を逸らしたくなかった。
「私が知っているのは、殺されたことだけです。誰が最初に言い出したのか、誰が止められたのか、何を恐れて一人残らず殺したのか。分からないから、ここにいるのです」
秀長は立ったまま、荒く息を吐いた。
しばらくして、自分で水差しを拾った。
「拭く物を持ってこい」
「人を呼びますか」
「この話を聞かせたいのか」
「いいえ」
俺は部屋の隅にあった布で畳を拭いた。
天下の未来を話した直後に、叔父がこぼした水を拭いている。
夢か現かたまに無性に分からなくなる時がある。
◇
畳を拭き終えると、秀長は元の場所へ座った。
「ならば今すぐ逃げよ」
唐突だった。
「はい?」
「十三年もある。兄者から離れ、宮部殿のもとへ戻れ。遠国へ行って名を変えてもよい。妻も持たず、子も作らねば、三条河原で殺される者もおらぬ」
「嫌です」
「死ぬよりましであろう」
「死ぬのは嫌です」
「ならば逃げよ」
「だから、嫌なのです」
「話が通じぬ奴じゃな」
秀長が眉間を押さえた。
「逃げれば、秀吉様は別の誰かを跡継ぎにします。その者が私と同じ目に遭わないとは限りませぬ」
「他人の心配をするか」
「ではありませぬ」
「違うと申すのか」
「顔も知らぬ誰かのためだけなら、逃げるかもしれませぬ」
綺麗事を言うつもりはなかった。
「私は死にたくない。これから会う妻たちも、子供たちも助けたい。関白になるほど働いたのなら、その分は褒められたいし、名も残したい」
「欲深いな」
「十四で世を捨てられるほど、できた人間ではございませぬ」
「しかしお前はこれから起こる事すべてを見通したのだろう」
背中が冷えた。
そこまで見抜かれている。
秀長は、それ以上を問わなかった。
「続けよ」
「叔父上がいなくなったあと、秀吉様を独りにしてはなりません」
「兄者は一人ではない。今も家臣は山ほどおる」
「天下の最高権力者となった殿に諫言できる者が、何人おりますか」
秀長が黙った。
十四歳の甥が天下人になる秀吉へ何かを言えば、聞いてもらえる。そんな甘い考えではない。
だから、俺一人が残れば済むとも思っていなかった。
「私がそばにいれば止められる、とは申しませぬ。叔父上でも止められぬことがあるでしょう」
「であろうな」
秀長はあっさり認めた。
「兄者は、人の話をよく聞く。聞いたうえで、都合の悪いところだけ忘れる」
「それは困ります」
「今ごろ気づいたか」
「私のかけがえのない叔父上だと思っておりますので。今のところは」
「今のところ、か」
そこで少しだけ緊張が緩んだ。
「ならば、私一人ではなく、それは違うと言える者を残します。秀吉様が誰か一人の言葉だけで決めぬように」
「誰を残すのだ」
「まだ分かりませぬ」
「何も決まっておらぬではないか」
「今日、決めたふりをする方がよほど危ないでしょう」
秀長がこちらを見る。
「それで、兄者の次の子が育ったら、お前はどうするのだ」
「お返しします」
「何を」
「その時、私が持っているすべてを」
「関白の地位もか」
「すべてでございます」
「惜しくならぬか」
「惜しくなると思います」
「なんとも締まらぬな」
「関白というお役目がどれほどの誘惑か、今の私には分かりませぬ」
秀長が喉の奥で笑った。
「それは夢で見えなんだか」
「悪評なら、たくさん見ました」
「気をつけよ」
「はい」
「必ず返すと申したな」
「はい。ただし、幼い子へ重荷を投げつけて隠居するつもりはありませぬ。育つまでは私が何に代えてもお守ります」
「兄者の子だからか」
「それもあります」
「ほかには」
「私も殺されたくはありません。畳の上で死ぬのが私の夢です」
秀長は、今度は笑わなかった。
「正直なのはよい。美しすぎる言葉は、信用できん」
「覚えておきます」
「足りぬ」
秀長の手が、膳の冷めた汁椀を包んだ。
「次兵衛。夢を理由に人を斬るなよ」
「はい」
「夢の中で裏切ったからと、今ここで何もしておらぬ者を敵にするな。家康殿であろうと、誰であろうと」
「承知しました」
「もう一つ。必ず独りで決めるな」
山崎の夜、俺が一人で抱えないと言ったことを、秀長は覚えていた。
「叔父上へ相談します」
「九年しかおらぬらしいがな」
「では、長生きしてください」
「病で死ぬと申したのはお前じゃ」
「私が独りで決め始めたら、殴ってでも止めてください。それまでに、ほかの者も探します」
「一人や二人では足りぬ」
「何人なら足りますか」
「それを考えるのはお前じゃ」
都合よく投げ返された。
だが、秀長の顔は真剣だった。
「わしが死んだあと、兄者を止められる者を残せ。お前一人では到底足りぬ。お前まで兄者と同じ方を向いたら、誰が背中を護る」
「叔父上は、私の夢を信じるのですか」
「信じぬ」
即答だった。
「では、なぜ」
「お前がこれほど手の込んだ嘘をつくなら、それはそれでたいした才じゃ」
「ひどくありませぬか」
「十三年後に兄に殺されると申す甥と、笑って酒を飲めという方が無理じゃ」
「殺されるとは、まだ」
秀長は椀を持ち上げた。
一口飲んで、顔をしかめる。
「冷たいのお」
叔父上はいつ用意されたのかもわからない膳の上の汁をゴクリと飲んだ。
「温め直しますか」
「よい。今はもう話すこともない」
秀長は冷えた汁を飲み干した。
「しかし残りが九年ないなら、明日の朝飯くらい温かいうちに食う」
「それで寿命は延びますか」
「一日くらいは延びよう」
「では、毎朝温かい飯を食べれば」
「九年で九年分延びると思うておるなら、お前の算術は当てにせぬ」
秀長は書状の山へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「今夜は、もう見ぬ」
「よろしいので」
「わしの残りが九年なら、同じ書状を三度読む暇はない。明日の朝に回す」
「それは私の話を信じたと言うのでは」
「うるさい。追い出されたいか」
「もう帰ります」
立ち上がると、秀長が低い声で呼び止めた。
「次兵衛」
「はい」
「殺されるな」
短い言葉だった。
「はい」
「お前の子も、兄者の子もじゃ」
「必ず」
「必ず、などと軽々しく申すな」
「……できる限りのことをします」
「それでよい」
障子を開けると、爺が廊下の柱にもたれていた。眠っているように見えたが、俺が出た途端に目を開けた。
「御無事で」
「見れば分かるだろう」
「一見ではわかりませぬ」
「今夜は皆、それを言うな」
部屋の中から秀長の声が飛んだ。
「将右衛門! そやつへ何か温かいものを食わせてさっさと寝かせよ!」
爺が俺を見た。
「何の話をされたのです」
「朝飯の話だ」
「ずいぶん長く朝飯で語らったのでございますな」
俺たちは寺の廊下を歩いた。
外はまだ暗い。城下のどこかで馬がいななき、宿を取れなかった兵が火を囲んでいる。明日になれば、城の中で有力者たちが織田家の、天下の先を決める。
当然俺には席もない。
今夜、天下を変えたわけでもない。
ただ、叔父上は自分の死を知った。
そのうえで、荒唐無稽と俺を切り捨てることもなかった。
「爺。何か温かいものはあるか」
「先ほどの飯へ湯を掛ければ、湯漬けになりまする」
「それでいい」
「漬物は残しておられますか」
「食べた」
「では、ただの湯と飯ですな」
天下の先を知っていても、食べた漬物は戻らない。
それでも今夜は、冷えたままよりましだった。




