第16話 船を手に入れろ
「次は、倍にしていただきたい」
新右衛門が、空になった木箱を俺の前へ置いた。
天正十一年八月半ば。
七月に兵庫を出たしゃぼんが、完売し銭になって帰ってきた。
荷箱の底には、小壺を包んでいた藁が少し残っている。新右衛門はそこへ京の店から届いた書付を重ねた。百二十と書いた脇に、今度は二百四十とある。
「一番よく出たのは、丁子の香りをつけた物でございます。初めに買われた薬種屋の御内儀が、女房へ使わせたところ気に入りまして。近所へ分けた分まで買い直しに来られました」
「自分で使うのではなく、女房に?」
「御内儀は香りを、洗い物をする女房は汚れの落ち方を。評判が評判を呼んですぐに運んだ荷がなくなってしまいました」
隣で聞いていた祥が、うれしそうに頷いた。
臭いだの、手が荒れるだのと、皆で鍋を覗いていた品である。それが京のどこかの家で使われ、もっと寄越せと言われている。
売れるとは思っていた。
だが、売れると思うことと、実際に売れることは違う。前世で何度も経験したはずなのに、この書付を眺めているだけで顔が緩む。
「堺へ出した分も、残りは店に置く見本だけにございます」
弥九郎が、父親からの文を開いた。
「次の仕入れを頼む、と。こちらは同じ数ですが、香りをつけぬ物も別に欲しいそうです。染物屋が洗い物へ使うには、香りは要らぬと」
「そうか。なら、そちらは小壺に分けなくていい。大きな入れ物で売れば、壺代も詰める手間も減る。その分利も大きくなるし、染物屋も何度も買う手間がなくなる」
戦国業務用せっけんの誕生だ。これは売り方によっては販路をどんどん拡大できそうだ。
「父にも、そのように伝えます」
京と近江は坂本屋へ。堺は小西屋へ。品代は兵庫で引き渡す値で決め、そこから先の運びは、それぞれの商人が手配していた。
先に交わした約束が、ようやく本当に回りだした。二人が出した九十貫とは別に、品物の代金が入ってくる。年貢以外の現金収入に思わず顔がほころんでしまう。
…最近出費多かったから。
つい考え事に耽っていると、常陸が帳面を寄せた。
「両方を合わせ、今回の品代は十八貫。油、灰、薪、壺、それに工房の者へ払う分を引いて、七貫ほど残りまする」
いままで開発に使った銭まで、取り戻したわけではない。城で働くものらの飯代も兵の扶持も別だ。それでも、同じ品をもう一度作って売れば、また残る。
これが欲しかったのだ。
「越中を呼んでくれ。工房の者にも聞かせる」
腰を浮かせてから、思い直した。
「いや、俺が行こう」
◇
工房では、鍋が二つ並んでいた。
灰の買付が重なってからは、小西家が別の仕入れ先へ声をかけ、越中も町内の集め先を増やしていた。少なくとも、今ある注文を作る間の材料には困らない。
戸口で俺に気づいた手代が、慌てて木べらを置こうとした。
「そのままでいい。売れたぞ。京も堺も、次の品を欲しがっている」
木べらが止まった。
女衆まで、竈の前から顔を出す。
「香りのついた方も、でございますか」
「やはりそちらが先に売れた。京からは、今度は倍にしろと言ってきた」
手代は口を開いたまま、女衆の一人を見た。
その女が笑うと、ようやく自分も笑った。
俺は越中へ、持ってきた包みを渡した。給金とは別に、売れた数に応じて分けると約束した分である。
「皆で分けてくれ。次の注文でも同じように出すからな」
越中から包みを受け取った手代が、中を確かめて、もう一度俺を見た。
「これを、頂いてよろしいので」
「お前たちが作った物だろう。俺たちのものだ」
手代が深く頭を下げた。
以前、酒屋で自慢をした時とは違う顔をしていた。包みの口を丁寧に閉じ、懐へしまってから、鍋へ向き直る。
「越中様。次の油を入れる前に、もう一度こちらを見てくだされ。昨日の鍋より、少し柔らかいようで」
早く数を揃えようとして、悪い品まで詰められては困る。そう言うつもりで来たのだが、先に言われた。
俺は邪魔にならないよう、戸口へ下がった。
祥が、手代の脇に置かれた小さな壺を手に取る。
「これは、売る分ではないのですか」
「家へ持ち帰る分にございます。母が近所の洗い物を請け負っておりますので、使わせてやりたく」
手代は越中の方を見た。
「もちろん、帳面には」
「聞いております。試しも兼ねておりまして、こちらへ」
越中が帳面を指で叩いた。
祥は壺を戻し、手代へ尋ねた。
「お母上は、何と仰いました」
「まだ足りぬからもっと持ってこいと」
笑いが起きた。
京の薬種屋と同じ注文だった。
「では、どんな物を洗ったかも聞いてきてください。私のところでは、油のついた前掛けによく使っています。使いにくいところがあれば、それも」
「承知いたしました」
祥が人に使い方を尋ねている間、俺は鍋の向こうを眺めていた。
城の一室では、もう手狭だった。油の壺を避けて歩くたび、誰かが腰を引かなければならない。火を使う仕事を、このまま城の中で大きくするわけにもいかない。
越中には、城外で釜を増やせる建物を探しておくよう頼んだ。次の注文は今の人数で何日かかるか、その先に何人増やせるかも見てもらう。
言い終える前から、さらに次のことを考えていた。
船が欲しい。
大きな壺に詰めたしゃぼんも、三田から来る材木も、宗兵衛の酒も、自分で決めた時にまとめて出せる船が。
◇
「一艘を、こちらで使うのでございますな」
翌朝、弥九郎を呼んで話すと、彼は膝の前へ手を置いた。
「買うには早い。まずは船頭ごと借りたい。三月ほど、兵庫と堺の間を行き来させる。こちらの荷だけで埋まらぬ分は、他の商人から運び賃を取って積む」
弥九郎はすぐには返事をしなかった。
以前、父親に商いの穴を聞かれていた時と同じように、視線が少し下がる。俺は続きを待った。
「それなら、堺へ帰る船に心当たりがございます。ただ、しゃぼんと酒だけでは、とても埋まりませぬ。木を積むなら、三田で買う者と堺で引き取る者を先に決めねば」
「その通りだ。売れるか分からぬ木を、船が空いているから積むつもりはない。堺で何が要るかを先に聞いてください。こちらから出せる物も見せる。船主へ話を持っていくのは、その後でいい」
「小西屋だけで荷を集めますか」
「堺のしゃぼんと強い酒は、約束どおり小西屋へ売る。その荷を届ける運び賃は、品代とは別に決めてくれ。ほかの商人の荷も取る。小西屋だけで船を埋める必要はない」
弥九郎が顔を上げた。
「父が今、船方へ払っている額を聞いてまいります。同じ銭で出す日まで決められるなら、こちらへ任せる話はできましょう」
「ああ。値を下げて取るなら、続けて荷を出してもらうなど、こちらにも得がある話にしろ」
今度は、はっきり笑った。
「承りました。荷の注文と、運び賃の両方を決めてまいります」
立ち上がるのが早かった。
ようやく、こいつに任せたかった仕事を渡せた気がする。
弥九郎を見送ったあと、俺は常陸と手元の銭を確かめた。
今回の七貫だけで船を動かそうとは思わない。次の品を作る分は残し、船を借りる元手には小西家から受け取った銭の残りを使う。船の食料や、荷が揃わず待つ間の費えも見ておく。
認めよう。確かに金が入ったから船が欲しくなったのだ。
ただそれだけでは、あいつらの主人としては失格だろう。
船が欲しいから、儲かる使い方を考える。
船があれば商圏も扱える品も莫大に増えるのは間違いないのだ。
弥九郎が堺と兵庫を行き来する間に、俺は叔父上へ文を書いた。兵庫で始めた産品が初めて売れたことと、船を一艘借りるつもりであること。弥九郎が集めた東の商人の話から、京と尾張の米の値も添える。
最後に、秋の買入れについて、一度ご相談したいと書いた。
それを閉じると、港へ出た。
船が並んでいる。
昨日までこの瞳に映るただの景色だったのに、今日は一艘ずつ見比べたくなった。
◇
堺から戻った弥九郎は、小西屋の返事と桶屋の注文を持ってきた。
「しゃぼんの品代は今までどおり。兵庫から堺までの運び賃は、これまで頼んでいた船方と同じ額でまとまりました。次の仕入れに合わせて船を出すなら、こちらへ任せると」
小西屋が使っていた船の代わりを、俺の船が務める。商品を買う約束に、ただで届ける役目まで付けたわけではない。
弥九郎が連れてきた船主は、首の後ろまで日に焼けた男だった。
自分でも船に乗り、船頭を務めるという。供の水主が一人、片方の肩へ着物を引っかけて後ろに立っていた。
城へ呼ぶと言ったら、船を見てもらった方が話が早いと返ってきた。
俺もその方がよかった。
岸へ寄せた船の舷側には、継ぎ直した板が見えた。新しくはないが、荷を下ろしたばかりの船内は掃かれ、縄はまとめて置かれている。船底を確かめていた弥九郎が、梯子を上がってきた。
「今すぐ乗れます。大きな繕いは、この春に済ませたそうです。普段から直しを頼む大工にも、先ほど見てもらいました」
船主は俺の顔より、腰の刀を気にしていた。
「三月、お使いになると聞きました。堺への荷を運ぶのは結構ですが、途中で御陣へ出よと仰せになられては困ります。船だけでなく、乗っている者にも家がございますので」
俺の隣で、大場殿がわずかに顎を上げた。
領主を前に、最初から断りを入れる男は珍しかったのだろう。
「今回は商いのために借りる。別の役を頼むなら、別の話だ。この約束を盾に、戦へ出せとは言わない」
船主は弥九郎を見てから、俺へ頭を下げた。
「それならば、お受けします。ただし、海の上では某の申すことを聞いていただきます。風が悪ければ出せませぬ」
「行き先と積む荷は俺が決める。積んだ荷がちゃんと目的地に着くなら何も言わん。だが、船が出せない時は弥九郎には理由を伝えてくれ。着く先で待っている者へ知らせたい」
「それで結構にございます」
船主の肩が、ようやく下がった。
弥九郎は船縁へ書付を広げた。
最初の往きには、小西屋へ届ける追加注文のしゃぼん。それから堺の桶屋が買う、三田の材木を積む。製材した物で、寸法は先方が見本を寄越してきた。空く場所へは兵庫の商人二人の荷が入る。
帰りは工房で使う油と、小西家が兵庫へ回す薬種や日用の品。それでも残る場所には、堺で荷を募る。
「帰りに荷が集まるまで、何日も待つのは損だからよせよ」
俺は、まだ名のない欄を指した。
「空きを埋めて得る運び賃より、ここで次の荷を待たせる損が大きくなる。決めた日までに揃わなければ、そのまま帰す。その損もきちんと勘定に入れるんだぞ」
「帰り荷をすべて埋めることは、いまは当てにしておりませぬ」
弥九郎は別の紙を寄せた。
しゃぼんの品代、桶屋へ売る材木の代金、小西屋やほかの商人から受け取る運び賃が、分けて書いてあった。俺が買った木や工房で使う油に、誰からも貰わぬ運び賃を足してはいない。
「小西屋と、ほかの商人から受け取る運び賃で、初めの往復に使う分は賄えます。材木は仕入れと製材に払っても残ります。三月分の借り賃まで取り戻すには、次からの荷も要りますが、桶屋は続けて買うと申しております」
見込みで埋めた紙ではなかった。取れた注文と、これから取る注文が分けてある。
俺は常陸へ渡した。
「この分なら、工房へ回す銭を削らずに済みまする」
常陸も船主を見た。
「預ける分は、今日お渡しできます」
「よし。借りよう」
弥九郎が、息をついた。
俺より喜んでいるように見えた。
船主と常陸が最後の約束を確かめる間、俺は船の中へ下りた。
板が軋み、足元がゆっくり傾く。これに荷を積み、人を乗せて、あの向こうへ出ていくのか。
岸から見れば、港にいくらでもいる船の一艘にすぎない。
だが、自分が使えるとなると、妙に大きく見えた。
「弥九郎。次は備前へも出したい」
後ろから下りてきた弥九郎が、船底へ足をついた。
「この三月のうちに、先の商いを調べておきます。父が引き受けた備前への最初の荷も、まだこれからですので」
「堺だけで終わる気はありませんね」
「若殿も、終わらぬのでしょう」
図星だった。
船が一艘動けば、二艘目の使い道を考えるに決まっている。二艘になれば、その先を見たくなる。商売が軌道に乗り始めた時の、あの落ち着かない感じが戻ってきていた。
忙しくなるぞ。
そう思うと、うれしかった。
◇
八月下旬、最初の荷を積んだ。
材木が船底へ収まり、その上へ人足が荷を運び込んでいく。しゃぼんの小壺は木箱に詰め、隙間には藁を入れた。油と一緒にならぬよう、帰りの積み方まで弥九郎が船頭と話している。
越中は、岸で数を確かめていた。
工房の手代も、最後の一箱についてきた。荷を渡したあとも帰ろうとせず、船を見上げている。
「行きたいか」
俺が尋ねると、慌てて首を振った。
「いえ。次の鍋を、今からかけますので」
少し間を置いて、彼は言った。
「ただ、船へ載るところを見ておきたく」
「俺もだ」
船の方へ顔を戻した。
自分たちが作った物が、海を渡っていく。誰かが運んでくれるだろうと思っていた時とは、まるで違って見えた。
祥も、荷を積み終える頃に来た。
小さな包みを弥九郎へ渡している。
「父上様へ、兵庫で作れるようになりましたとお伝えください。お送りいただいた香りを使った分です」
小西隆佐への礼だった。
弥九郎は両手で受け取り、濡れぬよう懐へ入れた。今日は彼も堺まで乗る。向こうで荷を引き渡し、帰りの品を積むところまで、自分で確かめるつもりだった。
「若殿。お預かりします」
「小西屋へも、遅れず届けてくれ」
「はい」
「それと、船の上で困ったことは覚えてこい。次の一艘を選ぶ時に使う」
弥九郎が笑って、船へ移った。
水主が縄を解く。
船が岸を離れ始めた時、俺は思わず一歩踏み出した。渡してあった板は、もうない。
祥が袖を掴んだ。
「お前様まで乗るおつもりですか」
「少し、乗ってみたかったですね」
「ずっと、そのようなお顔でした」
否定はできなかった。
頭の中ではとっくに堺へ着いて、その先の海まで見に行っている。
沖へ出た船で、帆が上がった。
畳まれていた布が広がり、風を受けて膨らんでいく。弥九郎がこちらを振り返った。俺は腕を上げ、大きく手を振った。
「今は借りた船だが、あれは俺の船だと自慢したくなるな」
祥が、俺の袖を離した。
「では、次は本当にお前様の船を」
海から目を離せなかった。
「ええ。必ず」




