第13話 まだ売れない物の値段
「酒を煮る?」
男は、いかにも嫌そうな顔をした。
天正十一年六月一日。
兵庫から尼崎へ向かう街道を少し外れたところに、その酒蔵はあった。
表に立派な看板はない。杉玉も色が抜け、板塀には去年の雨染みが残っている。
だが、中へ入ると様子が違った。
大きさの違う甕が十以上並び、それぞれに木札が下がっている。使った米、水を汲んだ場所、仕込んだ日。俺には読めない印まであった。
一つの造り方を守る蔵というより、失敗した物まで捨てずに次から次に並べておく仕事場だった。
「宗兵衛殿。こちらが三好孫七郎様です」
祥が紹介すると、酒屋の宗兵衛は一応、頭を下げた。
五十にはまだ届かないだろう。袖を肘までまくり、片方の眉に白い糠がついている。
「池田様の婿殿とは聞いております」
「父上が、時折こちらの酒を買っておられたそうですね」
「買ってくださったのは、他の蔵が買わぬ酒ばかりでございました」
「それは、父上が変わった酒を好んだからですか」
「変わった者を笑うのがお好きだったのでございましょう」
祥が否定しなかった。
おそらく、その通りなのだ。
今日は祥のほかに、弥九郎と九兵衛がついてきている。
爺も朝から供をすると言い張ったが、三田へ出す書状を五通渡して置いてきた。
酒蔵へ爺を連れてきたら、相談より先に試飲が始まる。
「先ほど申したのは、酒を汁のように煮詰めたいという話ではありません」
「酒は、火を近づけすぎれば香りが飛びます」
「その飛んだものを、捕まえるのです」
宗兵衛の嫌そうな顔が、少しだけ止まった。
「捕まえる?」
「酒を火にかけると、先に酒の強い気が立つ。それを逃がさず冷やして、もう一度液にする。そうすれば、元の酒より強い酒になるはずです」
「焼酎のような酒でございますか」
弥九郎が横から言った。
「九州にはあるそうです」
「それを、なぜ九州の者へ聞かず、わしの蔵へ持ってきたので」
「人と違う仕込みを試すのが、お好きだと聞きました」
「誰がそのような余計なことを」
宗兵衛が祥を見る。
「父上です」
「……池田様がなあ」
恒興の名は便利だった。
本人には黙って、ありがたく使わせてもらおう。
「できないでしょうか」
「できぬとは申しておらぬ」
宗兵衛は、さっきまで混ぜていた桶から柄杓を抜いた。
「されど、若殿の話では、何をどう冷やすかが抜けております」
「そこを相談したいのです」
「ご存じないので?」
「大まかな仕組みだけです」
俺は持ってきた紙を広げた。
釜の上を塞ぎ、そこから細い管を伸ばす。管の先を冷やし、落ちた液を別の器へ受ける。
記憶にある蒸留器を、子供の絵のように描いただけのものだ。
宗兵衛はしばらく黙って紙を見た。
「この蓋では、湯気が横から逃げます」
「では、どう塞ぎます」
「それを酒屋へ聞かれても困ります。釜師へ聞いてくだされ」
「九兵衛」
「はい」
「昨日見つけた釜師を呼んでくれ。それと、細い管を作れる鍛冶も」
九兵衛が走りかけたところで、宗兵衛が呼び止めた。
「待たれよ。細い管だけでは冷えませぬ」
「なら、どうする」
「水へ通せばよいのでは」
「それを、釜師へ伝えてください」
「なぜ、わしが」
「お好きでしょう」
宗兵衛は答えず、俺の紙を持ったまま蔵の奥へ入っていった。
追い返されなかったので、引き受けたと考えることにした。
「変わった方でしょう」
祥が小声で言った。
「いい人を知っていましたね」
「お前様と気が合いそうで、少し心配です」
それは俺も、少し思った。
石鹸の最初の試作は、その日のうちに鍋へ張りついた。
油屋から買った古い油と、灰から取った灰汁を煮た。
鍋の中で混ざったように見えたので喜んだが、火から下ろすと上と下へ分かれた。
下は妙にぬるぬるし、上は古い灯明皿のように臭い。
「これを、京の公家へ売るのでございますか」
高野越中が真顔で聞いた。
「まだ売りません」
「安心いたしました」
二つ目は灰汁が強すぎた。
汚れた布へ付けると、汚れだけでなく色まで落ちた。
大山伯耆が集めてきた染物屋は、布を見た瞬間に帰ろうとした。
「待ってください。失敗した布の代は払います」
「布だけではございませぬ。これを売る時は、うちの名を出さぬと約束してくだされ」
「まだ売りません」
「それなら結構で」
三つ目は臭いが弱くなった代わりに、汚れもあまり落ちなかった。
四つ目で、ようやく灯明皿の油汚れが落ちた。
ただし、手で触った高野の指先が赤くなった。
「痛みますか」
「少し」
「なぜ素手で触ったのです」
「現物を見よと命じられておりますれば」
「見るのと触るのは違うでしょう」
「触らねば、痛むとは分かりませぬ」
正しい。
正しいが、次からは木べらを渡すことにした。
祥は、できたばかりのどろりとした物を、女房たちへは触らせなかった。
代わりに汚れた鍋、油の染みた縄、襟の黒ずんだ古着を集めてきた。
「人の肌へ使う前に、物を洗えばよいのではございませんか」
「それでは、しゃぼんとして高く売れません」
「今は銭がないのでしょう」
「……まあ背に腹は代えられぬか」
高級品を作るつもりが、最初にできそうなのは洗濯と道具洗いの品だった。
未来は、こちらの都合に合わせて順番に来てはくれないらしい。
蒸留の道具は、もっとひどかった。
釜師と鍛冶と宗兵衛を同じ場所へ入れたところ、半日で三度喧嘩になった。
「これほど細い銅を長く曲げれば、いくらかかると思っておる!」
「太ければ酒の気が冷えぬではないか!」
「そもそも酒を火にかけるという話が気に入らぬ!」
「最初にそれを言ったのは私です」
「では、若殿が悪い!」
三人の意見が、初めて一致した。
結局、最初の道具は、手持ちの釜と木の蓋、短い銅の管、それを水で冷やす桶をつないで作った。
継ぎ目は布と粘土で塞いだ。
酒を入れ、弱い火へかける。
しばらくすると、粘土の隙間から白い気が漏れた。
「火を弱めろ!」
宗兵衛が急に怒鳴った。
「酒の気へ火が移ればどうする!」
「燃えるのか」
「知らずに煮ておられたので?」
「大まかな仕組みしか知らないと言ったでしょう」
鍛冶が慌てて薪を引いた。
「逃げておりますな」
「見れば分かります」
「香りも、ずいぶん逃げております」
宗兵衛は鼻を近づけ、少し嬉しそうに言った。
「なぜ嬉しそうなのです」
「飛ぶ物があるところまでは、若殿の申した通りでございました」
「捕まえられていませんが」
「次は捕まえればよい。なに、材料代は三好の殿様がみてくださるのだろう」
我慢だ、我慢。いつか何倍にもなって帰ってくると信じよう。
釜師と鍛冶は嫌そうな顔をしたが、帰らなかった。
翌日、蓋の形を変えた。
また漏れた。
さらに継ぎ目を増やした。
別の場所から漏れた。
四日目の夕刻、管の先から初めて透明な滴が落ちた。
宗兵衛が小さな杯で受ける。
一滴、二滴。
杯の底がようやく濡れたところで、将右衛門が戸口から顔を出した。
「間に合ったようですな」
「なぜいる」
「三田から戻りましたので」
「帰った報告より先に来たのか」
「酒ができたと九兵衛から聞きまして」
九兵衛が目を逸らした。
「まだ酒と呼べるかも分かりません」
「ならば確かめねばなりますまい」
宗兵衛が止める前に、爺は杯を取って舐めた。
しばらく黙ったあと、大きく咳き込んだ。
「強い」
「うまいですか」
「強い」
「香りは」
「喉が痛くて分かりませぬ」
最初の一杯は、商品にならなかった。
少なくとも、酒を強くすることはできた。
宗兵衛は、その夜から火の強さと酒の量を変え始めた。
頼んでもいないのに、落ち始めと終わりの酒まで別々の器へ取っている。
「混ぜぬので?」
「味が違います」
「もう飲んだのですか」
「作った者が確かめず、誰が確かめるので」
爺が深くうなずいた。
二人を同じ蔵へ置いたのは、間違いだったかもしれない。
三田では、大場殿が山の者たちと原木を並べていた。
楢、栗、椎。そのほか、茸の出た跡がある木を何種類か。
木肌へ浅い傷をつけたもの。深く割ったもの。斧の背で叩いたもの。何もしていないもの。
日当たりのよい場所と、湿った木陰にも分けた。
「これで、いつ椎茸が出るので」
山の男が聞いた。
「分かりません」
「何月に見に来ればよろしいので」
「それも、これから調べんとな」
「若殿は、何も分からぬのに木を買われたので?」
「何が分からないかは、分かっています」
男は少し考えた。
「それは、分かっておるうちに入りますか」
「ええ入りますとも」
大場殿は、何も言わなかった。
目だけは山の男と同じことを言っていた。
原木を並べ終えて、三日後に見に行った。
何も出ていなかった。
九日後にも見に行った。
やはり何も出ていなかった。
「若殿」
「分かっています」
「まだ何も申しておりませぬ」
「来年まで待ちます」
大場殿がうなずいた。
その横で、山の男が原木へ手を合わせていた。
「何をしているのです」
「早く出るよう、頼んでおります」
実験の最後は、神頼みになった。
六月半ば。
兵庫城の一室には、売り物にならない物が三つ並んだ。
油汚れなら落とせる、柔らかい石鹸もどき。
小さな瓶に半分だけ入った、喉を焼くほど強い酒。
そして、何も生えていない原木が一本。
「なぜ木まで運んだのでございます」
常陸が聞いた。
「見せる物が必要だと言ったのは、お前だろう」
「茸が生えてからでよかったのでは」
「それでは来年になる」
「来年まで待つ品なのでございましょう」
「今日の銭も要る」
坂本屋新右衛門は、三つを順番に見た。
最初に石鹸もどきを木べらで取り、油を塗った小皿へ付けた。
布でこすり、水で流す。
「油は落ちますな」
「落ちるでしょう」
「臭います」
「分かっています」
「肌へは」
「まだ使わせません」
「肌が荒れては洗い物もできぬでしょうに」
「まずは」
「油屋、染物屋、船大工。売る先はありそうです」
値がついた。
ただし、俺が考えていた相手ではなかった。
次に、新右衛門は酒を舐めた。
爺より小さく口へ入れ、爺より小さく咳をした。
「売れます」
「本当か」
「珍しい物が好きな方は、味より先に買われます」
「味もよくします」
「それなら、さらに売れますな」
宗兵衛が不満そうな顔をした。
「酒は、珍しければよいというものではない」
「うまければ高く買います。珍しいだけなら、さらに高く売ります」
「商人とは、酒が分からぬ者じゃ」
「酒屋とは、銭が分からぬ方ですな」
祥が間に入らなければ、四度目の喧嘩になるところだった。
最後に、新右衛門は原木を見た。
上から下まで眺め、裏まで確かめる。
「木でございますな」
「椎茸が出るはずです」
「今は」
「木です」
「では、木の値しかつきませぬ」
「来年、茸が出たら」
「その時に値をつけます」
厳しい。
だが、正しい。
「それで若殿は、この三つを坂本屋へ買えと仰せなので?」
「違う。まだ売れる物ではない」
「では、何を買えと」
「この先、売れるようになった時、先に買える権利です」
新右衛門の指が止まった。
「しゃぼんに近い物と、この強い酒。兵庫で作った分は三年間、同じ値なら坂本屋へ先に回します」
「畿内すべてで、坂本屋だけが売る権利を」
「それは駄目だ。他へ売れなくなる」
「では五年」
「増えているぞ」
「商いでございますので」
新右衛門は、もう一度石鹸もどきを嗅いだ。
「三年。京と近江では、坂本屋へ先に回していただく。堺と西国は除く」
弥九郎がわずかに顔を上げた。
堺を除く意味は、言うまでもない。
「値は、その時の品を見て決めます。ですが、坂本屋より安く他へ流した時は、その差を返していただく」
「分かりました」
「酒も同じ。ただし、蔵で寝かせる分は別にしていただきたい」
「どういうことです」
「寝かせた酒まで、今の三年に含められては困ります」
「なぜです」
「三年目に出来上がって、翌日から他所へ売られては、坂本屋は一度しか商えませぬ」
「まだうまくなるか分かりません」
「うまくなると仰ったのは若殿です」
「そうでした」
「では、寝かせた酒は別です。出来上がった時に、改めて話しましょう」
「その時も、まず坂本屋へ声を」
「それくらいなら」
今後は、もう少し言葉を選ぼう。
「それで、いくら出します」
「二十貫」
「五十貫」
「木に茸が出てから申してくだされ」
「四十」
「二十五」
「三十五」
「三十。それ以上なら、坂本屋だけで危ない橋を渡る必要はございません」
「分かりました。三十貫で」
常陸が、初めて嬉しそうな顔をした。
「ただし、これは品代ではございません」
「分かっています」
「先にお渡しする銭です。品ができれば、仕入れの代は別に払います」
「ずいぶん気前がいいな」
「賤ヶ岳のあと、若殿は村への銭を先に払われました」
新右衛門は、空になった杯を置いた。
「払うと申した日に払う方かどうかは、もう見ております。品ができるかは、まだ別の話ですが」
「そこは信じてくれないのか」
「商人にございますので。ですが、こんなまやかしのような話、孫七郎様が相手でなければ、聞く時間すら取りませぬ」
「そうか」
三十貫より、そちらの方が少し嬉しかった。
常陸が、話した内容を証文へ書いた。
兵庫で作る洗い物の品と強い酒。京と近江へ売る分は、まず坂本屋へ値を示す。同じ値で買うなら、それぞれ最初に売れた日から三年間、坂本屋を先とする。
蔵で寝かせる酒は、この三年には含めない。ただし出来上がった時には、まず坂本屋へ声をかける。
新右衛門は証文を二度読み、三年という文字を指した。
「この三年は、品ごとに別でございますな」
「はい」
「では、十年できなければ」
「一年以内に売れる物を一つも作れなければ、二十貫返します」
「全部ではないので?」
「試す銭はもう使うので」
「……商人より商人らしくなってきましたな」
常陸が、一年以内に一つも商品にならなければ二十貫を返すことを書き加え、二通を仕上げた。
新右衛門は年数と売る土地をもう一度確かめ、判を据えた。俺もそれに続いた。常陸が二通の証文を見比べる。
新右衛門が持ってきた銭を、常陸が一枚ずつ数え始めた。
三十貫の使い道は、その場で決まった。
石鹸と酒を試すための借り蔵と道具。
職人たちの給金。
三田で原木を見る山の者への給金。
港から城へ向かう道のうち、最も水が溜まる場所だけを直す銭。
常陸が帳面へ書き終え、残りを出した。
「七貫二百文にございます」
「三十貫、入ったばかりだぞ」
「若殿が、二十二貫八百文使われましたので」
「まだ使っていない」
「使うと決めた銭は、私の帳面ではもうございません」
銭箱には、確かに三十貫ある。
だが、俺の使える銭は、もう七貫二百文しかなかった。
「常陸」
「はい」
「新右衛門から、もう少し取れなかったか」
「目の前で相談しないでくだされ」
「お貸ししましょうか」
新右衛門が、すぐに口を挟んだ。
「利は」
「当然いただきます」
「まあ、今はまだいい。すまぬな新右衛門」
弥九郎は、石鹸と酒と原木ではなく、常陸の手元を見ていた。
「孫七郎殿」
「どうしました」
「父へ、この話をしてもよろしいでしょうか」
「作り方は困ります」
「商いの話だけにございます。兵庫へ来た船へ、帰り荷を作る話を」
「隆佐殿は、興味を持ちますか」
「坂本屋殿が三十貫出したと聞けば、必ず」
新右衛門が嫌そうな顔をした。
「小西屋まで呼ばれるので」
「お嫌ですか」
「いいえ。坂本屋が先だったと、よくお伝えくだされ」
「商人ってのは、どいつもこうなのか」
「何か仰いましたか」
「いいえ」
「ただ、弥九郎殿。父上へ話すなら、もう一つ頼みたいことがあります」
「何でございましょう」
俺は、常陸が銭を数えている机の端へ、別の紙を広げた。
京、近江、伊勢。
そして、その先に尾張。
「東へ行く商いも調べてください」
「何を扱う商いを」
「まずは米と塩。それから油、鉄、木綿。どこから来て、どこへ集まり、いつ値が上がるか。荷を預けられる蔵と、馬を替えられる宿も知りたい」
弥九郎は紙へ目を落とした。
「商いを調べるにしては、ずいぶん細こうございますな」
「安く買えても、途中で腐らせれば損です。道と橋も見てください。荷駄を百疋続けて通せるか、雨が降ればどこで止まるか」
「百疋も動かす商いを始められるので?」
「最初から百疋は動かしません」
「では、何をなさるので」
「一俵でも一樽でもいい。土地ごとに一度ずつ買って、約束した日に払いましょう」
新右衛門が、少しだけこちらを見た。
「品を買うのでなく、次も売ってもらえる相手を買うおつもりで?」
「相手は買えません。縁を作るだけです」
「その方が、品より高うつきますぞ」
「だから、今から始めるのです」
弥九郎が、京から東へ指を滑らせた。
「どこまでを見ればよろしいので」
「尾張まで」
弥九郎が俺を見た。
「ずいぶん先をご覧になりますな」
「商いは、先を見た方が儲かるでしょう」




