ようこそ、過保護と狂気が支配する帝国へ
馬車が、国境の検問所を抜けた瞬間、空気の色が変わった。
窓から差し込む月光は、ソリス王国のそれよりも鋭く、どこか冷徹な輝きを帯びている。ルナ帝国――魔導科学が極限まで発達し、夜こそが真の主役となる「眠らぬ銀の国」
馬車内には、ルナ帝国の特産である沈香と、ハドリアヌス陛下が纏う仄かな龍涎香が混じり合っている。
彼は私の隣に深く腰掛け、私の右手を自分の膝の上に乗せたまま離そうとしない。それどころか、指の一本一本を検分するように、慈しむように、ゆっくりと撫で回している。
「……陛下、そろそろ私の手もふやけてしまいそうですわ」
「よせ。君の指先は、今この瞬間も帝国の魔導回路と共鳴している。君がこの国に足を踏み入れただけで、国境の結界強度が五パーセント上昇した。これは観測史上、類を見ない異常事態だよ。アウレリア」
ハドリアヌス陛下は、熱に浮かされたような瞳で私を見つめた。
この男、顔が良い。それはもう、神が機嫌の良い日に心血を注いで創り上げた最高傑作と言っても過言ではないほどに。だが、その瞳の奥にある「収集癖」は、明らかに正気の範疇を逸脱している。
「五パーセント? それはまた……私の魔力も、故郷(あんなゴミ捨て場)を離れて張り切っているのかしら」
「張り切ってもらわねば困る。私は君を、ただの客として招いたわけではないと言ったはずだ。君は我が帝国の、そして私個人の『至宝』だ。これから君が行く先々で、道は清められ、壁は輝き、人々は無病息災を享受する。……君という存在は、歩く神殿なんだよ」
「あまりハードルを上げないでいただけます? 私はただ、物が腐るのが嫌いなだけ。自分を取り巻く世界が、常に『ベストコンディション』でないと落ち着かない。……それだけの、潔癖症な女ですわ」
そう。私の魔法『最適保存』は、本質的にはエゴだ。
目の前の果物が萎びるのが許せないから、時間を止めるのではなく、その果物が「最も美味である状態」を強制的に維持させる。
ソリス王国の王宮が美しさを保っていたのは、私が無意識に、あの不細工な石造りの建物を「最適化」し続けていたからに過ぎない。
今、あの国はどうなっているだろう。
私が去った後の「揺り戻し」は、おそらく凄惨なものになるはずだ。
一方その頃、ソリス王国――。
華やかな夜会が行われていたはずの大広間は、文字通り「阿鼻叫喚」の地獄絵図と化していた。
「……なんだ、この臭いは!? ドブネズミでも死んでいるのか!」
カッシウス殿下が鼻をつまんで叫ぶ。
しかし、異変は臭いだけではなかった。
先ほどまで輝いていたシャンデリアのクリスタルが、みるみるうちに濁り、カサカサという不気味な音を立てて床にガシャンと落下した。
壁を飾っていた名画は色が褪せ、キャンバスが剥がれ落ち、描かれた英雄の顔がドロドロに溶けていく。
「キャアアアアッ! 私のドレスが! ドレスが茶色くなっていくわ!」
悲鳴を上げたのは、殿下の腕に縋っていたルキッラだった。
純白だったはずのシルクのドレスは、一瞬にして数十年放置された古布のようなボロ切れに変わり、彼女の白皙の肌には……あろうことか、ポツポツと赤黒い湿疹が浮かび上がっていた。
「ひ、ひいっ! ルキッラ、お前の顔が!」
「殿下? 何を……ぎゃあああ! 殿下の髪が、抜けてる! 殿下がハゲていくわ!」
アウレリアがいたことで抑え込まれていた「時間の腐敗」と「不摂生の代償」が一気に逆噴出したのだ。
カッシウス殿下は、日頃の暴飲暴食と不規則な生活による身体のガタが、保存魔法の消失と共に顕在化。二十代前半にして、頭頂部が冬の荒野のような寂寥感を漂わせ始めた。
「ありえん……こんなことがあってたまるか! おい、魔導師団を呼べ! アウレリアを連れ戻せ! あいつだ、あいつが呪いをかけたんだ!」
王が叫ぶが、その王の口からも、長年隠し続けてきた凄まじい口臭が放たれ、周囲の近衛騎士たちがバタバタと悶絶して倒れていった。
彼らは知らなかったのだ。
アウレリアという『防腐剤』が、いかにこの腐りきった王国を、外面だけは「まとも」に見せていたのかを。
ルナ帝国の皇宮『月光宮』
馬車が到着したそこは、ソリス王国の王宮が犬小屋に見えるほどの、圧倒的な建築美の結晶だった。
白銀の石材で組まれた塔は天を突き、庭園には魔力の光を放つ青い薔薇が咲き乱れている。
馬車の扉が開くと、そこには整然と並んだ数百人の使用人と、帝国高官たちが控えていた。
彼らは一斉に膝を突き、深々と頭を下げる。
「「「アウレリア・フェリキタス様、ようこそルナ帝国へ!」」」
地響きのような歓迎の声に、私は少しだけ気圧された。
ハドリアヌス陛下が、私の腰に手を回し、エスコートするように前へ進める。
「陛下……少しやりすぎではありませんか? 私は追放された身ですよ」
「追放されたのではない。君が、あの無価値な土地を『見捨てた』のだ。価値を決めるのは常に勝者であり、ルナ帝国において、君は私の妃にも等しい地位で迎えられる」
「妃……? そんな話、聞いていませんけれど」
「今決めた。不服か?」
彼は立ち止まり、私の顔を覗き込んだ。
冷徹な皇帝としての顔の裏に、駄々をこねる子供のような執着が透けて見える。この男、仕事は完璧だが、私生活では相当に面倒くさいタイプだと直感が告げている。
「不服というか、早急すぎますわ。私はまだ、自由を満喫したいのです」
「自由ならいくらでも与えよう。この宮殿の中でなら」
「……それは世間一般では『監禁』と呼びますのよ」
「私は『完全保護』と呼んでいるがね」
ハドリアヌス陛下は愉快そうに笑うと、私を宮殿の最深部へと案内した。
そこには、私のために用意されたという「私室」があった。
部屋に入った瞬間、私は絶句した。
床は最高級の魔法銀でコーティングされ、家具はすべて龍血樹の端材から削り出された逸品。何より驚いたのは、部屋の中央に鎮座する巨大なベッドだ。
天蓋からは、身を守るための守護石がこれでもかとぶら下がっており、まるで物理的な要塞である。
「ここが君の拠点だ。そして、見てくれ」
陛下がパチンと指を鳴らす。
すると、壁一面が透過し、隣の部屋が見えるようになった。
そこには、山のような書類と、魔法の術式が刻まれた装置に囲まれた、ハドリアヌス陛下の執務室があった。
「これで、君はいつでも私の存在を感じられるし、私も君が健やかに眠っているかを確認できる。完璧だろう?」
「……陛下。一つだけよろしいかしら」
「なんだい、私の国宝」
「この壁、向こうからは見えるけれど、こちらからは見えないようにする設定はありますの?」
「ないね。私の顔を常に拝めるのは、君にとって最大の報酬だと思っていたのだが?」
……この男、やはり少しだけ、いや、かなり頭がおかしい。
私は深いため息をつき、豪華すぎるソファに身を沈めた。
私が座った瞬間、古びていたはずのソファのクッションが、私の魔力を吸って瞬時に新品同様の弾力を取り戻す。
ルナ帝国の濃密な魔力と、私の保存魔法が共鳴し、部屋全体の「鮮度」が極限まで跳ね上がるのを感じた。
「ふむ……。君が触れるだけで、この部屋の酸素濃度が最適化され、細菌が死滅していく。素晴らしい。君のそばにいるだけで、私の寿命も数百年は延びそうだ」
ハドリアヌス陛下は私の隣に座ると、当然のように私の肩を抱き寄せた。
彼の体温は少し高く、銀色の香りが鼻をくすぐる。
「アウレリア。君を捨てたあの国が、今頃どれほどの腐臭に包まれているか……想像するだけで、最高の酒の肴になる。君はもう、過去を振り返る必要はない」
「ええ、振り返りませんわ。……ただ、あちらに残してきた私の『私物』が、今頃どうなっているかは少し気になりますけれど」
「私物?」
「はい。例えば……私が個人的に品種改良していた、猛毒を持つ『喋る食肉植物』とか。私が毎日魔法で『おとなしく』させていたのですが、今頃はきっと、王宮の食堂あたりで元気に遊び回っているはずですわ」
私は上品に、オホホと笑った。
ハドリアヌス陛下は一瞬目を見開いた後、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「実にかわいい。……アウレリア、君をルナ帝国に連れてきたのは、私の人生で最高の選択だったよ」
皇帝の熱い唇が、私の耳朶をかすめる。
新天地での生活は、思っていたよりもずっと刺激的で、そして少しばかり「息苦しい」ほどの愛に満ちているようだ。
一方、ソリス王国では。
「カビの生えた王冠」を被った国王と、「ハゲかけた王子」が、アウレリアを連れ戻すための追っ手を差し向けることを決断していた。
……それが、自分たちの首をさらに絞めることになるとも知らずに。
私の居場所は、もうあそこにはない。
だって、ここには私を「物」としてではなく、最高に狂ったやり方で「神」として崇める男がいるのだから。




