婚約破棄の口上は、耳鳴りがするほど芳しく
シャンデリアの光が、これほどまでに暴力的だと感じたのは初めてだった。
王宮の夜会。高価な蜜蝋の香りと、着飾った貴族たちが放つ香水の混じり合った、吐き気を催すような甘ったるい空気。その中心で、私は人生最大の「喜劇」の舞台に立たされていた。
「アウレリア・フェリキタス! 貴様との婚約を、今この瞬間を以て破棄する!」
広間に響き渡ったのは、第一王子カッシウスの堂々たる宣言だった。
彼の隣には、震える小鹿のように彼に縋りつく令嬢、ルキッラがいた。彼女の瞳には、勝利を確信した悦悦とした輝きが、涙という膜の裏に透けて見えている。
私は、手に持っていたクリスタル・グラスをそっとテーブルに置いた。
グラスの中で揺れる深紅の果実水を見ながら、頭の片隅で冷静に考えた。……ああ、やっぱり。昨日、庭園の噴水に落ちた夢を見たのは、この前触れだったのね。
「……殿下、理由をお伺いしても?」
私の声は、自分でも驚くほど冷淡に響いた。悲しみも、怒りも、そこにはない。ただ、定時退社を阻まれた会社員のような、ひどく事務的な倦怠感だけがあった。
「白々しい! ルキッラに対する陰湿ないじめの数々、最早見過ごせぬ! 彼女のドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとし、あろうことか毒まで盛ったそうではないか!」
「まあ」
私は思わず、扇で口元を覆った。
「ドレスを切り裂く暇があるなら、私は書庫で古文書を読んでいますわ。階段から突き落とすなんて、そんな重労働、私の細腕でできるとお思いで? ましてや毒。この国で最も毒物に精通している私を相手に、生存者がいる状態で毒殺未遂を疑うなんて……私への侮辱かしら? それとも、私の腕が鈍ったとおっしゃりたいの?」
「貴様……っ! その不遜な態度が、ルキッラを傷つけているのだ!」
カッシウス殿下は顔を真っ赤にして叫ぶ。
隣のルキッラは「ひっ」と短い悲鳴を上げ、さらに殿下の腕に顔を埋めた。見事な演技だ。劇場なら金貨三枚は払ってもいい。
周囲の貴族たちは、私を蔑みの目で見ている。
この『ソリス王国』において、私は常に異端だった。
代々、王家の守護を司るフェリキタス公爵家の長女として生まれながら、私に宿った魔力は、攻撃魔法でも治癒魔法でもなかった。
私の魔力は、ただ「そこにいるだけで万物の劣化を防ぎ、最適化する」という、地味極まりないもの。
腐りかけた肉は瑞々しさを取り戻し、錆びた剣は輝きを増す。荒れた土地は豊穣へと導かれ、人々の不浄な気は浄化される。
……けれど、この筋肉と脳漿が凝固したような脳筋国家において、その価値は理解されなかった。彼らにとっての魔法とは、火を噴き、氷を放つ、分かりやすい暴力の道具でなければならなかったから。
「アウレリア、お前のその『防腐剤』のような薄気味悪い魔力も、もう見たくない。貴様は我が国にとっての誇りでも何でもない。ただの、歩く洗濯板だ!」
「洗濯板……。それは新しい表現ですわね」
私は感心して頷いた。確かに、私の存在は世界の汚れを落とす。あながち間違いではない。
「父上! 国王陛下! どうか、この邪悪な令嬢に処罰を!」
カッシウスが玉座を仰ぐ。
そこに座る国王――私の父の従兄弟にあたる人物――は、深いため息をついた。彼は私の力の「実益」を多少は理解していたはずだが、それ以上に息子の愚かさと、ルキッラの実家が持つ利権に目がくらんでいるようだった。
「アウレリア・フェリキタスよ。其方の行いは、公爵令嬢として、また王子の婚約者として看過できぬ。よって、其方を国外追放に処す。今すぐこの場から去り、二度とソリスの土を踏むことは許さぬ」
場内が騒然とする。
追放。それは、貴族としての死を意味する。
けれど、私はドレスの裾を優雅に持ち上げ、完璧なカーテシーを捧げた。
「承知いたしました。陛下、そして殿下。……一つだけ、忠告を申し上げてもよろしいかしら?」
「黙れ! 負け惜しみなど聞く耳持たぬ!」
「いいえ、負け惜しみではありませんわ。……私がこの国を去るということは、この国にかけられていた『保存の魔法』が全て解ける、ということ。どうか、これからは衛生管理に十分お気をつけくださいませ。特に、王宮の地下貯蔵庫と、殿下のその、少しばかり腐敗の進んだ倫理観について」
「貴様ぁっ!!」
怒号を背に、私は迷いのない足取りで大広間を後にした。
王宮の外に出ると、夜風が驚くほど心地よかった。
背後でカッシウス殿下の「おい、なんだこの臭いは!?」という絶叫が聞こえたような気がしたが、私は一度も振り返らなかった。昨日寝違えて、首が痛いからに他ならない。
門を出てすぐ、暗がりに一台の、黒塗りの馬車が停まっていた。
ソリス王国の野暮ったい馬車とは一線を画す、流線型の美しいフォルム。漆黒のボディには、銀色の月を象った紋章が刻まれている。
それは隣国――『ルナ帝国』の紋章だった。
「お早いお着きですね、ハドリアヌス陛下」
私が声をかけると、馬車の扉が音もなく開いた。
中に座っていたのは、夜の闇をそのまま凝縮したような黒髪と、冷徹なまでに美しい貌を持つ男。
ルナ帝国の皇帝、ハドリアヌス・アウグストゥス。
彼は冷ややかな微笑を浮かべ、私に手を差し伸べた。
「待っていたよ、アウレリア。野蛮な太陽の連中が、ようやく最高級の宝石をゴミ箱に捨てるところをね」
「宝石だなんて、買い被りすぎですわ。さっきまで『洗濯板』と呼ばれていた女ですよ、私は」
私がその手を取ると、彼は強引に私を車内へと引き寄せた。
そのまま皇帝陛下は私の腰を抱き、あろうことか首筋に鼻を寄せた。
「……ふむ。素晴らしい。君が去った瞬間に、あの王宮の壁から蔦が剥がれ落ち、生花が萎れるのが見えた。やはり君は、生きているだけで世界を定義する『国宝』だ」
「陛下、距離が近すぎます。それに、国宝をそんな風に扱うものではありませんわ」
「いいや、国宝だからこそ、誰の手にも触れぬよう厳重に保護し、そして毎日愛でる必要がある。……そうだ。君を追放したあの愚か者に、少しばかり『礼』をしておいたよ」
ハドリアヌス陛下が指を鳴らす。
すると、窓の外から見えたソリス王宮の美しい尖塔が、まるで残像のように茶色く変色し、ボロボロと崩れ始めた。
「まあ。なんてことでしょう」
私は無表情に言った。
「私の魔法が解けただけでなく、陛下の呪いを上書きされたのですか?」
「彼らは『新鮮さ』を維持する努力を怠った。ならば、相応の結果を受け入れるべきだろう」
馬車がゆっくりと動き出す。
ソリス王国の国境を越え、魔術文明の頂点と言われるルナ帝国へ。
「アウレリア。私の帝国では、君に不快な労働はさせない。君はただ、そこにいて、微笑んでいればいい。君が飲む茶も、君が座る椅子も、君の魔力によって永遠の美しさを保つだろう。私はそれを、永遠に守り続ける」
「……随分と重たい愛ですね。皇帝陛下」
「重い? いや、これは執着という名の、最も純度の高い保存法だよ」
ハドリアヌス陛下は、私の指先に唇を落とした。
その瞳は、獲物を決して逃さない捕食者のそれだったが、カッシウスのような愚鈍な濁りはない。
私は深く、馬車のシートに背を預けた。
これから始まるのは、溺愛という名の監禁か、あるいは国宝としての優雅な隠居生活か。
どちらにせよ、あんなカビの生えたような王国にいるよりは、ずっと「健康的」な未来が待っていそうだ。
「ああ、言い忘れていました」
私は思い出したように、微笑んだ。
「ソリス王国の地下貯蔵庫、あそこには十年分のアレキサンドリア産ワイン(資産)が眠っていますの。私の魔法が解けた今頃……おそらく、全て最高級の『腐敗水』に変わっているはずですわ。カッシウス殿下の婚礼の儀で振る舞われるのが、今から楽しみですこと」
皇帝陛下は愉悦に満ちた声を上げて笑った。
夜の帳の向こう、かつての故郷が急速に色あせていくのを眺めながら、私は新しい人生の味を噛み締めていた。
……少しばかり酸っぱいけれど、後味は決して悪くない、そんな人生の味を。




