使者の末路は、最高級の肥料として(あるいは反面教師として)
ルナ帝国の朝は銀色に輝く霧と共に訪れる。
私が目覚めると同時に、部屋の空気が微かに震えた。私の無意識の魔力が、夜の間に停滞した空気を「最適化」し、肺に吸い込むだけで細胞が活性化するような、極上の酸素へと作り替えたのだ。
ふかふかのベッドから身を起こすと、視界の端に動く影があった。
……やはり、そこにいたのですね。
「おはよう、アウレリア。今朝の君も、露に濡れた真珠のように完璧だ」
透ける壁の向こう側――ではなく、なぜか私のベッドサイドに置かれた豪奢な椅子に、ハドリアヌス陛下が座っていた。彼は手に持っていた魔導書を閉じると、優雅な所作で私の手を取り、指先に朝の挨拶を落とす。
「……陛下。昨晩、壁の透過設定については話し合ったはずですが。なぜ貴方が、私の寝室(こちら側)にいらっしゃるのですか?」
「ああ、それなら心配いらない。私はただ、君の睡眠の質が『最適化』されているかを一晩中見守っていただけだ。……君の寝顔があまりに尊く、筆舌に尽くしがたい保存価値があったので、急遽、帝国最高の絵師を召喚して隣の部屋でスケッチさせたがね」
「安眠という概念を、陛下はどこかのブラックホールにでも捨ててきたのですか?」
私は呆れを通り越して、すがすがしい気分で尋ねた。
この男の辞書に「遠慮」という文字はないらしい。あるのは「愛」と「執着」、そして「国宝保護法(私限定)」だけだ。
「朝食の準備ができている。君が一口食べるごとに、厨房のシェフの寿命が延びると評判だよ」
「私の魔力を勝手に延命治療に使わないでくださいませ。……それで、陛下。先ほどから外が騒がしいようですが、何か?」
私の問いに、ハドリアヌス陛下の美しい瞳が、一瞬だけ酷薄な光を宿した。
「ああ、ゴミが迷い込んできてね。ソリス王国から『使者』と称する無礼者が、国境の結界を無理やりこじ開けようとして、我が国のガーゴイルに軽く捻り潰されたところだ」
「まあ。……生き残っているのかしら?」
「幸か不幸か、命だけはね。君に会わせろと喚いているが……どうする? 即座に細断して、庭園の肥料にしてもいいが」
私は少し考え、口角を上げた。
ソリス王国。あのカビの生えた国からの使者。おそらく、私が去った後の「惨状」に耐えかねて、厚顔無恥にも連れ戻しに来たのだろう。
「いいえ、陛下。せっかくですからお会いしましょう。……ゴミがどれほど無様に腐敗しているか、この目で確認しておくのも、保存学上の興味がありますもの」
謁見の間。
そこには、かつて私を「洗濯板」と嘲笑ったカッシウス殿下の側近、マルクス卿がいた。
彼はルナ帝国の衛兵たちに左右を固められ、床に跪かされていたが、その姿は一ヶ月前とは似ても似つかないほど無惨なものだった。
銀色に輝くはずの甲冑は赤く錆びつき、赤いマントはボロボロで、何より……強烈な「臭い」がした。
それは、隠しきれなくなった不潔さと、焦燥から来るどす黒い汗の臭いだ。
「……っ、アウレリア様! ああ、アウレリア様!」
私の姿を見るなり、マルクスは狂ったように叫んだ。
「お戻りください! 今すぐソリス王国へ! カッシウス殿下も、国王陛下も、貴女を許すと仰っております! 今なら、婚約破棄も『冗談だった』ということで、貴女を側妃として迎えて差し上げると……!」
私はその言葉を聞いた瞬間、隣に座るハドリアヌス陛下の周囲の空気が、絶対零度まで冷え切るのを感じた。
「側妃? 私の国宝を、あんな掃き溜めの側妃に?」
陛下の声は静かだったが、床のタイルにピキピキと亀裂が入った。
私はそれを手で制し、マルクスを冷ややかに見下ろした。
「マルクス卿。お言葉ですが、私は今、ルナ帝国で『国宝』として丁重に、それはもう胃がもたれるほどに過保護に扱われておりますの。……そんな私が、なぜわざわざ、不衛生で、王子のハゲが進行中(密偵情報)の国に戻らなければならないのかしら?」
「なっ……王子がハゲていると、なぜそれを!?」
「私の魔法が解けたのですもの。当然の帰結ですわ。……それより、卿自身の心配をなさったら? その首元、酷い湿疹ですこと。私がいた頃は、私の加護が王宮全体に行き渡っていたから隠せていたけれど……卿、実はかなり不摂生な生活をなさっていたのね。あるいは、ルキッラ様との『秘密の逢瀬』で、何か良からぬ病でも貰ったのかしら?」
マルクスの顔が、灰色を通り越してどす黒く変色した。
図星だったようだ。
「だ、黙れ! この魔女め! 貴様が去ってからというもの、王宮の食糧は三日で腐り、水は濁り、名馬たちは次々と病に倒れた! これは貴様の呪いだ! 王家に対する反逆だぞ!」
「呪い? 心外ですわ。私はただ、『洗濯板』をやめただけ。散らかした本人が片付けもせず、掃除婦がいなくなったのを『呪いだ』と騒ぐなんて……ソリス王国の教育水準は、この一ヶ月で幼児並みに退化したのかしら?」
私は扇で口元を隠し、クスクスと笑った。
その隣で、ハドリアヌス陛下が愉快そうに肩を揺らしている。
「アウレリア。この男、まだ自分が『人間』だと思っているようだ。我が帝国の法では、君という美を損なう発言をした者は、自動的に『知的生命体』としての権利を剥奪されるのだが」
「あら、そうなのですか?」
「ああ。……おい、使者。カッシウスに伝えろ。アウレリアを返して欲しくば、ソリスの全土を洗浄し、全ての腐敗を取り除き、貴族全員が跪いてルナ帝国の靴を舐めに来い。……まあ、そうなる前に、君たちの国は反乱で潰れるだろうがね」
陛下が指を鳴らす。
すると、王宮魔術師が魔法を放ち、マルクスの体がふわりと宙に浮いた。
「ま、待て! 私は王の使者だぞ! 無礼な……あがっ、がががっ!?」
「アウレリア、この男をどうしたい? 国境まで放り投げてもいいし、帝国の広場で『動く腐敗サンプル』として展示してもいい」
「そうですね……。死なせるのは勿体ないわ。せっかくですから、彼にルナ帝国の『鮮度』をたっぷりと思い知らせてあげましょう」
私はマルクスに歩み寄り、そっと手をかざした。
私の魔力が彼を包む。
「……っ? ああ、体が軽い……痛みが消えていく……! やはりアウレリア様、貴女は女神だ! さあ、私を連れて王宮へ――」
「勘違いしないでちょうだい。私はただ、貴方の『鮮度』を最適化しただけ。……ただし、私の加護が続くのは、貴方がこの宮殿を出るまでの間だけよ」
私は冷たく微笑んだ。
「宮殿を一歩出た瞬間、貴方の体には、溜まりに溜まった、今までの『腐敗』が一気に押し寄せるわ。……想像してごらんなさい。一瞬で髪が抜け落ち、肌がただれ、胃の中の物が全て発酵する感覚を。……貴方はそのまま、自国まで走り続けなさい。途中で立ち止まれば、そのまま土に還ることになるでしょうね」
「ひ、ひいいいいっ!!」
マルクスは恐怖に顔を歪ませ、脱兎のごとく謁見の間を飛び出していった。
おそらく彼は、生涯で最も必死な形相で、自分の国へと「腐りながら」帰ることになるだろう。
静かになった広間で、ハドリアヌス陛下が満足げに頷いた。
「素晴らしい。恐怖によって鮮度を保たせるとは、君もなかなかの策略家だ。ますます気に入ったよ」
「……人聞きが悪い。私はただ、効率的なメッセージの送り方を考えただけですわ。これで、次からはもっとマシな刺客……いえ、肥料が届くでしょう?」
「ふむ。次はもう少し、見栄えの良い者を寄越してほしいものだ。あまりに汚いものが来ると、君の視神経が汚染されてしまうからね。……そうだ、アウレリア。口直しに、帝国の秘宝庫へ行かないか?」
「秘宝庫?」
「ああ。あそこには、数千年前の古代王朝の遺物が眠っている。どれも劣化が激しくてね。君のその魔法で、当時の輝きを取り戻してほしいんだ。……もちろん、君が触れたものは全て君の所有物にして構わない」
「それは……魅力的ですが、また私を働かせるつもりですね?」
「働きではない。デートだよ。愛しい女性に、世界で一番綺麗なものを見せてあげたい。……ただ、その綺麗なものが『君の魔法によって蘇る瞬間』を、一番近くで独占したいだけだ」
ハドリアヌス陛下は、私の腰を引き寄せ、熱のこもった視線を送ってくる。
この皇帝、やはりどこかネジが飛んでいるが……。
私を「利用価値のある道具」としてしか見なかったカッシウスとは違い、彼は私の「魔法そのもの」を、まるで芸術品を愛でるように崇拝している。
それは誇り高い一人の人間として、決して不快なことではなかった。
「まあ良いですわ。ただし、陛下。私の魔法で蘇った宝具を、勝手に『アウレリアの聖遺物』として国教に指定するのはおやめくださいね?」
「……努力しよう。だが、約束はできないな」
「陛下!」
私たちは、銀色の光が降り注ぐ廊下を歩き出す。
ソリス王国が自滅の道を辿る中、私はルナ帝国の中心で、かつてないほど「瑞々しい」復讐と、溺愛の海に溺れようとしていた。
一方、必死の思いでソリス王宮へ辿り着いたマルクス卿が、カッシウス殿下の前で「腐敗の爆発」を起こし、王宮の食堂を一時閉鎖に追い込むのは――また、数日後の話である。




