窓枠に錠前 -05-
女王の立場を望んだ白雪に、王が用意した家庭教師は、一人ではなかった。
今までの礼儀作法と教養、芸術に加え、帝王学、治政、経済、歴史、司法、さらには世俗文化や家政学とそれぞれ専門の教師が付いた。
その中で、白雪は閨閥結婚という言葉を知った。
いずれ、自分も隣国へ嫁ぐ可能性があることも。そして、後継ぎを得るために成すべきことも。
なにより、ようやく美しい王妃の立場を理解した。
あの冬の日に見た王妃の首筋についた鬱血の痕の意味も。音楽室の不自然に下げられた椅子と、チェンバロを弾く彼女の不自然に膨らんだスカートが示唆することも。
公的な場では崩さない凛とした表情と、うらはらな一人でいる時のどこか不安げな眼差し。
幼い頃は、重責にさらされた幼い王妃の精一杯の虚勢が、白雪と目があえば安堵したように崩れおち、彼女が秋の豊穣を思わせる贅沢な笑みを浮かべることが単純に嬉しかった。
自分だけに向けられる、美しい彼女の最も美しい姿。
白雪は、自分の存在は王妃を笑顔にすることができるのだと、無邪気に信じていた。
しかし、白雪が成長するにつれ、王妃は白雪を見る時も ―――― 否、視線すらかみ合わないようになったのはいつの頃だったか。
白雪は、その時、初めて大人になること望んでしまったことを、ほんの少しだけ悔やんだ。
一方で、疑問を抱いたことも事実だ。
貧しい国からお嫁に来た、祖国を愛する王妃が、王に取り入るために、白雪を利用しなかったこと、反対に、後継ぎをなせば、継承権で争うことになる白雪を邪険にすることは決してなかったこと。
胸に抱いたその問いの答えを王妃の口からききたいと願ったが、その問いを、王妃にぶつけることはできなかった。
夏至祭の後、王妃はふさぎ込みがちになり、彼女が部屋から出ることはめったになくなったのだ。しかし、時折、窓辺による姿を、白雪は見ることができた。
きらめくライ麦の髪に、ほっそりとした輪郭。
白雪には、彼女は変わらず美しく、否、秋が深まるように、絢爛さがはぎとられることで儚さが顕れ、ますますその美しさを重ねているように思えた。
雪解けを待ち、春の訪れとともにほころび始めた花を摘む。
小さい頃、こうして自分が種を植えた花が咲いたからと言って、一輪の花を片手に優しい王妃を訪ねたように、白雪は王妃の私室の扉を叩いた。
「お母さま、もう春になったの。お花を持ってきたわ」
返事はない。白雪はしばらく、返事を待って、扉の前で佇んでいた。しかし家庭教師の時間を気にして、扉の前へと花を置くと、踵を返す。
いつもならば、そのまま振り返ることなく学習室へ向かう。しかし、その日は、階段の手すりに手をかけた時、きぃ、と蝶番がきしむ微かな音が聞こえた気がして、思わず振り返った。
そこには、細く開いた扉の隙間から、王妃の華奢な体が覗いていた。
床に置かれた花を拾おうと、長い髪をまとめもせず、流れるのをそのままに、腰をかがめ、伸ばされた白い手は、しかし、その花に届く前に、しなやかな若い腕に掴まれた。
「お母さま!」
王妃の手を掴み、白雪は叫ぶ。王妃は驚きに目を見開いたまま、しかし、その手を振り払う力がないのか、ただ、「……白雪姫、」とかすれた声で白雪の名を呼んだ。
白雪はたまらない気持ちになり、強引に王妃を部屋の中に押し込み、許しを得ることもなく、自身も王妃の私室へと入り込む。後ろ手で扉を閉めると、そのまま、王妃の薄い体を抱き寄せた。
おろしたライ麦色の髪が、白雪の腕にまとわりつく。美しい髪は、手入れを怠っている様子はなく、香油の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
王妃は、ふっと息を吐いた。小さく上下した肩は頼りないほどに薄い。
「背が、もう私と変わらないのね」
「ええ、もう、大人です」
いつの間にか、追いついた背丈。
王妃の背に回した手のひらに触れる丸く隆起した背骨。その一つ一つを数えるようにそっと撫で上げれば、王妃の体がびくり、と揺れる。華奢を通り越して、不安になるか細い骨格。白雪ですら、力任せに抱きしめたら、簡単に折れてしまいそうだ。
「……大人って、どういう、」
王妃の沈んだ声音に、白雪は気が付かない。ただ、意を決したように口を開く。
「愛する人、を守れるように、私は」
しかし、王妃は白雪の言葉を皆まで聞くことなく、「……愛する人、」と繰り返し、白雪の腕の中で身じろいだ。思わず手を緩めた白雪と、王妃は距離を取るように、白雪の腕をぐっと押した。思わず抵抗する白雪に、「姫、離しなさい」と、有無を言わせない強い声。
白雪は名残惜しげに、ライ麦色の髪に指先を絡ませて、身を引いた。
「気分が悪いの。横になるから退がって頂戴」
いつにない完全なる拒絶。白雪はどうにか彼女の気をひこうと言葉を探す。
「何かほしいものは……」
また、果物でも用意すればこの部屋に入れてくれないだろうかと絞りだした言葉に、王妃はふっと唇を開いた。
「姫の……」
促されるままに言いかけ、しかし、王妃は、はっと口をつぐんだ。白雪はぱっと表情を明るくする。
「私の?」
自分でも驚くほど甘い声で、ねだるように問いかけるが、王妃は両の手で自分を抱き、後退る。目も合わせずに突き放す王妃に、半ば縋るように白雪は再度問う。
「私の何ですか?」
すべてを差し出すつもりで問いかける。しかし、王妃は頑なに「退がって」と繰り返すのみだ。白雪は諦めたように、「ゆっくりお休みください」と告げて、王妃の部屋を後にした。
王妃が、八回目となる夏至祭に参加することなく、祖国に里帰りするのだと、白雪は仕立屋から聞いた。ドレスを選ぶことを放棄し、その足で王のもとへと向かう。
「お母さまが、里帰りをすると聞きました。どうして引き止めないのです?」
挨拶もなく詰め寄る白雪を王は一瞥し、従者に下がるように告げる。慇懃な礼をもって辞する従者を横目に、王はわざとらしくため息をついてみせた。
「知恵をつけた分、礼儀作法を忘れたのか」
「ごきげんよう、殿下。お仕事を邪魔してしまい申し訳ございません」
軽く唇をかみ、しかし、白雪はことさら丁寧にスカートの裾を持ち上げ手足を引く。慇懃無礼な挨拶に、王は顔色一つ変えることなく、手元の書類を繰りながら、こともなげに告げた。
「ここ最近、臥せがちのようだから良い気晴らしになるだろう」
引き留めるどころか、興味がなさそうな王の態度に、白雪はいらただしげにカツっと執務机を指で弾く。
「夏至祭のエスコートはどうなさる気です? 新しい愛人でもできましたか?」
「夏至祭ならお前がいるだろう。そもそも私はダンスが好きではない。断るいい口実になる」
「まるで、お母さまがいない方が良いような言い方はやめてください」
白雪はいらだちを隠すこともなく、王に詰め寄った。しかし、王はその口の端を少し歪めて見せただけだった。それは、皮肉るような、呆れたような、何よりどこか諦めたようにもみえる笑みのような。
「実の父である私は“殿下”なのに、あれのことは“お母さま”と呼ぶのだな」
特に嫌味でもなく、平坦な、いっそ揶揄う口調に、白雪は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……殿下はお母さまのことをどう思っているのです?」
絞り出すような白雪の問いに、王は書類を繰る手を止めて、顔を上げた。ふむ、と手を顎に当てると、「あれは綺麗でセンスがいい。身に着けたドレスや宝石、なんなら仕立てた工房に、あれが価値をつけてくれる」とのたまった。
いつもの、公人としての父親の言葉だ。白雪は興ざめしたようにすっと目を細めた。
「ならば、もっと大事になさったら?」
「不自由をさせているつもりはない」
小生意気な白雪に、王はそっけなく答えるが、その口元には人の悪い笑みが浮かんでいる。白雪は不快そうに一瞥すると、その表情を引き締めた。
「……愛してはいないのですか?」
入室した時に見せていたいらだちは消え失せ、ひどく真摯な問い。王は軽く嘆息すると、椅子に背を預けた。白雪に向けるのは、世界を睥睨する統べる者の眼差しだ。
「あれも愛すべき我が国民の一人だ。だから、あれが大事に思う祖国の農地開発と平和の維持に務めている」
おそらく王として、そして、彼なりに娘に対して誠実な答えだったが、白雪はそう受け取らなかった。
白雪はわずかに視線を伏せた。密度が高い睫毛が、濃い影を落とす。指先をその血を透かした赤い唇に当て、しばしの沈黙の後、ふっと合点がいったというようにゆっくりと視線を王へとむけた。それは、先ほど王自身が浮かべたものと同等の世界を睥睨する眼差しだ。
「そういえば、お母さまの祖国は、東の同盟国でしたね。かの国が穀倉地帯となったことで、わが国の食料の安定供給が随分と楽になりました。なにより、我が国と同盟国を挟んで向かい合う敵性国家を牽制するために、同盟国の領地に、我が軍を派遣することもできる」
「……今度の家庭教師は随分と優秀なようだな」
王はふっと息を吐いた。感嘆のため息だ。何より、その口元には明らかな笑み。しかし、白雪は冷めた表情のまま、「先生方には殿下に似て聡明だとおっしゃっていただいておりますが……まだ、学ぶことは多いです」と答えるにとどまる。
「勤勉なのも、向上心があるのも良いことだ」
鷹揚に頷く王に、白雪はできるだけ平静に告げた。
「見聞を広めるために、外遊に行きとうございます」
興味深そうに王は身を起こし、視線だけで話を促してきた。
「まずは一番重要な同盟国に」
白雪の答えに、王は少しだけ落胆したように椅子の背から体を離し、頬杖を突いた。
「……白雪、この国を統べたければ、お前が愛すべきはこの国だ。一人の人間ではない」
「もちろん、この国も愛しております」
そつのない態度の白雪に、王は深追いすることはない。
「ならばいい。お前が守らなければならないものを見てくるがいい」
王の言葉に、白雪は丁寧な礼を残し、執務室を辞した。
執務室の前の廊下は中庭に面している。その中庭の向こうには、黒檀枠の窓。はめ込まれた硝子の向こうで、開くことのない錠前が、陽の光を鈍く反射している。まるで、価値のある宝石をしまい込むように、厳重に閉じられた窓。硝子のさらに奥には、重たいカーテンが閉じられている。その向こうには、きっと彼女がいるはずだ。
ライ麦色の髪を持つ、この国で一番、美しいひと。




