33・ナイフ
静寂ばかりが転がる小屋の中では、遠のいていく足音も明瞭に聞き取れた。
入り口のドアが軋む音さえも微かに耳をくすぐり、それも止んでやっと、僕らは本当に二人きりとなった。
「空、なかったね」シロは舞台の最前線、客席の間際に座っていた。決して足を降ろさず、膝を立てて引き寄せて、抱え込むようにうずくまっている。
それは、何かから自分を守ろうとしているような、姿勢。
「なかったね」僕はそんなシロの横に腰かけていた。
僕らの背後には、団長の屍が転がったままだ。
「……どうしよっか、これから」そう言う僕にも、見通しなどまるでなかった。
「ずっと、ずっとこうなのかしら」
「夜男が言うには、そうだね。ずっと、ずっと、このままだ」
夜のまま、とは口にしなかった。
「嫌ね」
「ああ、すごく、嫌だ」
見世物もなく、ただ黒い空だけが続き、何もなく、何事もなく、ただ僕らはあり続ける。想像するだけで、虚しくてたまらない。
……まるで、死んでいるみたいだ。
「ねぇ」その声は僕の想像に割り込み、イメージが泡と消える。「なんで彼は、死を、殺させることなんかを、望めるの?」
「青空がどんなにいいものでも、死んじゃうのよ」
「夜男は僕らよりずっと長く起きてる。そこに何か、あるのかも」それが何なのかなんて、僕にだって分からない。
「殺したくなんかない」切なる哀願。
「……だろうね」
「あなただって、こんな思いはしない方がいいはずよ。それに、させたくない」シロは更に強く膝を引き寄せる。濃紺の空色をした身体はぴったりと貼りつき、何も差し挟む隙間などありはしなかった。
「ありがとう。でも、君は」逡巡しろと僕が僕に言う。しかし、どうしようもない事実は、どうしようもない感情のままに零れ落ちた。
「これからは殺さなくても、もう死んだものはどうにもならない」
「君は、変わらない世界で、団長の死を抱えたまま、ずっと」
「言わないで。ねぇ、やめてよ」シロはこちらを見なかった。
僕は口をつぐむが、しかしシロの境遇に思いを馳せずにはいられなかった。
空っぽの暗黒、悲しい暗闇の下。思考の波だけが支配を強め、心は真底黒い水。
絶えず繰り返される罪悪の念、輝きすら帯びて思い返される見世物小屋での日々、手に粘りつく刃を差し込んだ瞬間の感触。彼らは凪いだ水面を鈍くかき回す。
気泡も立てずに無抵抗に沈んでいく意識。されど思考を絶やすことも、罪悪を忘れることも、感触を落とすことも、そして意識を終わらせることも許されない。
ただ続く。ただただ続く。
いやだな、僕はそう思った。
「僕は嫌だ」僕はそう口にした。
「ソラ?」シロが顔をあげて僕を見る。その声が、どこか心地よかった。
観客席を見回す。三人居る。ぼんやりと立つ大人たち。
僕は壇上から飛び降りて、そのうちの一人、手近な一人のすぐ側まで歩み寄る。高くも低くもない背丈、体格は中背中肉、これといった特徴のない男だ。
僕らの見世物にも来ていたのだろうが、一人一人を注視したことなんてない僕には、彼が誰だか分からなかった。
「ソラ?」再度問われた。僕は声の元を向き、訊き返す。「夜男は、この人の名前も知ってるかな?」
「……きっと知ってるわ。そういう人よ」
「なら、後で訊こう」僕はナイフを開き、男の腹部に突き刺した。
刃はまず乾いた薄布を押し、衣服は限界まで張り詰めた末に貫かれる。布地に穴を開けながらナイフは真っ直ぐに進み、そして柔らかい皮膚へと触れる。人の皮は服よりも脆かった。ぷつり、と小さな気泡が弾けるような感触がすると、抵抗が止む。凶器は速度を上げて潜り込む。湿った肉を掻き分け、いくつもの管を切断し、そして中身のたっぷり詰まった水袋に突き刺さったような感触を最後に、止まった。
赤い――青くもなければ、透明でもない――血液がとぷとぷと流れ出て、僕の右手を覆う。血液はそのまま手首まで伝って、そこから真下へと、小川のように流れ落ち始めた。
ナイフを引き抜く。これといって力を込める必要はなかったけれど、刃の腹を通して、水っぽい血肉が吸い付く感触が伝わってくる。血液が軽く噴出し、血の河はその流れを増す。
ぴちゃぴちゃと粘っこい水音が響き、刺された男はよろめいて、背後の座席へともたれかかった。
ナイフと右手は返り血に赤い。指とナイフの境界線が視認できないほどに血で覆われ、その血の赤は沈む夕日……一つ目の目に見た逢魔時に沈む赤……よりもなお、赤かった。
「ソラ!?」驚愕と恐怖の叫びが聞こえる。だけどやはり、僕にはシロが心地よかった。
「ごめんよ」僕はまだ足りないような気がして、無造作に、刺した所とは逆側の腹をはたき捨てるようにして切りつける。
勢いに負けた男の体は、飛沫を瞬かせながらバランスを崩し、物体として力なく床に広がった。
死んだ。
僕が殺した。
血をかぶった指の先から、僕を支える背骨の芯まで、黒く濁った汚泥を流し込まれたような悪寒。一時だけ意識を背けることはできても、逃れることはできない不変の穢れ。
我が身を抱きたいのかそれとも嫌悪してしまいたいのか、それさえ分からない。二本の足が踏む床板の一枚下で、荒れ狂う濁流が待ち受けているような心許なさ。
酷く、吐き気がする。




