34・ぼくらふたり
よろめきながら駆ける足音。近づいてきて、僕の隣、倒れた男の屍を共に見送るような位置で立ち止まる。
「なんで……」
吐き気をこらえて声を出そうとする。だが、ひゅうひゅうと掠れた呼気が吹いては消えるだけだった。
「気持ち悪いでしょ? 辛いでしょ? 悲しいでしょ? ねぇ、ソラ……」
彼女は僕の心配しかしていなかった。殺された男ではなく、殺した僕を労ろうとした。
結局、僕らには僕らしか居ない。その事実が自暴自棄に近しい気力をくれた。
「これで僕も一緒だ」血染めの刃と一体化した右手を見せ付ける。「この意識が続く限り、苛まれる」
「君が今抱えてる、その感触に蝕まれるんだ」
「そんなこと、望んでない! こんなの、味わってなんか、背負ってなんか、欲しくなかった!」よろめくように倒れるように捲し立てる彼女は、僕の手をぱっと払った。「自分自身が嫌で堪らないはずよ、そんな思い!」
「ああ、どうしようもなく不快で、ああ、どうしようもないよ。この手を切り落としてしまいたいぐらいだ」
「だから、一緒に行こう、青空の下に。二人でつくるんだ」
シロは目じりに涙を浮かべたまま、困り惑う。
「これでもう、退路なんてない……行くしかないんだ。暗闇でこの悲しみと向き合い続けていたら、壊れてしまうよ」
シロははっとしたように目を見開き、しかし目線を伏せる。視界は地を這い、僕の背後に転がされた屍をレンズに映す。
「それで、殺すの?」途切れる。息を吸い直して、言い直す。
「正当化するの? 彼らを終わらせてしまうことを?」僕を見上げる。
「そうさ。僕は僕のために、彼らを殺して、青空を作る」
「自分の苦しみから逃れるために、彼らを殺すんだ」
「夜男も、一つ目も、死ぬのよ」
「ああ、死ぬ。僕らが殺す」
「彼は、彼女は、他の大人たちとは違う。私たちを、少しだけでも、分かってくれた」
確かにそうだ。
「そうだね。歩み寄ってくれた」
だけど。
「でも、違うんだ。君だって分かるだろう?」
彼らは終わりを覚悟している。だけど僕らに終わりはない。
彼らは大人で、僕らは子供。
「苦しみから逃れるなんて言っても、空を作れば……もっともっと苦しみが増えるのよ」
シロはこんな状況でも不思議といつものやり口をなぞって、少しずつ、少しずつ、問題を提起していく。それでも僕は揺るがず、退くこともできないと知っているはずなのに。
「じゃあ、僕らは。一人が一人殺したこのままで、ずっと夜に暮らすのかい」
そこにあるのは永遠の苦しみ。罪業を注入された意識による、他ならぬ自分自身による、内側から締め付けるような責め苦。
その道中できっと、夜男のように死を夢むのだろう。
「……そんなの、嫌だ」ポツリと漏らす。
「僕だって、嫌さ。きっと僕ら、耐えられないよ」そして耐えられなくても、続く。
苦しみたくない。苦しんで欲しくない。それが全てだった。
「逃げよう。青空の下に」
「空を青く染め上げるまでは……夢を叶える為なんだって、僕らは僕らの罪に、理由をつけられる」
「欺瞞よ」力なく。それは正論で、真実だ。だけどもう、その真実は力を喪い始めていた。
「それにね、シロ。こんなことになってしまったけれど」
僕はシロに説きながら、同時に自分へと語りかけていた。
「やっぱり僕は、青空を見たいんだ」
「青空の下で生きてみたいんだ。そこでなら何かが変わるかもしれない、そう思えるんだ」
「たとえ変わらなくても……きっと綺麗だよ。もしかしたら、汚れた僕らだって、生きられるぐらいに」
根拠のない、ただの願い。それでも、縋りつけることは確かだ。
シロはもはや何も言わず、その藍の両手で、未だに血が滴る僕の右手をそっと包んだ。はらはらと、震えている。
包まれた右手と握られた刃は、導かれるようにシロの首へと引き寄せられる。彼女の首はいつも以上に痩せ細って見えたけれど、僕は抵抗しなかった。
赤い刃がシロの首に軽く食い込み、ぷちりと表皮が弾けた。
藍色の肌から流れ出る血は、まるで僕の空のように青い。
刃が離れる。すぅ、と、音もなく、何事もなかったかのように、シロの首から傷が消える。痕も残らない。
青の血液だけがわずかに垂れ滴り、胸元まで線を引いていた。
「消えたよ、傷」
「……そっか」それだけ言うと、シロは僕の右手とナイフを抱き寄せる。震えはもう、おさまっていた。
シロの涙が、僕の返り血に、混ざる。深く濃く青より青い青は、血の赤を塗りつぶしてなお、青かった。
***
シロの涙が落ち着く頃には、僕の右手はすっかり青で上塗りされていた。
「この人の名前を、訊きに行こうか」
「待って、ソラ」
「何かあるのかい?」
シロは神妙な表情を浮かべて、答えることなく歩き出す。僕もその背を追うことにするが、返り血を浴びた服が、肌に張りついて鬱陶しい。
「夜男は、待ってくれるから」シロは舞台のへりに手をかけて、届かないと見るや、躊躇なく座席の背もたれを踏み台にして壇上へと跳び乗った。
意図を図りかねて立ち止まる僕を、淵に腰かけたシロが見下ろす。
「こっちに来て、座って」優しげに。
「少しだけ……ぼんやりと、しましょ」
「何でさ」
「いいから」言いながら、彼女は自分の座っているすぐ横の床板を穏やかなリズムで叩く。こん、こん、こん、こん。中指の骨が木材を軽やかに叩く。
「理由を教えてくれないか」
こん、こん、こん。硬質と軟質の中間じみた音だけが、規則正しく響き渡る。こん、こん、こん。
こん、こん。「わかったよ」僕を急かす音が止み、シロが仄かに、安堵したように笑う。
僕は座席を踏みつけてからへりを掴み、身体を引き上げるようにして壇上へとよじ登った。額に汗を一滴流しながら、彼女が指示した指定へりに腰かける。
「ぼんやりと、しましょ」こちらを見向きもせずに、彼女は繰り返した。その視線は並べられた座席の群れを眺めているようで、そのどれもを見てはいない、曖昧なものだった。
仕様がないので、僕も彼女の真似をする。ただ、ぼんやりと――何も見ないように、何もしないように――する。幸いにして僕の思考はもう疲れきっていて、思考がうまくまとまらない、ぼんやりとした状態に陥っていた。
ただ清流に浮かぶ葉のように、あるがままにあるだけだった。
なんとなく、ふぅ、と息を深く吐いてみる。息と一緒に涙がこぼれた。
誰のため、何のため。それさえ分からない。
しかし涙は、ぽつりぽつりと緩やかに、途切れることなく流れて落ちた。




