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32・隣街へ行く

 飛び散った数多の空飛沫たちが、中空のある一点に留まり始めた。

 彼女たちは滑り込むように入り込み、飛沫は集って流れとなり、丸いガラス瓶に蓄えられて小規模な青空が生まれていく。シロが夜を飲んだ跡、夜色を奪われた空間だ。

 空をこんこんと生み出す手首を暖かな青空に突き入れ、「シロ!」彼女を痛切に乞う。


 とくとくと色のない空間は満たされていく。空で、青く青い青空で。柔和な太陽が小さな空に登り、陽光が全方位へと降り注がれる。

 あれほどまでに望んだ青空を前にして、僕は焦れていた。シロが帰らない。色ならここにある。この壇上で僕らが描き続けたこの青が、団長の愛した青が。


 団長は死に、彼はもう終わった。

 それは今のシロのように、彼は何にも触れ得ず、何からも触れられないということ。

 僕はシロがいま夜になってようやく、その本性を解した。あまりに虚しく、あまりに寂しい、何もない、ということを。



 団長を終わらせたシロに団長が愛した青を団長が生きた壇上でまとわせる。これほどの仕打ちを強いてでも、僕はシロに帰ってきて欲しかった。シロに消えては欲しくなかった。僕らが互いを喪えば、その他には何もない。シロは居なければならない。


 円形の青空が、端から透けていった。

 透けていくその片端から、僕の青空がその透明を埋めていった。そして伸ばした僕のナイフを持たない片手の先に、ほのかな感触が生まれる。


 青空の色をまとったシロが、僕の前に現出する。

 死んだように動かない。僕の手は伸びすぎた髪の滝に飲まれていたが、そのことに気づく様子もない。そのまま手で彼女の前髪を払う。彼女はその身に太陽を孕みながら、あらゆる夜を凝縮したように無感動な目をしていた。


「なんで呼んだの」

「呼びたかったんだ」

「傲慢ね」

「傲慢だね……でもそれで構わない。他の誰を殺しても、踏みにじっても、僕には君しか居ない。僕らには僕らしか居ないんだ、これまでも、これからも」

「結局は自分のためじゃない!」

「そうだ、そうなんだけど、でも、それしかなかったんだよ!」

「……」

 シロは固まった僕の手を振り払い、前髪のヴェールで瞳を隠す。


 押し黙った僕らの間に、黒い腕が一本、割って入った。親指のない真っ黒い腕、ポケットに入れられたままだった夜男の右手。

 親指がない。その事に僕が気づく頃にはもう、彼の肘から先が青空の中に差し入れられていた。まばゆい青が夜じみた腕を包み、陽光が軽やかに服を暖める。そしてうららかながら凛とした風が朝を告げるように手のひらを撫でると、その肌は崩れて落ちた。


 崩落はあっという間だった。

 指が崩れ、手の甲が落ち、手首が砕け、腕が割れた。青空は柔和な笑みを崩さぬまま、夜男の腕を炭と化すまで焼き尽くした。腕の破片たちが床とぶつかって、乾いた異音を立てる。

「やめろ」肘までしかなくなった腕を、僕とシロは潰さんばかりに掴んだ。

 だが夜男はその大きな足をためらいなくシロの腹に打ち込み、そのまま軽々と蹴り飛ばす。だん、と硬い骨と柔らかな肉の混ざった衝撃音。シロは腰を打ちすえ、座ったような姿勢のまま、痛みでこわばってしまう。


 僕は一人でも腕を離すつもりはなかった。だが力の限りに引いても、腕はびくともしなかい。弾性ある人間の腕が、次第に乾いた木枝のように成り果てていく様を、指先で思い知らされる。

「よく見ておけ」なおも彼は言う。シロの目に涙が滲む。されど僕らは腕の行方を見届けねばならなかった。


 とうとう肘から奥も生気を焼かれ、水蒸気のような煙を吹き上げながら形を喪った。僕の指が勢い余って中空を掴む。

 さらさらざらざらと耳障りな音を立てて、夜男の右肩から先が壇上へと拡がった。それは砂のようだった。真っ黒な、真っ黒な、ただそれだけの、砂。


「お前たちの夢見る青空を、俺達は見れない」

 黒い砂で汚れた僕の指。呆然とする僕らに告げる。「俺達大人は、夜に慣れすぎちまったんだ」


 ――そして、もっと多くの死を踏み越えていくことになるんだ――よぎる言葉。心の中に立つ僕はただただ首を横へと振った。嫌だ。

「それなら、青空なんて作らない」指の汚れが、どうしようもなく悲しい。

「それでお前たちはどうなる? 光差す世界で生きたいと夢見たはずだ」


 シロがよろめきながら近づく。支えないと、そう呟きながら、しかし僕の身体は動かない。シロの手が青空に届く。

「隣街を、探すわ」ゆっくりと、夜男の腕を奪った青空が色を喪い、少しずつ、シロの纏う空色がより深い濃紺へと色を重ね塗られていく。青空は消え、空白だけが中空に残った。


「そんなものは無い」

 僕らは同時に息を呑む。

「気付いてたんだろ? 無ぇんだよ、隣街なんてもんは」

 その宣告が、僕の甘さを殴りつける。

「隣街は存在しない。存在しない場所に行く……そりゃ消えるってことだ」

「『隣街に行く』ってのはな、俺達の間じゃ『死ぬ』って意味なんだよ」

 なんとなく、気付いていた。でも気付きたくなかった。


「青空は隣街に行ったって……団長が……」無駄な足掻きがぽろぽろ落ちる。

「青空は死んだよ。お前らが生まれるずっとずっと前に」

「もう、どこにも在りやしない。消えたんだ」



***



 青空は、ずっと昔に、隣街に行った。僕はそう聞いていた。団長からそう聞いていた。

 青空は、ずっと昔に、隣街に行った。


 違う。

 青空は、死んだ。

 消えた。冷たい。太陽は黒い。日光は差さない。

 鳥は木枯らしに裂かれて吹き散らされた。花は咲くことのない蕾をつける。

 青空は死んで崩れた。団長のように。倒れた団長の屍のように。

 汚れた土くれと惨めな砂塵を残して。黒い血を世界中に叩き塗って。



***



 視界に見世物会場が染み入ってくる。考えたくない。しかし動き出した理性が許さない。僕は残酷なここに居る。

「……僕らが青空をつくれば、皆死ぬ」

「そうだ」

「でも、隣街はない。もうどこにも青空は居ない」

「そうだ」

 夜男は答えるだけ。


「僕らは、どうすればいい?」

「俺たちを殺して、青空をつくれ」その願いに痛みはなく、さらりとそれは口にされた。

「つくらなかったら?」

 夜男の右肩がわずかに蠢き、それから左人差し指が僕の手首を指差した。何度も深く切り付けたあの傷は、跡も濁さず消えていた。

「ずっとこのままだ。お前たちも俺たちも、そして夜も」

「それを変えられるのが、青空」

「かもしれない、程度の予測……いや夢だが、その通りだ」


「何故、あなたがそんなことを願うの。消えたくはないでしょ?」

「どうだろうな。消えたいのかもしれないし、やっぱり消えたくはねぇのかもしれない」シロはあからさまに不快げに、悲しげに、やるせなさげに、眉をひそめる。

「疲れてきちまったってのも事実だ。だが、それよりも、何よりも」

「これ以上、お前たちを閉じ込めていたくないんだ」これまでに聞いた全てを上間って切実な色を帯びた声。


「眠らないよう走り続けてきた時間のせいで、あらゆるイメージをずっと遠くに置いてきちまった」声色を更に深く濃く内奥から滲ませながら、その大人は吐き出すようにして、子どもたちに聞かせる。

「それでも分かる、覚えてんだ。かつて世界は美しかった。美しかったんだよ。そこには、先があったんだ」

「先が、あったんだよ。先がさ、夢がさ」

 その顔はまるで子供みたいで、現在を見据えながら過去に思いを馳せるその目付きは、見世物小屋の観客たちが僕らを見上げたあの瞳によく似ていた。

 ――ずっと昔に、友達と写った写真。抱え込んだサッカーボール。いつまでも追いかけていたくなる、夏と秋との狭間の風に揺れる球――それを見つめる、少年だった少年。その、瞳。


 瞳は、僕の手に握られたナイフを、そしてそれから濃紺のシロを、最後にとうとう僕を見た。

「俺達を殺して、青空をつくってくれないか」

 夜男はそう願った。その願いに、自らの死が含まれていることを知りながら。


「シロと、二人にしてほしい」

 泣き出しそうなシロと、混線する僕の感情を制して、それだけをやっと伝えた。

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