ささやかな物語
爛漫の春を迎えた北の地は、どこもかしこも宝石のような緑色に輝いていた。
木々を透かして燦々と降り注ぐ光、花の溢す蜜の匂い、ふっかり柔らかな畑の土を耕す農夫たちの姿。
きらびやかで豪奢な王都とは似ても似つかぬ景色だけれど、生命の歓びの気配だけは変わらない。
目を細めて見渡す世界、丘の上に聳える木登りにぴったりな大樹の下にお目当ての人はいた。
束の間の午睡の中にあるのか、上等な仕立ての上着を無造作に脱ぎ捨てて瞑られた瞼。
こんな風に朗らかな笑みが浮かんでいない時、貴方は私よりうんと大人なのだと実感させられる。
起こさないようにそうっと樹の根元へ腰掛けて、木漏れ日の散る頬を見守る。
ちらちら、ゆらゆら、妖精が戯れるような緑の陰影はいつまで見ていても飽きない。
貴方の頬に落ちた光がきれいだから一緒に見たい、なんて我が儘を言ったらなんて答えてくれるだろう。
そんな、とりとめもない平和な思考にゆるゆると力が抜けていく。
王都からの旅装も解かないまま駆けつけたものだから、油断すると眠気がやってきそうだった。
だから、早く起きて、アベル。
その榛色の髪をさらさらと指で梳く。
少し固くて、でも滑らかで真っ直ぐな貴方の髪。そういえば触れたのは初めてだった。
やがて蝶が羽ばたくように睫毛が震え、森の瞳がゆっくりとその緑を現す。
「……ヴィオレーヌだ」
「はい、ヴィオレーヌです」
「春の野に在る君は美しいなあ」
「雪の窓辺でも同じことを言っていましたね」
「まだまだ、君に似合う景色は無数にあるに決まっている」
起きた瞬間にそんなことを言うものだから、うっかり笑ってしまいそうになる。
「ところで僕は、君に逢いたくてとうとう幻覚を?」
「ふふ、正真正銘本物ですよ」
大事なことを言おうと構えていたのに、とうとう堪えきれずに吹き出してしまった。
貴方の前で、私はいつもこうして笑ってばかりだ。
初めて出逢った日からずっと。これからもきっと。
「ただいま、アベル。――お土産、ちゃんと持って帰ってきました」
鮮やかな緑を真っ直ぐに見つめてそう告げる。
それだけで、敏い貴方には全部伝わるだろう。
勇者様がどうしてあの小さな庭を知っていて、私を待ち構えることが出来たのか。私が確実にそこへ向かうように仕向けたのは誰だったのか。
……考えなくたって、簡単に分かることだった。
「トゥディールの冬は厳しい。枯れずに根付くと思うかい?」
深く静かな眼差しで、問われる。
「必ず咲かせます。育て方をたくさん勉強して、毎日水を遣って、いつか一面の花畑にします」
「僕の奥さんが頼もしい」
「その日まで、貴方も一緒に――二人で育てたいのです」
今はまだ小さな種の中で微睡んでいる想い。
けれど、いずれこの地に根付いて蕾をつけ、咲き誇る日が来るだろう。
私はそれを知っているし、大切に育んでいきたいと思う。心から、そう思っている。
私に出来る最大限の力強い顔で見つめれば、アベルは唐突に笑み崩れた。そのまま眦に涙が浮かぶほど笑い出したものだから、私はちょっと拗ねたくなる。
大事な決意表明だったのに。
……大体、何にも告げずにあんなに大きな決断を委ねるなんて怖い人だ。
私が約束を守らなかったら、もう逢えなかったかもしれないのに。
「そんなに膨れたら弾けてしまうよ、可愛い人」
私の頬をつつくアベルは蕩けたクリームみたいに締まりのない顔になっていて、折角の好青年が台無しだ。領民にはとても見せられない。
――きっとこの人も、選んだのだと思う。
破れた恋に目を塞いだままの私を傍に置き続けるか、私が自分で乗り越えて帰って来るのを待つか。
私はちゃんと貴方の信頼に応えられたと思っていいだろうか。
だって、辣腕家のトゥディール辺境伯は、大切な仕事を任せる相手を選び抜いている筈だから。
「さあ、どこに植えようか。庭か正門前か、部屋の窓から見える場所がいいかな」
「アベルと毎日一緒に水遣り出来るなら、どこでも嬉しいです」
「……、……花が咲く前に摘んでしまわないよう全力を注ぐよ」
深刻そうな顔で呟くのがおかしくて、私はやっぱり笑ってしまう。
身を震わす私の隣で、今度は貴方の方が拗ねた顔をして立ち上がる。
そうして春の光を背にきらきらとその輪郭を縁取らせ、大きな手をこちらへ差し出した。
大切な宝物を運ぶ時のような、うんと丁寧で優しい仕草で。
嬉しくて思わず勢いよく乗せた手は、エスコートされる淑女というよりは犬のお手のようだったかもしれない。
優雅じゃない? けれど構わないのだ、貴方の口許が楽しげに緩んだから。
二人で立つ丘の上からは、萌え出る春を見晴かすことが出来る。
あと何百回、何千回もこうして春を見届けたなら、終わりに辿り着くのだろう。
壮大な伝説の隣で生まれた私たちの物語の結末は、一体どんな色で塗られるのだろう。
それはきっと、詩人や画家が描くこともないだろう平凡な物語だ。
物語はお伽噺の終わりから始まって、数えきれない雨の日と晴れの日の頁を重ねて分厚くなっていく。そうしていつか、始まりと同じ言葉で幕を閉じたらいいなと思う。
「――そうして彼等は、末長くしあわせにくらしました」
小さな呟きに貴方が首を傾げるのに何でもないと笑って、二人で一緒に歩き出す。
ささやかな物語はまだ、ここから始まったばかりだった。
fin.