第八章 白い壁と恐怖
枢機卿の書斎から、いつもと違う匂いが漏れていた。
紙の匂い。それも書斎にある古い羊皮紙ではなく、新しい紙だった。インクが乾ききっていない匂い。蝋で封をした匂い。公文書の匂いだった。
コルナッキアはカラヴァッジョの足許にいた。カラヴァッジョは書斎の扉の前に立っていた。枢機卿に呼ばれていた。中からは枢機卿ともう一人の男の声が聞こえた。声は低く、慎重だった。取引の声だった。
扉が開き、枢機卿が顔を出した。カラヴァッジョを手招きした。コルナッキアは入ろうとしたが、枢機卿の靴先が扉の隙間を塞いだ。犬は入れない。
扉が閉まった。コルナッキアは扉の前に座り、中の声を聞いた。犬の耳には木の扉越しでも会話が届いた。
枢機卿が話していた。
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂。
コンタレッリ礼拝堂。
聖マタイの生涯を描く装飾画の注文。
声は淡々としていたが、その淡々とした声の裏に、長い交渉を経た疲労と、取引を成立させた満足の匂いが混じっていた。枢機卿の体臭が、かすかに温まっていた。いつもの冷たい匂いが、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
もう一人の男が条件を説明していた。画面の大きさ。主題の指定。期限。報酬の額。数字が並ぶ声だった。
カラヴァッジョは黙って聞いていた。質問はなかった。扉の向こうの沈黙は、考えている沈黙ではなかった。受け入れる沈黙だった。
会談が終わり、扉が開いた。カラヴァッジョが出てきた。その顔を、コルナッキアは見上げた。
表情は読めなかった。犬の目からは人間の表情の機微がわかりにくい。しかし匂いは読めた。カラヴァッジョの体の匂いが、書斎に入る前と変わっていた。集中の匂いではなかった。怒りの匂いでもなかった。体温がわずかに上がり、心拍がわずかに速くなっている。しかし汗はかいていない。興奮が内側に閉じ込められている匂いだった。
カラヴァッジョはアトリエに戻り、扉を閉めた。コルナッキアは彼の後ろを歩いた。
アトリエに入ると、カラヴァッジョは壁に立てかけてあるカンヴァスを見回した。どれも小さかった。半身像の大きさだった。テーブルの上に乗る果物の静物画。椅子に座る若者の肖像画。酒場のカード遊び。すべてが部屋の中に収まる大きさの世界だった。
カラヴァッジョはコルナッキアに向かって言った。
「おい、今まで俺は小さい絵しか描いてない。この大きさの壁面を、どうやって光で制御する? できるのか、この俺に……」
声が途切れた。最後の言葉が喉の奥に消えた。
瞳は犬の体でその声を聞いていた。この人は怯えている。匂いで確かめるまでもなかった。声そのものが怯えていた。小さな絵なら光を支配できる。窓の穴を一つ開け、一本の光の道を引けばいい。しかし聖堂の壁面を覆う巨大なカンヴァスに、あの方法が通用するのか。
スケールが変われば光の支配が崩れる。
瞳は画家としてその恐怖を知っていた。
椿賞の受賞後に大型作品を求められたとき、同じ壁の前に立った。百号のカンヴァスが白く光るアトリエの中で、右手が震えて最初の一筆が置けなかった。何日も白いカンヴァスの前に座り、描けないまま時間が過ぎた。最終的に描いたものは「光のテクスチャー」の延長線上にある安全な作品だった。つまり壁を超えられなかった。
この人も今、壁の前にいる。
カラヴァッジョは壁に立てかけたカンヴァスの一枚を手に取り、裏返した。白い面を自分に向け、しばらく見つめた。それから床に置き、別のカンヴァスを取り上げた。それも裏返した。白い面を並べた。小さな白い面が二枚、床の上に並んだ。
大きさが足りなかった。聖堂の壁面の大きさを、この部屋の中で想像しようとしていた。しかしこの部屋は小さすぎた。
カラヴァッジョは立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き始めた。壁にぶつかり、向きを変え、また歩いた。コルナッキアは彼の足の動きを目で追った。追いかけようとはしなかった。この歩き方は構図に悩むときの歩き方とは違っていた。もっと速く、もっと不規則だった。出口を探す動物の動きに似ていた。
やがてカラヴァッジョは足を止めた。窓の前に立ち、黒い布の端をつまんで外を見た。夕暮れの空が見えた。
「明日、聖堂を見に行く」
そう犬に向かって言った。声は落ち着いていた。歩き回っている間に、何かが決まったのだろう。壁を超えるかどうかはわからない。しかしまず壁を見る。そこから始める。
コルナッキアは尻尾を二回振った。
カラヴァッジョはそれを見て、鼻で笑った。
笑い方が少し柔らかかった。
翌朝、カラヴァッジョは早く起きた。コルナッキアが目を覚ましたとき、すでに外套を羽織り、剣を帯びていた。朝の光の調整をしなかった。窓の黒い布に触れもしなかった。今日は制作の日ではなかった。
マダマ宮を出て、通りを南に歩いた。コルナッキアは後ろを歩いた。朝のローマは夜とは別の匂いがした。パン屋の煙突から焼きたてのパンの匂い。市場に向かう荷車から野菜と魚の匂い。修道女たちが教会の前を歩いていく衣擦れの音。
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の前に着いた。石の正面が朝日を受けて白く光っていた。カラヴァッジョは入口の前で足を止め、建物を見上げた。しばらくそうしていた。
中に入った。
犬は聖堂には入れないはずだったが、カラヴァッジョは何も言わずにコルナッキアを連れて歩き、誰にも止められなかった。
朝のミサの前の、まだ人の少ない時間だった。
コンタレッリ礼拝堂は聖堂の左側廊にあった。小さな空間だった。しかし壁面は大きかった。今は白い漆喰が塗られただけの、何もない壁が三面を囲んでいた。
カラヴァッジョは礼拝堂の中央に立ち、三面の壁を見回した。首を回し、天井を見上げ、足元の石の床を見下ろした。それから壁に近づき、手のひらを漆喰に当てた。壁の温度を確かめているようだった。
コルナッキアは床に座って見上げていた。犬の目の高さから見る礼拝堂は、巨大な箱だった。壁が左右から迫り、天井が高く遠かった。光は入口から差し込んでいた。朝の光が床の石を横切り、壁の下半分を照らしていた。上半分は影の中にあった。
カラヴァッジョは礼拝堂の入口に戻り、光の差し込む角度を確かめた。手を伸ばし、光の道の位置を体で測った。それから壁に向き直り、また手のひらを当てた。
しばらくそうしていた。犬には彼が何を考えているのかわからなかった。匂いは集中でも恐怖でもなかった。計測の匂いだった。頭が動いている匂い。体温は変わらず、心拍は安定していた。
カラヴァッジョは礼拝堂を出た。聖堂の外に出て、日差しの中に立った。コルナッキアが足許に寄った。
「窓がない」
独り言だった。
「あの礼拝堂には窓がない。光は入口からしか来ない。しかも角度が悪い」
彼は路地を歩き始めた。足取りは速かった。考えながら歩いている足取りだった。帰り道を一度も間違えなかった。考え事をしているときの方が、道に迷わないらしかった。




