第七章 ローマの夜
夜のローマには昼間とは別の匂いがあった。
石畳が日中の熱を手放し始めると、路地の底に溜まっていた匂いが浮き上がってくる。排水溝の汚水、壁の隙間に住みついた猫の尿、居酒屋の厨房から流れ出す焼いた肉と大蒜の匂い。そしてその上に、男たちの汗と革と葡萄酒の匂いが重なった。
カラヴァッジョ、ロンギ、ミンニティの三人が路地を歩いていた。コルナッキアはリードなしで三人の後ろを歩いた。リードをつけたことは一度もなかった。カラヴァッジョは犬が逃げないことを知っていたからだ。
オノリオ・ロンギの匂いは、カラヴァッジョともミンニティとも違った。安い葡萄酒と汗が基底にあるのは同じだが、その上に石灰と削った木の匂いが乗っていた。建築家の匂いだった。しかし腰に帯びた剣の手入れは丁寧で、鉄と油の匂いが鮮明だった。建築よりも剣の方が手に馴染んでいる男だった。
ロンギは声が大きかった。酒が入ると更に大きくなった。路地に声が反響し、二階の窓から誰かが怒鳴り返した。ロンギは笑ってその窓に向かって猥雑な言葉を投げ返した。ミンニティが苦笑し、カラヴァッジョは黙って歩き続けた。
居酒屋に入った。木のテーブルに着き、葡萄酒を注文した。店の中は煙と油の匂いが充満していた。コルナッキアはカラヴァッジョの椅子の下に潜り込んだ。
ロンギがコルナッキアの頭に手を伸ばし、ポケットからソーセージの切れ端を出した。犬の鼻先に差し出した。
「ほら、食え」
匂いが来た。ソーセージの脂と塩の匂い。カラヴァッジョがくれるソーセージと同じ匂いだった。口の中に唾液が湧いた。体が勝手にソーセージに鼻を寄せ、口が開き、指先から肉片を受け取った。尻尾が振れた。
犬の体が反応する自分に、瞳は苛立った。
ロンギにソーセージをもらっただけで尻尾が振れる。この男はカラヴァッジョを暴力の世界に引き込む男だ。瞳は画家としてそれを知っている。ロンギと夜の街に出るたびに、カラヴァッジョは喧嘩の機会に近づいていく。この男は危険な触媒だ。いないほうがいい。
しかし犬の体はロンギが好きだった。ロンギは犬に食べ物をくれる。声が大きく、体が温かく、犬の腹を躊躇なく撫でる。犬にとっての「いい人間」の条件をすべて満たしていた。
本能的な好意と、理性的な警戒。
この二つが犬の体の中で同居していた。尻尾は振れるのに、頭の中では警告が鳴っている。どちらが自分なのか。振れる尻尾なのか、警告なのか。
これが犬になるということなのか、と瞳は思った。自分の判断が自分の体に追いつかない。体が先に反応し、理性が後から追いかける。人間として生きていたとき、体と意識の間にこれほどの距離はなかった。
卓上でトランプが始まった。ロンギが札を配り、カラヴァッジョが乗り、ミンニティが渋々付き合った。賭け金は小さかったが、ロンギの声は大きかった。隣のテーブルの客が振り返った。
ロンギは負けると大声で文句を言い、勝つともっと大声で笑った。負けても勝っても声が大きいので、結果に関係なく周囲の注目を集めた。カラヴァッジョはロンギの騒ぎを気にする様子もなく、無言で札を出し続けた。勝ちが続いた。ミンニティが驚いた顔でカラヴァッジョの手札を見た。
「お前、いつから札が強くなった」
「弱い奴の手の動きを毎日観察しているからな」
ロンギが「俺のことか」と声を上げ、テーブルを叩いた。杯が倒れそうになり、ミンニティが咄嗟に押さえた。
酒が進んだ。ロンギの声がさらに上がった。カラヴァッジョは酒を飲んでも声の大きさが変わらなかった。ただ目が鋭くなった。酔うほどに注意力が増す男だった。
居酒屋を出たのは深夜だった。月が路地の上に細く出ていた。石畳が月光を受けて微かに青く光っていた。三人と一匹が路地を歩いた。
角を曲がったところで、向かいから男が二人歩いてきた。道が狭く、すれ違うには片方が壁に寄らなければならなかった。
ロンギが道の真ん中を歩き続けた。向かいの男も真ん中を歩き続けた。二人の距離が縮まった。
コルナッキアの鼻に匂いが来た。向かいの男たちの匂い。酒と汗と、その下に、微かな金属の匂い。武器を持っている。そしてロンギの匂いが変わった。それまでの酒臭い陽気な匂いの中に、何か硬いものが混じった。
カラヴァッジョの匂いも変わった。
あの匂いだった。金属的で、酸味のある匂い。アドレナリンの匂い。体温が変わらないのに汗の組成だけが変わる、あの匂い。彼の手が剣の柄にかかった。
コルナッキアの体が反応した。毛が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が立ち上った。脚が広がり、体が低くなった。威嚇の姿勢。犬の本能が脅威を感知し、体を戦闘態勢に切り替えていた。
瞳はその唸り声を止めようとしたが止められなかった。喉が勝手に鳴っている。体が勝手に構えている。私の意志ではない。犬の体が判断している。
危険だ。
主人の傍にいろ。
牙を見せろ。
コルナッキアが吠えた。
短く、鋭い吠え声だった。路地に反響し、壁に跳ね返り、二階の鎧戸の隙間から誰かが覗いた。向かいの男たちが足を止めた。犬の吠える声が場の空気を変えた。人間同士の睨み合いの間に、獣の声が割り込んだ。それは男たちの誰にとっても計算外の要素だった。睨み合いの均衡が崩れ、向かいの男たちが目を逸らした。壁に寄り、道を開けた。舌打ちが聞こえた。しかし抜剣はなかった。
三人が通り過ぎた。角を曲がるまで、誰も口をきかなかった。ロンギだけが一度振り返り、去っていく男たちの背中を見た。その口元に笑みがあった。残念そうな笑みだった。
角を曲がったところで、カラヴァッジョがコルナッキアの頭に手を置いた。
「お前が俺の良心だな」
笑っていた。声は軽かった。しかし手は剣の柄からまだ離れたばかりだった。指が白くなるほど握っていた跡が、月光の下で見えた。
瞳は思った。今夜は引き返せた。犬の声が場の空気を変え、暴力の入口で引き返すことができた。
しかしいつまで引き返せるのだろう。この人の中のあの匂いは、回を重ねるごとに立ち上がるのが速くなっている。最初の頃は、相手の挑発を受けてから匂いが変わった。最近は、相手を見た瞬間に変わる。まだ何も起きていないのに、体が先に戦闘を準備している。
やがてこの人は引き返せなくなる。
瞳は知っていた。一六〇六年五月二十八日。その日付を、瞳は知っていた。あと何年あるのか。犬の体には暦がない。季節の匂いの変化で月を推測するしかない。今は秋だった。栗を焼く匂いが路地から漂ってきた。あの日まで、まだ時間がある。しかし時間があるということは、止められるということではなかった。未来を知っていても、犬の口は言葉を持たない。
コルナッキアはカラヴァッジョの足許を歩きながら、彼の長靴の革の匂いを嗅いでいた。鉄と汗とリンシード油。この匂いが一日の終わりの匂いだった。この匂いがある限り、この人はまだここにいる。
マダマ宮の門が見えた。カラヴァッジョは門を押し開け、犬を先に通した。中庭の噴水の音が聞こえた。細い水が石の盆に落ちる音。水の匂いが夜の空気に混じり、路地の汚れた匂いを洗い流した。
コルナッキアはアトリエの階段を先に駆け上がった。四本の脚は階段をもう完璧に上れた。最初の日に三度転がり落ちた石の階段を、今は息も切らさずに上る。犬の体に馴染んでいく自分を、瞳はもう怖がっていなかった。
まだ、怖がっていなかった。




