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【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


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第六章 犬と天才の合言葉

 ソーセージの匂いがした。


 豚の脂と塩と、燻した煙の匂い。カラヴァッジョがアトリエのテーブルの上で、ナイフを使ってソーセージを薄く切っていた。一切れを自分の口に放り込み、もう一切れを指先につまんでコルナッキア(わたし)の鼻先に掲げた。


 コルナッキアは後脚で立ち上がった。


 前脚を宙に浮かせ、尻尾でバランスを取り、肉片に向かって鼻を伸ばした。立ち上がることは簡単だった。人間としての瞳には「褒められるためにはここで立てばいい」という判断ができた。犬の体は最初ふらついたが、三度目には安定した。


 カラヴァッジョはソーセージを与え、また一切れを高く掲げた。コルナッキア(わたし)はまた立った。


 繰り返した。

 何度も。


 カラヴァッジョは一切れごとに高さを変え、位置をずらし、犬の反応を確かめた。人間に芸を仕込むときとは全く違う忍耐がそこにあった。アーティチョークの焼き方で給仕を怒鳴りつける男が、犬が失敗しても声を荒らげなかった。失敗すれば黙ってもう一度ソーセージを掲げた。


 ミンニティが扉の向こうから覗いていた。


「もう一刻もやってるぞ」


 カラヴァッジョは振り向かなかった。犬に集中していた。コルナッキアが後脚で立ち、前脚を揃えて胸の前に上げる姿勢を完璧にこなしたとき、カラヴァッジョは膝を打った。


「見たか。一日で覚えた」


 ミンニティが部屋に入ってきた。


「犬ってそういうものだろう。餌があれば覚える」


「違う。こいつは餌の前に俺の手を見ている。どこに持っていくか予測してから動いている。普通の犬は匂いしか追わない」


 瞳は内心で冷や汗をかいた。

 見(・)抜(・)か(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)。


 完全にではないが、この人は犬の反応が通常と違うことに気づいている。匂いを追うだけでなく、人間の意図を読んで先に動いている。それは犬の行動ではなく人間の行動だった。


 以後、瞳はわずかに反応を遅らせることにした。すぐに正解を出さず、一拍待ってから動く。犬らしく見せるために。


 しかしカラヴァッジョは新しい芸を次々に持ち出した。


 座れ。

 伏せ。

 回れ。

 片方の前脚だけ上げろ。


 瞳は一拍遅らせても、覚える速度そのものが犬の限界を超えていた。

 カラヴァッジョはソーセージを小さくちぎりながら、犬に向かって言った。


「お前は俺より賢い。少なくとも皿を人の顔に投げたりしない」


 ミンニティが吹き出した。

 だがカラヴァッジョは真顔だった。


 別の日、カラヴァッジョが市場から帰ってきた。外套のポケットから紙に包んだ砂糖菓子を取り出し、一つを口に放り込んだ。頬が膨らみ、噛む音がした。甘い匂いが部屋に広がった。蜂蜜と焼いた砂糖とアーモンドの匂い。


 カラヴァッジョはもう一つをつまみ、コルナッキアの前に差し出した。犬の鼻先に甘い匂いが届き、口の中に唾液が湧いた。


 ミンニティが慌てて手を伸ばした。


「やめろ。犬に砂糖は毒だ」


 カラヴァッジョは手を引っ込め、砂糖菓子を自分の口に入れた。それから犬を見て、少し申し訳なさそうな顔をした。代わりにテーブルの上のソーセージをちぎって与えた。


 瞳はソーセージを噛みながら思った。この人は犬に砂糖菓子を分けようとした。自分が好きなものを、犬にも食べさせたかった。それが「愛情」という言葉で呼ばれるものかどうかはわからないが、この人の手はそう動いた。


 ミンニティがある日、カンヴァスの端切れを持ってきて、コルナッキアを描こうとした。犬を椅子の上に座らせ、木炭を手に輪郭を取り始めた。しかし何度やっても黒い犬の形がカンヴァスの闇に溶けてしまう。


「駄目だ。お前の毛は黒すぎて描けない。ミケランジェロならできるだろうが」


 カラヴァッジョがアトリエの奥から声をかけた。


「犬を描くのは女を描くのと同じだ。輪郭ではなく光を描け」


 何気ない一言だった。しかし瞳の中で、その言葉は深く沈んだ。輪郭ではなく光を描く。対象の形を追うのではなく、対象に当たる光を追う。この人の芸術の本質が、犬の肖像画という些細な場面で、何の気負いもなく口から出た。


 日が経つうちに、二人の間に独自の合(・)図(・)が生まれた。


 最初は偶然だった。

 カラヴァッジョが制作中にカンヴァスを二枚並べ、どちらの構図がいいかコルナッキアに話しかけた。犬に訊いているのは冗談半分だった。しかし瞳は画家の目でどちらの構図が優れているか判断できた。良い方のカンヴァスの前に歩いていき、座り込んだ。


 カラヴァッジョは犬を見下ろし、それからカンヴァスを見た。

 しばらく考え、犬《わたし》が選んだ方を採用した。


 偶然かもしれなかった。

 しかし二度目も犬は正しい方を選んだ。

 そして三度目も。


 カラヴァッジョの目が変わった。面白がっている目だった。同時に、わずかに警戒している目でもあった。犬の行動としてはありえない正確さだった。


「お前は本当に俺の言葉がわかるのか」


 コルナッキアは尻尾を二回振った。

 肯定。

 カラヴァッジョは黙って犬を見つめた。数秒後、彼の口の端がわずかに上がった。


 それから、合図が体系になっていった。


 尻尾を二回振れば肯定。

 鼻を鳴らせば否定。

 良い方のカンヴァスの前に座れば選択。

 立ち上がれば警戒。

 腹を見せれば信頼。


 カラヴァッジョはこの合図を半ば冗談として、半ば本気として使い始めた。制作中に行き詰まると、カンヴァスの前で犬に話しかけた。


「お前はどう思う、この光は嘘か?」


 瞳は全力で答えたかった。画家としての分析を、意見を、提案を。しかし使える道具は尻尾と鼻だけだった。尻尾を振るか、鼻を鳴らすか。二択。人間の言語の豊かさが、犬の体の中で二つの信号に圧縮されていた。


 それでもカラヴァッジョは犬の反応を待った。筆を止めて、コルナッキア(わたし)の方を見た。犬が鼻を鳴らすと、彼は少し考えてから筆を持ち替え、光の角度を修正した。


 それが正しい修正だったかどうか、瞳にはわからなかった。しかしカラヴァッジョが犬の反応を受け取ったという事実だけで、体の奥で何かが温かくなった。尻尾が振れた。止めなかった。いや、止められなかった。


 ある夕方、カラヴァッジョが館の外に出ようとした。コルナッキアは玄関の前で待っていた。カラヴァッジョは扉を開け、外を見て、左に歩き出した。三歩目でコルナッキアが右に向かって歩き始めた。


 カラヴァッジョは立ち止まった。犬を見た。犬は右を向いて座っていた。


「お前、そっちが近道だと言うのか」


 コルナッキアは尻尾を二回振った。


 カラヴァッジョは犬の方に歩き出した。犬の鼻が示す方角に従って路地を曲がり、階段を降り、通りに出た。目的の居酒屋に、いつもの半分の時間で着いた。


 カラヴァッジョはコルナッキアを見下ろした。


「お前、道も覚えてるのか」


 ミンニティが居酒屋の戸口から顔を出して笑った。


「ミケランジェロ、お前は犬に道案内させてるのか」


 カラヴァッジョは何も答えず、犬の頭を一度叩くように撫でて、居酒屋に入った。コルナッキアは入口の横に座り、中から漏れてくる笑い声と酒の匂いを聞いていた。カラヴァッジョの声が一番よく通った。低いが、よく響く声だった。


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