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【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


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第九章 ひらかれた扉

 カンヴァスが届いた日、アトリエの匂いが変わった。


 麻の匂い。新しい布の匂い。膠で地塗りをした表面から立ち上る動物性の匂い。それまでのアトリエは小さなカンヴァスの匂いで満ちていたが、この新しいカンヴァスの匂いは量が違った。部屋の空気を押しのけるように、膠と麻の匂いが広がった。


 カンヴァスは巨大だった。アトリエの壁面をほぼ覆う大きさで、木枠が部屋の柱に立てかけられていた。白い地塗りが窓の隙間から漏れる光を反射し、部屋の中に薄い白い光を投げていた。コルナッキアは隅で丸くなりながら、その白い光を見ていた。壁のように白い面が、部屋の中に新しい壁を立てていた。


 カラヴァッジョは朝からカンヴァスの前にいた。椅子に座り、パレットを膝に置いていたが、筆は手に取っていなかった。両手を膝の上に揃えて、白い面を見つめていた。


 一時間が経った。

 二時間が経った。


 犬の体には時計がないが、窓の隙間から差し込む光の線が床の上を移動していくのを、コルナッキア(わたし)は見ていた。光の線が部屋の右端から中央に達するまでの間、カラヴァッジョは動かなかった。


 昼を過ぎた。コルナッキアは水を飲みに中庭に降り、戻ってきた。カラヴァッジョは同じ姿勢で座っていた。パレットの絵具が乾き始めていた。油の表面に薄い膜が張り、下の顔料が沈んでいく匂いがした。使われないまま古くなる絵具の匂い。


 夕方、オルシが訪ねてきた。アトリエの扉を開け、中を覗いた。白いカンヴァスの前に座り続けるカラヴァッジョを見て、声をかけた。


「進んでいるか」


「帰れ」


 それだけだった。オルシは扉を閉めた。

 階段を降りていく足音が遠ざかっていった。


 翌日も同じだった。カラヴァッジョはカンヴァスの前に座った。筆を取らなかった。日が暮れた。蝋燭に火をつけたが、その光で描き始めることはなかった。蝋燭の光がカンヴァスの白い面を照らし、白い面がかすかに揺れた。焔の揺れが白い面の上に影を作り、その影が呼吸のように膨らんだり縮んだりした。


 三日目の朝、ミンニティが食事を持ってきた。パンと干した肉と、小さな壺に入った葡萄酒。テーブルの上に並べて、椅子の前のカラヴァッジョに声をかけた。


「食べろ。二日何も食ってないだろう」


 カラヴァッジョは食事に手をつけなかった。ミンニティは何か言いかけたが、カラヴァッジョの背中を見て口をつぐんだ。静かに部屋を出た。


 コルナッキアはテーブルの上の食事の匂いを嗅いだ。パンの匂い。肉の塩の匂い。腹は減っていた。犬の胃が空腹を訴えていた。しかしカラヴァッジョの方に戻った。テーブルの食事には触れなかった。主人が食べないのに犬が食べるわけにはいかなかった。それが犬の本能なのか、瞳の意志なのか、区別はつかなかった。空腹の中で、その区別がつかないこと自体が、かすかに瞳を不安にさせた。


 夜、カラヴァッジョは寝台に横にならなかった。椅子の上で目を閉じ、数時間後に目を開けた。暗闇の中で白いカンヴァスだけがぼんやりと浮かんでいた。コルナッキアの夜の目には、カンヴァスの白が闇の中で発光しているように見えた。白い壁が男を見つめ返していた。


 三日目の夕方。光の線が部屋を横切り、カンヴァスの左端に触れた。夕方の光は朝の光より角度が低く、色が違った。犬の目にも、朝の白い光と夕方の黄色い光の違いはわかった。夕方の光はカンヴァスの表面を斜めに走り、地塗りの凹凸を浮き上がらせた。白い面が完全な白ではなく、微かな起伏を持った地形であることが、夕方の光の中で初めて見えた。


 カラヴァッジョが口を開いた。犬に向かって。


「俺は小さい絵しか描いたことがないんだ」


 声は低かった。独白よりも静かだった。


「半身像ならわかる。テーブルの上の果物ならわかる。目の前にあるものを、目の前の光で描けばいい。だ(・)が(・)こ(・)の(・)大(・)き(・)さ(・)の(・)空(・)間(・)を(・)、(・)一(・)つ(・)の(・)光(・)で(・)支(・)配(・)す(・)る(・)方(・)法(・)が(・)わ(・)か(・)ら(・)な(・)い(・)」


 コルナッキアはカラヴァッジョの足許に寄った。彼の長靴の横に座り、見上げた。カラヴァッジョの目は白いカンヴァスを見つめていた。その目にあるのは恐怖だった。匂いでわかった。酸っぱい汗の匂い。暴力の匂いとは違う。もっと深い場所から来る恐怖の匂い。自(・)分(・)の(・)限(・)界(・)に(・)触(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)匂(・)い(・)。


 瞳は画家としてその恐怖を知っていた。白いカンヴァスの前で手が震える恐怖。描き始めてしまえば、もう白い可能性には戻れない。最初の一筆は選択であり、それ以外のすべての選択を殺すことだった。カンヴァスが大きいほど、殺す選択の数が増える。


 何か言いたかった。画家として助言したいことが山ほどあった。


 光源を分割しろ。

 画面を領域に分けて、一つずつ攻略しろ。

 全体を一度に制御しようとするな。


 しかし犬の口からは言葉が出なかった。尻尾も振れなかった。鼻を鳴らすことが適切な場面でもなかった。ただ傍にいることしかできなかった。


 コルナッキアはカラヴァッジョの長靴に体を寄せた。犬の体温が革を通じて男の脛に伝わった。それだけだった。それ以上のことは、この体では何もできなかった。


 カラヴァッジョはコルナッキアを見下ろした。犬が自分の足に体を寄せているのを見た。手を伸ばし、犬の頭に置いた。しばらくそうしていた。撫でるのではなく、ただ手を置いていた。手のひらの重さが犬の頭蓋骨の上にあった。


 四日目の朝が来た。窓の隙間から光が差し込んだ。カラヴァッジョは窓の前に立ち、黒い布を調整し始めた。三日間触れなかった布に、指が戻った。穴の位置を変え、画鋲を差し替え、光の線を動かした。


 しかしこれまでと違うことがあった。光の線をカンヴァスに向けなかった。部屋の入口に向けた。扉のある壁の方に光を走らせた。コルナッキアはその光の線を目で追った。光がアトリエの扉に当たり、扉の隙間から廊下に漏れ出していた。


 カラヴァッジョは扉を開けた。


 廊下の奥に人影があった。ミンニティだった。食事を持ってきたのだろう。カラヴァッジョが「帰れ」と言う前に来て、扉の前で待っていたのかもしれなかった。


「入れ」


 ミンニティが驚いた顔で部屋に入った。扉が開いた瞬間、廊下からの光が部屋に差し込んだ。西日だった。午後遅くの、角度の低い斜めの光が、開いた扉の矩形を通って部屋の奥に射し込んだ。


 光はミンニティの顔を横切った。顔の右半分だけが照らされ、左半分が影に落ちた。光の道がミンニティの鼻筋に沿い、右目だけが光の中にあった。左目は闇に沈んでいた。


 カラヴァッジョの体が止まった。

 完全に止まった。

 呼吸すら止まっていた。


 コルナッキアは足許で、主人の心拍が急激に変わるのを聞いた。速くなったのではなかった。落ち着いたのだった。それまでの三日間、微かに速く打ち続けていた心拍が、一拍を境に平常に戻った。怯えの匂いが消えた。酸っぱい汗の匂いが退き、代わりに集中の匂いが立ち上った。体温がわずかに下がり、呼吸が浅くなった。三日間、この部屋から消えていた匂いが、扉を開けた一瞬で戻ってきた。


 あの匂いだ、と瞳は思った。

 こ(・)の(・)人(・)が(・)絵(・)を(・)描(・)く(・)と(・)き(・)の(・)匂(・)い(・)。


 カラヴァッジョはミンニティを見つめていた。ミンニティの顔の半分を照らす光を見つめていた。ミンニティは困惑して立っていた。自分の顔に何がついているのかと思ったように、手で頬に触れた。カラヴァッジョはその手を払いのけた。


「動くな」


 ミンニティは固まった。カラヴァッジョはミンニティの周囲を歩き、光の角度を確認した。扉の前に立ち、扉の開き具合を調整した。扉を少し閉じると光の帯が狭くなった。少し開けると広くなった。


 扉を通って差し込む光。窓からの光ではなく、扉からの光。横の壁からではなく、正面から。この角度なら、巨大なカンヴァスの画面に対して、光を横から差し込ませることができる。礼拝堂の入口から差し込む光と同じ角度で。窓がないなら、扉を使えばいい。


 カラヴァッジョが動いた。パレットを手に取り、乾いた絵具を爪で擦り落とし、石の板に新しい顔料を出した。乳棒で擂り始めた。乾いた鉱物が油と出会い、絵具が生まれる匂いがアトリエに広がった。三日ぶりの匂いだった。


 手が震えていなかった。


 コルナッキアは隅に座って、男が絵具を擂る音を聞いていた。石の上で乳棒が回る音。規則的で、力強い音。三日間この部屋を支配していた沈黙が、この音で破られた。

 ミンニティが扉の前に立ったまま訊いた。


「俺はいつまでここに立ってればいいんだ」


「帰っていい。明日また来い。同じ時間に、同じ扉の前に立て」


 ミンニティは首を傾げながら出ていった。カラヴァッジョはもう彼を見ていなかった。石の板に向かい、絵具を擂り続けていた。白いカンヴァスはまだ白いままだった。しかし部屋の空気が変わっていた。白い面はもう壁ではなかった。扉になっていた。光が通る扉に。



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