第三章 カンヴァスと逃亡の哲学
マダマ宮の暮らしに馴染んだ頃、カラヴァッジョがある夜、アトリエではなく外に出た。
日没前のローマは、橙と灰色が空の低いところで混ざり合っていた。犬の目にはその橙も鈍い黄に見えた。カラヴァッジョは外套を羽織らず、剣だけを腰に帯びて、マダマ宮の裏口から路地に出た。コルナッキアは後を追った。
いつもの道ではなかった。酒場に向かう道でも、教会に向かう道でもなかった。カラヴァッジョは狭い路地を抜け、テヴェレ川の方に下っていった。橋を渡らず、川沿いの暗い道を歩いた。足取りに迷いがあった。時おり立ち止まり、壁に手をつき、また歩き始めた。
川の匂いが強くなった。泥と藻と腐った木と、上流から流れてくる家畜の排泄物。水面が夕暮れの光を受けて鈍く光っていた。
カラヴァッジョは川辺の石段に腰を下ろした。石段の隙間から草が生え、苔が石の表面を覆っていた。苔の匂いが湿っぽく立ち上った。彼は両手を膝に置き、川面を見つめた。対岸にサンタンジェロ城の輪郭が黒く浮かんでいた。
コルナッキアは石段を降りきれず、三段上で止まった。子犬の脚にはまだ階段が大きすぎる。座り込んで、カラヴァッジョの背中を見上げた。
背中が小さく見えた。マダマ宮で筆を握っているときの背中とは違っていた。あの背中には力があった。カンヴァスに向かうとき、彼の肩甲骨は翼のように張り出し、首の筋肉が太い綱のように浮き上がった。今、石段に座っている男の背中は丸まり、肩が落ちていた。
匂いが変わっていた。アトリエでの集中の匂い――体温が下がり、呼吸が浅くなるあの匂いとは正反対だった。体温が上がっている。しかし汗はかいていない。内側で何かが燃えていて、それが外に出口を見つけられずにいる匂い。
しばらくして、カラヴァッジョが口を開いた。川面を見たままだった。
「ミラノに帰るべきだったのかもしれない」
声が低く、乾いていた。掠れていた。
独り言なのか犬に話しかけているのか、境目がなかった。
「ペテルツァーノの親父のところに戻って、フレスコ画の修業でもすれば、少なくとも飢えることはなかった」
ペテルツァーノ。
シモーネ・ペテルツァーノ。
ミラノの画家。
カラヴァッジョが十代で弟子入りした師匠の名だった。瞳は美術史の知識でその名を知っていた。しかし今、この男の口からその名が出たとき、教科書の活字ではなく、生きた人間の声で発せられた師匠の名は、全く違う重さを持っていた。
カラヴァッジョはチェーザリの工房を去ったばかりだった。
ジュゼッペ・チェーザリ。
教皇お気に入りの画家の工房で、花や果物を描く仕事を任されていた。しかしカラヴァッジョはその工房を飛び出した。理由は瞳も正確には知らない。記録には病気で入院したとあるが、復帰後に戻らなかった。
工房を出た後、金はなかった。パトロンもなかった。デル・モンテ枢機卿の庇護を得る前の、誰にも知られていない時期。路上で似顔絵を描き、安宿を転々とし、空腹を抱えてローマの路地を彷徨っていた時期。教科書ではこの空白の時期を数行で片付けている。
しかし目の前の男にとって、その数行は一日一日の飢えと不安だった。
川から冷たい風が吹き上がってきた。コルナッキアの巻き毛が風に逆立った。カラヴァッジョは風に目を細めたが、身を縮めなかった。寒さに慣れた体だった。路上で何度も夜を過ごした体が、冬の川風を当たり前のものとして受けていた。
コルナッキアは三段上の石段から降りようとして前脚を滑らせた。ずるずると石の上を滑り、苔で濡れた尻をひきずりながらカラヴァッジョの隣まで転がった。子犬の体が男の腿にぶつかった。
カラヴァッジョは犬を見下ろし、片手で拾い上げて膝に乗せた。犬の体は軽かった。子犬の肋骨が手のひらの下で浮き出ていた。
「お前も腹が減ってるのか」
瞳は犬の体でカラヴァッジョの膝の上にいた。腿の筋肉の硬さが腹に伝わった。彼の手が犬の背を撫でた。大きな手だった。筆を持つ手が犬の巻き毛を梳いた。指の腹が皮膚に触れるたびに、四肢の力が抜けた。尻尾が膝の上で左右に動いた。
止めようとした。
これは犬の神経の反応だ。
私の感情ではない。
しかし手の温もりが気持ちよかった。それは犬の感覚なのか、瞳の感覚なのか。冬のローマの夕暮れに、石段は冷たく、川風が吹き、この男の手だけが温かかった。
「だが俺はフレスコが嫌いだ」
カラヴァッジョはコルナッキアの頭を撫でながら言った。
「壁に描くのは棺桶に絵を描くようなものだ。乾けば終わりだ。直せない。持ち運べない。俺はカンヴァスがいい。持ち運べるからな」
少し間があった。
「なにしろ逃げるときに持っていける」
そう言って笑った。
笑い声は低く短く、すぐに川風に消えた。
コルナッキアの鼻先でカラヴァッジョの呼気が白く曇った。冬の匂いだった。石と水と、かすかなリンシード油。この男の吐く息にまで、絵具の匂いが染みていた。
この人は最初から逃げることを前提に生きている。
瞳の父は逆だった。
一つの場所に留まり続けた人だった。
妻が死んだ後も同じ家に住み、同じ台所で味噌汁を作り続けた。逃げなかった。ただ描くことをやめただけだった。
カンヴァスを選ぶ理由が「持ち運べるから」。
フレスコを嫌う理由が「動かせないから」。
定住しない人間の発想だった。
一つの場所に留まれないことを、この人はもう知っている。
二十代半ばで、もう知っている。
カラヴァッジョは犬を膝に乗せたまま、しばらく川面を見ていた。水が黒くなっていった。最後の光が川面から消え、対岸の建物の輪郭が闇に溶けた。
彼は立ち上がった。犬を片腕に抱え、もう片方の手で剣の位置を直した。
「帰るか」
帰る場所があった。
今は、まだ。
デル・モンテ枢機卿の館があった。アトリエがあった。絵具があり、カンヴァスがあり、待っている仕事があった。しかし瞳は知っていた。この人はやがてその場所も失う。一つずつ、すべてを失っていく。ローマを失い、自由を失い、体の健康を失い、最後には命を失う。その全部を、瞳は知っていた。
知っていて何もできない。犬の口は言葉を作れない。未来を伝えることも、警告することもできない。ただ腕の中にいて、彼の心拍を聞くことしかできない。
コルナッキアはカラヴァッジョの腕の中で、彼の胸に鼻を押し当てた。心拍は落ち着いていた。石段に座っていたときの、出口のない熱の匂いは薄れ、代わりにいつものリンシード油と鉄の匂いが戻っていた。
帰り道、カラヴァッジョは路地を二度間違えた。
一度目は行き止まりの壁の前で足を止め、舌打ちをして引き返した。
二度目は同じ噴水の前を二周した。
水の音でわかった。同じ水音が二度聞こえた。
ローマに数年住んでいるはずなのに、夜道で迷う男だった。暗い路地で昼間の記憶が使えなくなると、途端に方角を見失う。目は鋭いのに、目に頼りすぎるのだ、と瞳は思った。この人には犬の鼻がない。
コルナッキアは腕の中から顔を出し、匂いで帰路を探った。マダマ宮の方角にはテレピン油の残り香と噴水の水の匂いが微かにあった。犬が体を捩ってその方向に鼻を向けるたびに、カラヴァッジョはその方向に足を向けた。
三度目の曲がり角で、カラヴァッジョは犬を見下ろした。
「お前、道がわかるのか」
コルナッキアは鼻を鳴らした。カラヴァッジョはその鼻先の方向に歩き始めた。
マダマ宮に着いたとき、彼は犬の頭を二度叩くように撫でた。
「俺より使えるな」
声は軽かった。テヴェレ川の石段で聞いた声とは違った。瞳は尻尾を振った。今度は、止めなかった。




