第四章 イカサマ師の指
ミンニティが来ると、アトリエの匂いが変わった。
カラヴァッジョのリンシード油と鉄の匂いの中に、若い男の汗と、南の土地の日差しを吸った肌の匂いが混じった。シチリアの匂いだった。潮風と柑橘の果皮と、乾いた火山灰の匂い。瞳はまだその土地を知らなかったが、鼻が記憶した。数年後にシチリアの港に降り立ったとき、この匂いを思い出すことになる。
もう一人、別の匂いの男が来た。
体臭に安い葡萄酒が染みつき、衣服からインクと紙の匂いがした。
プロスペロ・オルシ。
画家だが、この男の指には絵具よりもインクの匂いの方が濃かった。手紙を書く指だった。人に会い、交渉し、売り込む男の指だった。画商のバレンティノに橋を架け、コレクターに口を利く。
カラヴァッジョの絵が売れるための道を、この男が舗装していた。本人の絵は売れないが、他人の絵を売る才覚がある。そういう匂いの男だった。
カラヴァッジョはテーブルを部屋の中央に引き出し、椅子を三脚並べた。窓の黒い布を少しだけずらし、光の帯を調整した。光がテーブルの表面を斜めに横切るように、布の端を画鋲で留め直した。
「座れ」
ミンニティとオルシがテーブルについた。
カラヴァッジョは棚の引き出しからカードの束を取り出し、テーブルに投げた。
「やれ。いつもの通りに」
オルシが首を傾げた。
「いつもの通りとは?」
「賭けだ。いつも居酒屋でやってるだろう。あれをやれ」
ミンニティが得心した様子でカードを取り、配り始めた。オルシも手を伸ばした。二人は居酒屋で遊ぶときの、軽い調子で札を切り始めた。
カラヴァッジョはテーブルにつかなかった。少し離れた場所に立ち、二人の手許を見ていた。腕を組み、右手の人差し指で左腕を叩いていた。何かを待っている指の動きだった。
「オルシ、もっと自然にやれ。俺が見ているのを忘れろ」
オルシは肩をすくめて札を取った。
ミンニティが笑いながら札を出した。
ゲームは進んだ。
コルナッキアはテーブルの下にいた。三人の足が見えた。ミンニティの足は揃えて床に置かれていた。オルシの足は落ち着かず、つま先で床を叩いていた。カラヴァッジョの足は動かなかった。長靴の革が薄暗がりの中で光っていた。
テーブルの上で声が上がった。オルシが何かを叫び、ミンニティが笑った。カラヴァッジョの声が割って入った。
「今のを、もう一度やれ」
「今のって何だ」
「オルシが札を見たとき、左手が動いた。あの動きだ」
オルシは困惑した顔で自分の左手を見た。
自分が何をしたのかわかっていなかった。
「お前は負けている札を見たとき、左手で隣の札の端に触った。無意識にだ。あれがイカサマの手つきだ。本物のイカサマ師はあの動きを意識してやる。お前は無意識にやった。そっちの方が面白い」
カラヴァッジョはテーブルに近づき、オルシの左手を取った。指を一本ずつ開かせ、札の端に添えさせた。
「こうだ。親指がカードの端をめくる瞬間、人差し指が隣の男の目線を遮る。この一瞬が嘘の形だ。もう一度やれ」
オルシはぎこちなく指を動かした。ミンニティが横から見ていた。
カラヴァッジョは首を振った。
「違う。もっと自然にだ。いいか、イカサマ師の指は嘘をつくが、手首は正直だ。手首が硬いと嘘がバレる。手首から先を死んだ魚のように柔らかくしろ。ぐにゃっとだ」
オルシがもう一度やった。
カラヴァッジョは腕を組んだまま、目を細めた。
「近い。だがまだ顔が嘘をついていない。指だけ見るな。顔を見ろ。イカサマ師は指で盗み、顔で払う。払うときの顔が大事だ」
何度も繰り返させた。十回、二十回。同じ動作を角度を変え、光の当たり方を変え、二人の座り位置を入れ替え、繰り返した。カラヴァッジョは一度も座らなかった。立ったまま、二人の手許と顔を交互に見ていた。
途中でカラヴァッジョはオルシの背後に回り、ミンニティに言った。
「お前はイカサマに気づいている側だ。気づいているが、まだ何も言わない。その顔をしろ」
ミンニティは眉を上げ、唇を少し開いた。
カラヴァッジョは首を振った。
「芝居をするな。本当に気づいたときの顔だ。目が変わるんだ。口じゃない」
ミンニティがもう一度やった。今度は目だけを動かした。カラヴァッジョは何も言わなかった。言わないということは、良いということだった。
オルシが椅子の背にもたれて嘆いた。
「一日中これか。俺は建築家であって役者じゃないぞ」
「お前は建築家であって、かつ賭博師だろう。いつもの通りやれと言っている」
ミンニティが声を殺して笑った。オルシも笑った。
カラヴァッジョは笑わなかったが、口の端がわずかに動いた。
コルナッキアはテーブルの下から手の動きを見上げていた。人間の目線とは違う角度だった。下から見ると、指の動きが別の意味を持った。テーブルの縁の影が指を半分隠し、光の当たる部分だけが浮かび上がった。親指が札をめくる瞬間、爪の先だけが光を受けて白く光った。
その角度から見ると、イカサマの手つきはもっと劇的に見えた。指が光と影の境界を行き来する様は、ほとんど舞踏のようだった。
カラヴァッジョが突然テーブルの下を覗き込んだ。
コルナッキアと目が合った。
「お前、そこから見えるのか」
コルナッキアは尻尾を振った。
カラヴァッジョは床に膝をつき、犬の目の高さに顔を下げた。テーブルの下から手許を見上げた。数秒間そうしていた。それから立ち上がり、ミンニティに言った。
「もっと手を低くしろ。テーブルの端ぎりぎりまで。下から見たときに指の動きが見える位置だ」
ミンニティは言われた通りに手の位置を下げた。カラヴァッジョはもう一度床に屈み、角度を確かめ、頷いた。それから石の板の前に座り、乳棒を取った。顔料を擂り始めた。乾いた黄土の粒が油と混ざり、匂いが変わっていく。絵具が生まれる匂いだった。
この人は犬の目の高さを計算に入れている。テーブルの下から見上げる視点が、この人の絵のどこかに入り込もうとしていた。
カラヴァッジョは顔料を擂り終えると、パレットに絵具を並べた。そしてモデルの二人を帰した。
「もういい。明日また来い。同じ服で来い」
ミンニティとオルシが帰った後、アトリエは静かになった。窓の隙間からの光はもう弱くなっていた。夕方の光だった。
カラヴァッジョはカンヴァスの前に座った。空のカンヴァスではなかった。すでに下描きが薄く入っていた。彼はパレットの絵具を筆に含ませ、そのまま動かなかった。長い間、筆を持った手がカンヴァスの前で止まっていた。
瞳は画家としてその沈黙を知っていた。描き始める前の沈黙。目の前にカンヴァスがあり、絵具があり、筆がある。しかしまだ何かが足りない。さっき見たものが記憶の中で熟成するのを待っている。
それは写真のシャッターを切る行為に似ていた。しかし写真と違うのは、この人がシャッターを切った瞬間をカメラに記録するのではなく、記憶に灼きつけ、その記憶を暗いアトリエで一人、再構成するということだった。
モデルはもういない。
光はもう動いている。
あの瞬間のあの角度のあの指の動きは、もうこの世のどこにもない。
カラヴァッジョの記憶の中にだけある。
蝋燭に火がついた。カラヴァッジョが火打ち石で火を起こし、テーブルの蝋燭に移した。蝋の焼ける匂いがアトリエに広がった。蝋燭一本の光が、カンヴァスの表面を照らした。
人間の目には暗すぎる光だった。しかし犬の目には十分だった。コルナッキアは床に腹ばいになったまま、蝋燭の光の中で動き始めた筆先を見ていた。
筆がカンヴァスに触れた。最初の一筆は速かった。ためらいがなかった。あれほど長く沈黙していた手が、動き始めた瞬間に迷いを捨てた。二筆目、三筆目と続いた。筆がカンヴァスを打つ音が聞こえた。塗る音ではなかった。叩きつける音だった。短いストロークが連続し、リズムが生まれた。
瞳は耳を立てた。犬の耳は筆先のカンヴァスとの接触音を、人間の耳では聞き取れない精度で拾っていた。筆圧の変化が音の高さを変えた。強く叩く音、軽く擦る音、絵具を置く湿った音。それは剣の素振りに似たリズムだった。攻撃と引きの交互。踏み込みと退却。
この人の筆は武器と同じように使われている、と瞳は思った。カンヴァスは敵ではない。しかしこの人はカンヴァスに対して、何かと戦うときの体の使い方をしている。呼吸が浅くなっている。心拍が一定に落ち着いている。集中の匂い。体温がわずかに下がる、あの匂い。
蝋燭の焔が揺れた。カラヴァッジョの影がアトリエの壁に大きく映り、筆を振るたびに影の腕が振れた。コルナッキアはその影と本体を交互に見た。影の方が大きく、荒々しく、本体の動きを誇張して壁に描いていた。
ときおり筆を止めて、カラヴァッジョはカンヴァスから二歩下がった。目を細め、全体を見渡し、また二歩近づいて筆を入れた。下がっては近づき、近づいては下がる。その度にコルナッキアは床の上で首を回して彼を追った。
一度、カラヴァッジョが歩き回り始めた。カンヴァスの前を行ったり来たり、アトリエの端から端まで歩いた。コルナッキアもつられて立ち上がり、後ろをついて歩いた。男が右に行けば犬も右に行き、男が左に折り返せば犬もついて折り返した。
三周目で、カラヴァッジョが足を止めて犬を見下ろした。
「お前も答えが出ないのか」
真顔だった。
瞳は尻尾を二度振った。
画家が絵を描いている。
その画家の影が壁にもう一枚の絵を描いている。
夜が更けた。蝋燭が短くなり、蝋の匂いが濃くなった。カラヴァッジョは筆を置かなかった。コルナッキアはいつの間にか眠っていた。犬の体は睡眠を欲していた。瞳の意識は筆の音を追いかけ続けたかったが、体が先に落ちた。
目を覚ましたとき、窓の隙間から朝の光が差し込んでいた。カラヴァッジョはまだカンヴァスの前にいた。筆は持っていなかった。両手を膝に置いて、描きかけのカンヴァスを見つめていた。
コルナッキアは起き上がり、カラヴァッジョの足許に寄った。彼の体から疲労の匂いがした。汗が乾いた後の酸っぱい匂い。しかしその下に、満足とは違う、しかし不満でもない、奇妙に静かな匂いがあった。
カラヴァッジョはコルナッキアの頭に手を置いた。
「まだ途中だ」
カンヴァスの上には、テーブルを囲む三人の男の輪郭が浮かんでいた。犬の目の高さからは、カンヴァスの下半分しか見えなかった。テーブルの端と、そこに置かれた手だけが見えた。その手の指が、昨日オルシがやった動きの途中で止まっていた。札をめくる親指。目線を遮る人差し指。嘘の形が、絵具で固定されていた。
動きの中から一瞬を狩り取る。この人はそうやって絵を描く。現実の中から最も劇的な一瞬を選び、記憶に灼きつけ、暗闇の中で再構成する。見たものをそのまま描くのではない。見たものの中から、見るべきものを見つけ出す。
瞳はテーブルの下で体を丸めた。
犬の体が温まり、眠気が戻ってきた。
もう、抗わなかった。




