第二章 マダマ宮の黒いカラス
日が経つにつれて、四本の脚で歩くことに体が馴染んでいった。
最初の数日は階段が恐怖だった。前脚を一段下ろし、後脚をそこまで引きつけるという動作の順序がわからず、マダマ宮の石の階段を三度転がり落ちた。カラヴァッジョは三度とも階段の下で子犬を拾い上げ、何も言わずにまた階段の上に置いた。四度目に、体が覚えた。前脚を揃えて先に降ろし、後脚で跳ぶように続く。考えて動かすのではなく、体に任せれば脚は正しく動いた。
人間の体の動かし方を忘れることが、ここでは生きることだった。
水の飲み方を覚えるのにも時間がかかった。中庭の噴水の水盤に顔を近づけ、唇をすぼめて吸い込もうとしたが、犬の口はそうできていなかった。舌を水面に突っ込み、裏側で掬い上げるようにして口に運ぶ。何度かやるうちに体が動きを覚えた。飛び散った水滴が鼻にかかり、くしゃみが出た。
マダマ宮はデル・モンテ枢機卿の邸宅だった。瞳は美術史の講義でその名を何度も聞いている。
フランチェスコ・マリア・デル・モンテ。
親フランス派の枢機卿。
カラヴァッジョの最初の大パトロン。
しかし教科書で読んだ名前と、犬の鼻が嗅ぎ取る枢機卿の匂いとの間には、越えられない距離があった。
枢機卿の匂いは冷たかった。
高価な法衣に焚きしめた香料、下着に使う上質の石鹸、書斎の古い羊皮紙、蝋で磨いた靴の革。すべてが整っていて、隙がなかった。体温を感じさせない匂い。汗をかかない種類の人間の匂い。
枢機卿はコルナッキアを見るたびに眉をひそめた。言葉にはしなかったが、犬の鼻にはわかった。嫌悪の匂いは微かだが確実で、枢機卿の法衣の裾から立ち上る香料の層の奥に、薄く、酢のような匂いが混じった。
ある午後、コルナッキアは中庭の水溜まりを踏んで館の廊下を歩いた。枢機卿の部屋の前を通りかかったとき、扉が開き、枢機卿が出てきた。コルナッキアの泥だらけの足跡が、枢機卿の暗い色の法衣の裾に黒く残った。
枢機卿は立ち止まり、犬を見下ろした。
五秒間、何も言わなかった。
瞳は犬の体を石のように硬くして、その視線を受けた。枢機卿の心拍は変わらなかった。怒りの匂いもなかった。ただ冷たい沈黙があり、五秒後、枢機卿は何も言わずに踵を返して部屋に戻った。
その夜、アトリエに戻ったカラヴァッジョがコルナッキアの頭を小突いた。
「あの五秒で俺の次の注文が三ヶ月延びた」
声に怒りはなかった。むしろ可笑しそうに口の端が上がっていた。瞳は尻尾を振りそうになるのを堪えた。堪えきれなかった。
マダマ宮の日常は、瞳が想像していたものとは違った。
教科書が描く「枢機卿の庇護の下で制作に没頭する孤独な天才」の像は、初日で崩れた。カラヴァッジョは孤独ではなかった。館には客が絶えなかった。貴族、聖職者、外交官、音楽家。枢機卿のサロンに人が集まり、食事が出て、議論が交わされた。
コルナッキアは食卓の下にいた。テーブルの脚の間から、革靴の列を見上げた。靴の手入れの仕方でその人物の地位がわかった。磨き上げた靴は高位の聖職者。擦り減った踵は下級の書記官。泥がついたままの長靴は軍人。靴の向きと動きで、誰が誰に話しかけ、誰が誰から身を引いているかが見えた。
ある晩、フランス大使がデル・モンテの書斎を訪れた。コルナッキアはカラヴァッジョの足許にいたが、カラヴァッジョは書斎のすぐ隣の小部屋に座っていた。扉一枚を隔てて、枢機卿とフランス大使の声が聞こえた。犬の耳には壁越しの声も明瞭だった。二人はトスカーナ大公とフランス王の同盟について話していた。声が低くなり、速くなり、途切れた。大使が帰った後、枢機卿は長い間、一人で書斎にいた。椅子が軋む音だけが聞こえた。
カラヴァッジョは小部屋を出て、アトリエに戻った。コルナッキアが後ろをついていく。彼は絵具の乗った石の板の前に座り、乳棒を手に取ったが、擂り始めなかった。乳棒の端を指で弾きながら、独り言を言った。
「フランスに媚びすぎるのは危険だ。だがスペインに寄るのはもっと危険だ」
それを犬に向かって言っていた。コルナッキアの目を見てはいなかったが、他に聞く者がいないことを確認したうえでの、犬への独り言だった。
この人は芸術家であると同時に政治を読んでいる、と瞳は思った。無学な野蛮人などではない。枢機卿のサロンの会話を聞き、力の均衡を計算し、自分がどこに立つべきかを考えている。フォークが使えないことと、教皇庁の権力構造を理解していることは、この人の中で矛盾なく同居している。テーブルの下から見上げる犬だけが、その二つの顔を同時に知っている。
ある夕食の席で、枢機卿が客人を招いた晩餐会にカラヴァッジョも呼ばれた。コルナッキアはカラヴァッジョの椅子の下に潜り込んだ。
テーブルの上に銀の食器が並んでいた。皿、杯、そして先が二股に分かれた小さな銀の道具。フォークだった。瞳は知っていた。十六世紀末のイタリアでは、フォークはまだ珍しい道具だった。
カラヴァッジョはフォークを手に取り、しばらく眺めた。隣の客が使うのを観察していた。肉を刺して口に運ぶ。彼はそれを真似ようとしたが、フォークの先が肉の表面を滑り、皿の上で金属が鳴った。もう一度試みた。また滑った。
カラヴァッジョはフォークを静かに皿の横に置いた。
「こんなもので肉が切れるか」
そう言って、手づかみで肉を掴んだ。
テーブルの向かいに座っていた枢機卿が、そっと額に手を当てた。隣に座っていた若い男が、唇を噛んで笑いを堪えていた。端正な顔立ちの若者で、瞳はまだその名を知らなかったが、匂いでは覚えていた。シチリアの日差しの匂いがする男。後にマリオ・ミンニティだと知ることになる。
カラヴァッジョは油のついた指をそのまま杯の脚に持ち替え、葡萄酒を飲んだ。杯の銀に指紋が残った。枢機卿はそれを見て、もう何も言わなかった。
翌朝、カラヴァッジョはアトリエで制作を始めた。
窓には黒い布が張ってあった。布の端の隙間から差し込む光が、部屋の中に一本の線を引いていた。カラヴァッジョはその光の線の中に果物を置いた。林檎、葡萄、無花果。果物の表面に光が当たり、影が反対側に伸びた。
彼は果物を一つずつ指先で動かし、光と影の境界を調整した。数ミリ単位の微調整を、何度も繰り返した。指先で果物の位置をずらすたびに、影が動き、光と影の接する線の形が変わった。
コルナッキアは床に腹ばいになって、果物を見上げていた。犬の目の高さからは、果物の底面が見えた。テーブルの縁に接する影の濃さが、人間の目線とは違って見えた。果物が浮いているように見えた。光の中に宙吊りになった果物。
カラヴァッジョが筆を取った。パレットに出した絵具の匂いが部屋に広がった。鉛白の粉っぽい匂い。黄土の土の匂い。そして一つ、瞳には名前がつけられない色の絵具。彼がパレットの端に少量出したその絵具は、犬の目にはくすんだ暗い灰色に見えた。しかし彼がそれを筆に含ませ、カンヴァスに置いたとき、周囲の色との関係の中で、それが何か強い主張を持つ色であることだけはわかった。
灰色の中に力がある。犬の目には見えないその色が、画面の中で何かを支配している。
この色を、この人はどう見ているのだろう、と瞳は思った。私には見えない色が、この人の絵の骨格を支えている。
時間が経った。
どのくらいかわからなかった。
犬の体には時計がない。
ただ光の角度が変わり、窓の隙間から差し込む線が部屋の中を移動していくのを見ていた。カラヴァッジョはその光を追いかけるように筆を動かした。光が果物の位置から離れそうになると、制作の手を止めて待った。翌日、同じ時間に光が同じ位置に戻るのを待って、また筆を取った。
光を追う人だった。光が来なければ描かない。光が消えれば筆を置く。この人の時間は太陽が決めている、と瞳は思った。
夕方になると、カラヴァッジョは制作を止めた。筆を洗い、パレットを擦り、手を布で拭いた。テレピン油で手を洗うと、爪の間の絵具がゆるんで石鹸のように溶け出した。テレピン油の匂いが部屋を満たし、コルナッキアの鼻腔を浸した。
この匂いは一日の終わりの匂いだった。制作が終わり、カラヴァッジョが人間に戻る時間の匂い。剣を再び腰に帯び、外套を羽織り、扉を開ける。
「飯にするか」
犬に向かってそう言い、階段を降りていく。コルナッキアは後を追う。金属が軽く鳴り、革の長靴が石段を踏む。その音のリズムを、犬の耳が覚え始めていた。この足音が聞こえる限り、この人は帰ってくる。まだそのことの意味を、瞳は考えないようにしていた。




