第一章 四百年前のテレピン油
最初に来たのは匂いだった。
腐った野菜。
その下に馬糞。
石に染み込んだ古い尿。
焼いたパンの遠い香り。
獣脂の蝋燭が消えた後の煤けた煙。
干した魚。
酸っぱい葡萄酒の澱。
積み重なった匂いの層が一度に鼻腔を打ち、瞳は息を詰めた。
息を詰めようとした。しかし体が言うことを聞かなかった。鼻が勝手に空気を吸い込み、匂いの洪水をさらに深く取り込んだ。一つ一つの匂いが個別の形と色を持って脳に流れ込んでくる。東京では嗅いだことのない密度だった。世界が匂いでできていた。
次に音が来た。
石畳の上を転がる車輪の音。
鉄の蹄が石を打つ硬い音。
イタリア語の怒鳴り声。
早口の、叩きつけるようなイタリア語が幾つも重なり合い、遠くで鐘が鳴った。低い鐘だった。
音が胸の奥まで振動して、肋骨の一本一本が共鳴した。
目を開けた。
視界がおかしかった。
低い。
地面が近い。
石畳の継ぎ目が巨大に見え、壁の漆喰が崖のようにそそり立っている。そして色がおかしかった。空は青かった。石畳は灰色がかった黄色だった。しかし壁に干してある布が――赤いはずの布が――くすんだ灰色にしか見えなかった。
手を見ようとした。
手がなかった。
視界の下端に、黒い毛の生えた細い脚が二本あった。
肉球が冷たい石に触れていた。爪が石畳に当たる感触があった。
叫ぼうとしたが声が出なかった。
舌が口蓋に触れ、唇が動いたが、人間の言葉を形成する筋肉の配置がどこにもなかった。代わりに喉の奥から甲高い音が漏れた。
犬の鳴き声だった。
それが自分の喉が出した音だと理解するまでに数秒かかり、理解した瞬間に二度目の鳴き声が出た。今度はもっと長く、もっと高かった。
体が動いた。四本の脚が石畳を掻き、壁にぶつかり、向きを変え、また走った。走りながら匂いの奔流に意識が溺れそうになった。石畳の隙間に詰まった泥の匂い、壁の角に残された他の犬の尿の匂い、排水溝から立ち上る汚水の匂い。匂いの一つ一つが情報を持っていて、その情報量に脳が追いつかなかった。
どれくらい走っただろう。路地が路地に繋がり、壁が壁に続き、どこにいるのかわからなかった。路地の角を曲がったとき、足がもつれて転んだ。小さな体が石畳に投げ出された。腹が冷たい石に当たり、息が詰まった。起き上がろうとしたが、四本の脚をどう動かせばいいのかわからなかった。人間の体の動かし方を知っている脳が邪魔をした。右前脚と左後脚を同時に伸ばそうとして、また転んだ。
仰向けになった。
空が見えた。
青い空に白い雲が一つ浮かんでいた。
空の色だけは東京と同じだった。
うつ伏せになった。体の下の石畳が冷たかった。腹の毛が薄く、石の温度が直接伝わってきた。仰向けのまま四肢をばたつかせたが、まるで起き上がれない亀のようだ。
動こうとすると、ことごとく人間の体のときの記憶が邪魔をした。腕を突いて上半身を起こそうとするが、前脚はそのようにはできていなかった。ごろごろと横に転がり、腹這いになり、それからようやく四本の脚で立った。
壁際の窪みに水溜まりがあったので覗き込んでみた。黒い毛の小さな顔が映っていた。巻き毛に覆われた丸い頭。濡れた黒い鼻。目が大きく、虹彩が暗かった。耳が垂れている。口元の毛が濡れて張り付いていた。
明らかに布袋瞳の顔ではなかった。東京のアトリエの鏡に映るはずの、長い黒髪を束ねた女の顔は、どこにもなかった。
また鳴き声が出た。今度は自分が出そうとして出した。長い、途切れ途切れの鳴き声だった。しかしそれは言葉にはならなかった。喉の構造が違った。舌の形が違った。声帯が人間の言語を組み立てられなかった。
路地の入口に影が差した。
匂いが先に届いた。汗。鉄。古い革。そしてその下に、かすかに、ごくかすかに、松脂を蒸留した匂い。テレピン油。粗い精製の、手で潰した顔料に混じるあの匂い。
事故の直前に鼻を満たした匂いと、同じものだった。
影が近づいてきた。革の長靴が石畳を踏む音。腰の高さで金属がぶつかり合う、軽い、乾いた音。
顔が見えた。上から覗き込む顔。浅黒い肌。黒い巻き毛を短く刈り込んでいる。濃い眉。鋭い黒い目。唇が厚い。その唇が笑った。笑うと、思いのほか少年のような顔になった。
男は屈み込み、仰向けの子犬を片手で掬い上げた。大きな手だった。指が太く、手のひらが硬い。画家の手ではなかった。労働者の手だった。しかし指の爪の間に、乾いた絵具の粒が残っていた。
男は子犬を持ち上げ、目の高さに掲げた。黒い目が子犬の全身を検分した。毛並みを見て、耳の形を見て、脚の太さを見た。片手の親指で子犬の顎の下を押し上げ、顔の角度を変えた。
光の当たり方を確かめていた。
対象の輪郭を追い、質感を指で覚える目だった。画家の目だ、と瞳は思った。あの手は労働者で、この目は画家だ。男の指先からは、乾いた顔料の粉と、微かなリンシード油の残り香がした。仕事の後だった。あるいは仕事の途中だった。
「真っ黒だな」
男が言った。低い声だった。イタリア語の響きが、犬の耳には人間の耳で聞くよりもずっと鮮明に届いた。子音の破裂音が空気を叩く振動まで聞こえた。
「カラスみたいだな」
その名を聞いた瞬間、瞳の脳裏にジョヴァンニ・バリオーネの文章が蘇った。カラヴァッジョの伝記を書いた同時代の画家。その記述の中に、犬の名前が一度だけ出てくる。
コルナッキア。
つまり、カラス。
男の顔をもう一度見た。
浅黒い肌。
厚い唇。
腰に帯びた剣。
爪の間の乾いた絵具。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。
刹那、解が全身を貫いた。
自分は、犬になったのだ。
この男の犬に。
パニックが来るはずだった。しかし体が先に動いた。男の手のひらの温もりに、犬の体が反応した。冷たい石畳の上で震えていた体が、大きな掌に包まれた途端に弛緩した。尻尾が動いた。短い尻尾が、意志とは無関係に左右に振れた。
やめろ、と瞳は自分に言った。
これは犬の神経系の反応だ。
私の感情ではない。
だが尻尾は止まらなかった。
男はコルナッキアを腕に抱え、路地を歩き始めた。歩調は速かった。革の長靴が石畳を踏む音のリズムが一定で、腰の剣が歩くたびに小さく鳴った。
途中でパン屋の前を通りかかった。男は足を止め、焼きたてのパンを一切れ買った。銅貨を一枚置き、パンをちぎって半分を犬の鼻先に差し出した。
パンの匂いが鼻腔を満たした。焼いた小麦粉、発酵した生地の酸味、窯の薪の煤。匂いの情報が胃に直結し、空腹が爆発した。子犬の胃は空だった。いつから空だったのかわからないが、体中の細胞が食べろと叫んでいた。
瞳は抵抗しようとした。
人間としての自分が、犬の本能に屈するわけにはいかなかった。
だが体が言うことを聞かなかった。顎が開き、パンに食いつき、噛み、飲み込んだ。味よりも匂いの方が強かった。小麦の匂いが口腔から鼻腔に抜け、飲み込んだ後もしばらく残った。
食べた。
自分の意志で食べたのか、犬の本能で食べたのか。
区別がつかなかった。
男はそれを見て笑い、残りの半分を自分の口に放り込んだ。噛み方が荒かった。犬を抱えたまま、片手でパンを咀嚼しながら、路地を抜けて広い通りに出た。日差しが石壁に当たり、乾いた石の匂いが立ち上った。
通りの先に、大きな建物が見えた。石造りの正面。重厚な扉。窓には鎧戸がかかり、二階の窓辺に鉢植えの緑が見えた。
男は建物の脇の小さな入口に向かった。扉を押し開けると、中庭の空気が流れてきた。
噴水の水の匂い。
石壁の苔。
乾いた落ち葉。
そしてその奥から、あの匂い。
テレピン油。
リンシード油。
鉛白の粉。
カンヴァスの麻。
アトリエの匂いだった。
四百年前のアトリエの匂いが、犬の鼻に圧倒的な精度で届いた。
現代のアトリエとは違った。
すべてが生々しく、すべてが手作りで、すべてが生き物の体液のように濃かった。
男は中庭を横切り、奥の階段を上がった。腕の中の子犬は、男の胸に鼻を押し当てていた。シャツの布越しに心拍が聞こえた。一定の、落ち着いた拍動。
部屋に入った。男は子犬を床に下ろした。
「ここがお前の家だ」
犬の四肢が冷たいタイルに触れた。部屋は狭く、薄暗かった。窓に黒い布が張ってあり、光は布の端の隙間から細く差し込んでいるだけだった。壁にカンヴァスが数枚立てかけてあり、テーブルの上に絵具を擂る石の板と乳棒が置かれていた。隅に寝台が一つ。毛布は薄い。
瞳は部屋を見回した。犬の目の高さから見る世界は、すべてが巨大だった。テーブルの脚が柱のようにそびえ、寝台の下は洞窟のように暗かった。床のタイルの継ぎ目に溜まった埃の匂い、前にここにいた誰かが零した葡萄酒の痕跡、窓枠の木に染みついた雨水の記憶。犬の鼻は、この部屋の歴史を数分で読み取った。
匂いがすべて見えた。
テーブルの上から流れてくるリンシード油の甘く重い匂い。
壁に立てかけたカンヴァスから発する麻と膠の匂い。
床の隅にこびりついた古い絵具の匂い。
寝台の毛布に染みついた男の体臭。
部屋全体が匂いの地図のようで、目を閉じても空間の構造がわかった。
匂いで見る部屋は、目で見る部屋よりも広かった。
男は上着を脱ぎ、剣をテーブルに置いた。金属がテーブルに当たる硬い音がした。それからシャツの袖をまくり、石の板の前に座った。乳棒で何かを擂り始めた。
瞳は床の上に腹ばいになって、男の手を見上げた。太い指が乳棒を握り、石の上で顔料を潰している。乾いた鉱物の粒が、圧力で砕け、粉になり、少しずつ油と混ざっていく。その過程で匂いが変わった。乾いた石の匂いから、油を含んだ粘りのある匂いに。
犬の目の高さから見上げる男の手は、それだけで一枚の絵のようだった。光が窓の隙間から斜めに差し込み、手の甲の筋と血管を照らしていた。
瞳は思った。これが見える。
この角度から、この光で、この手が見える。
私の目の高さから。
その瞬間、尻尾がまた振れた。今度は瞳も止めようとしなかった。




