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【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


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プロローグ ゴリアテの半眼

 順路の最後の部屋に、その絵はあった。


 布袋《ほてい》瞳《ひとみ》は人の流れに押されるようにして暗い展示室に入り、壁にかけられた一枚の前で足を止めた。


『ゴリアテの首を持つダヴィデ』。

 ボルゲーゼ美術館所蔵、日本初公開。


 解説パネルにはそう記されていた。


 手前の部屋まで、瞳は冷静だった。

『果物籠を持つ少年』の光沢を観察し、筆致の方向を読み、絵具の層の厚みを推測した。果実の表面に浮かぶ光の粒を見ながら、自分の技法との距離を計算した。『病めるバッカス』の肌の青白さに同業者としての関心を寄せ、蔦の葉の描き分けに感心した。画家が画家を見る目で、一枚一枚を通過してきた。分析する目。評価する目。安全な目。自分の内側には何も触れさせない目。


 この絵の前で、その安(・)全(・)な(・)目(・)が(・)壊(・)れ(・)た(・)。


 ダヴィデの手が、切り落とされた首の髪を掴んでいる。若者の顔には勝利の歓喜がない。剣を下げた腕は疲れ、手首が重力に従って垂れている。そして首。ゴリアテの顔。画家自身の自画像とされる顔。半開きの目。唇の端から覗く歯。額と頬に走る古い傷跡と、まだ生々しい傷跡。


 瞳はゴリアテの目を見た。


 半開きの目は、怒りでも苦痛でもない何かを湛えていた。死にゆく男の目だった。しかしそれだけではなかった。その目は何かを見ていた。自分の首を掴む若者の手を、その手に握られた剣の銘を、あるいはもっと遠くの、この画面の中にはない何かを。


 知っている、と瞳は思った。

 この目を、私は知っている。


 理由がわからなかった。

 ロベルト・ロンギの著作で幾度も図版を眺めた。画集でも見た。

 けれど今、実物の前に立って、全く別の感情が胸の底から持ち上がってくる。それは美術鑑賞の感動ではなかった。もっと古い、もっと深い場所から来る何(・)か(・)だった。名前のない感情が喉の奥で膨れ上がり、目の裏側を圧迫した。


 左手が無意識に上がり、自分の喉許に触れていた。指先に乾いた絵具の感触があった。


 展示室の空気は乾燥していて、微かに埃の匂いがした。周囲では人が移動し、音声ガイドの低い声が幾つも重なり合っている。誰かがシャッター音を鳴らし、係員がそれを止めた。日常の音だった。しかし瞳の耳には届かなくなっていた。ゴリアテの半開きの目だけが視界を占め、それ以外の世界が薄い膜の向こう側に遠ざかっていく。


 こ(・)の(・)目(・)は(・)、(・)誰(・)か(・)を(・)見(・)て(・)い(・)る(・)。


 自分を殺した者ではない。

 自分を描いた者でもない。

 もっと近くにいる誰かを。

 もっと低い場所にいる誰かを。

 この半開きの目は見ている。


 瞳には何のことかわからなかった。しかし体がわかっていた。鼻の奥が熱くなり、下顎の筋肉がこわばり、呼吸が浅くなった。涙が出そうだった。


 いい歳をした大人の画家が、展覧会場で理由もなく泣くわけにはいかない。


 瞳は唇を噛み、絵に背を向けた。鞄の中で携帯電話が震えた。父からの不在着信が一件残っていた。後でかけ直そう、と思った。出口に向かう足が速くなる。振り返りたくなかった。振り返れば泣く。なぜ泣くのか、自分でもわからないまま泣く。それが怖かった。自分の感情が自分の手を離れることが、瞳はいつだって怖かった。


 外は雨だった。


 上野公園の木々が濡れて黒く光り、美術館の屋根から水が筋になって落ちていた。瞳は傘を持っていなかった。朝、家を出るとき空は曇っていたが、降るとは思わなかったのだ。絵具のついた作業着の上に羽織っただけの薄いコートが、階段を降りる間にもう水を吸い始めていた。束ねた黒髪の毛先から雫が首筋に落ちた。


 公園を抜け、大通りに出た。濡れたアスファルトに車のヘッドライトが反射している。横断歩道の信号が青に変わり、瞳は歩き出した。雨が顔に当たり、目を細めた。絵具の染みが取れない指先が冷たくなった。信号が点滅を始めた。足を速めた。


 クラクションが鳴った。

 長く、裂けるような音だった。

 それを背中から浴びた。


 振り向いた瞬間、視界の左端を白い車体がよぎった。大きい。トラックの側面が雨に濡れた壁のように迫り、ぶつかる、と思う前に衝撃が来た。体が浮き、アスファルトが回転し、雨粒が横に流れた。上野の空が灰色の帯になって視界を横切った。


 地面に叩きつけられた――はずだった。しかし痛みがなかった。衝撃の後に奇妙な空白が広がり、雨音も、クラクションも、自分の呼吸音も消えた。痛みの入るべき場所に、代わりに匂いが流れ込んできた。


 テレピン油。


 雨に濡れた東京の交差点で、ありえない匂いが鼻腔を満たした。松脂を蒸留した、あの刺すような揮発臭。古い。生々しい。手で潰したばかりの顔料に混じるあの匂い。画材店の棚にある精製されたテレピン油ではない。粗い。荒々しい。手に残る。指の腹にまとわりつく。


 四(・)百(・)年(・)前(・)の(・)匂(・)い(・)。


 なぜ四百年前だと思ったのか、わからなかった。


 意識が遠のいていく。灰色の空が暗くなり、雨音が遠ざかった。視界の最後にゴリアテの半開きの目が一瞬だけちらついた。あの目は、まだ誰かを見ていた。低い場所にいる誰かを。


 テレピン油の匂いだけが、ただそれだけが、鼻の奥に残った。


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