↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/40

第三十八章 老婦人の涙

 白鳳堂での個展。

 堤はこの一枚だけの展示に戸惑ったが、瞳は譲らなかった。


「一枚です。この一枚だけです」


「一枚では展覧会にならない」


「なります」


 堤は絵の正面、およそ三メートルほどの位置に立ち、胸の前で深く腕を組んだ。仕立ての良い濃紺の三つ揃いスーツに皺ひとつなく、いつもなら画商特有の計算高い柔和さを湛えている口元が、今は一文字に結ばれている。


 三十年間、この男は銀座で絵を売り続けてきた。


 誰が描き、誰が買い、どの批評家に書かせれば価格が跳ねるか。マーケットの風向きを肌で感じ取り、時代が求める「商品」を仕立て上げる嗅覚にかけて、堤の右に出る者はいなかった。だからこそ、事故から生還した布袋瞳には「カラヴァッジョの影響を昇華させた、洗練された現代バロックの連作」という明快なパッケージを用意していたのだ。コレクターが好み、リビングの壁を飾り、投資対象として申し分のない、十点前後のスマートな個展――。


 だが、目の前にあるのは、ただ一枚だった。


 百五十号の巨大な画布が、画廊の純白の壁面を暴力的に占拠していた。


 展示室の照明が落とされ、絵を照らすのは絞り込まれた最小限のスポットライトだけ。そのせいで、画廊の空間そのものが画布の闇に呑み込まれ、部屋全体がどこかの洞窟か、古い石造りの地下室のように見えた。


 堤は首をわずかに傾げた。眉間に細い皺が寄る。


 最初の十秒、彼の目は完全に「画商の目」だった。


 構図の収まり、市場での流通性、既存の布袋瞳の顧客層――椿賞受賞作である『光のテクスチャー』の透明感と繊細なグラデーションを愛していたコレクターたちが、この絵をどう受け止めるか。それを値踏みする冷徹な視線だった。


(……暗すぎる)


 堤の脳内で、最初の計算が弾き出されていたはずだった。

 画面の八割以上を覆い尽くす、底知れぬ黒。それも、チューブから絞り出した均一なブラックではない。何層もの鉱物顔料と重い油が擦り合わされ、濁り、沈殿し、まるで四百年前の煤や泥をそのまま塗り固めたような、重く不穏な暗黒だ。こんな陰惨な絵を誰が自宅に飾りたがるのか。白鳳堂の顧客である富裕層のサロンには、あまりにも毒が強すぎる。


 堤は一歩、足を前に出した。革靴の底が床を擦る。

 距離を二メートルに縮め、目を細めた。


「……」


 声が出なかった。

 離れて見ていたときには「単なる暗部」に見えていた漆黒の中に、無数の階調が蠢いていることに気づいたからだ。

 それは人間の目の高さで設計された絵ではなかった。

 テーブルの脚の影、床板の擦り切れた木目、椅子の下の淀んだ空気。地を這うような異常に低い視点から見上げた、生の空間の生々しい闇。暗闇そのものが死んでいるのではなく、まるで息を潜めた獣のように、温度を持って画面の奥で脈打っている。


 堤の視線が、画面の中央を斜めに切り裂く「一条の光」へと移った。


 そこで、堤の喉仏が小さく動いた。

 息を呑む微かな音が、静寂の画廊に落ちる。


 光(・)の(・)道(・)。


 窓の隙間から差し込んだような鋭角の光が、埃の粒子を巻き込みながら、暗黒を一刀両断に引き裂いていた。かつての瞳が得意とした、計算され尽くしたレースのような光ではない。それは火花であり、傷口であり、暗闇の障壁を力任せにぶち破って侵入してきた、凶暴なまでの恩寵だった。


 そして、その光のただ中に、赤があった。

 毒々しいまでに鮮烈な、生々しいカドミウムレッドの飛沫。

 それは光の粒子であると同時に、傷口から吹き出す血のようであり、暗闇を焼き払う焔のようでもあった。瞳のこれまでの作品には、一度たりとも現れたことのない色彩だった。寒色と中間色で理知的にコントロールされていた彼女のパレットが、この絵の中で完全に決壊し、原初の赤が画布の上で発熱していた。


 堤は思わず、さらに二歩、画布へと近づいた。

 いつの間にか組んでいた腕が解け、両手がだらりと体側に下りていた。

顔を画布の表面、わずか数十センチの距離まで寄せる。


 絵具の層が、信じられないほどの凹凸を作っていた。

 筆で塗られたのではない。叩きつけられ、擦り付けられ、時には指の腹で直接擦過されたような痕跡。キャンバスの麻の粗い織り目が絵具を食い破り、乾いた顔料の粒が光を乱反射している。


 匂い立つような気迫だった。


 アクリルや現代の精製油絵具にはない、重く、粘りつくような、動物の体液めいた油の気配が、画布の表面から立ち上ってくるようだった。


 堤の背筋に、冷たい汗がひと筋流れた。

 画商としての三十年間のキャリアが、彼の内側で軋み声を上げていた。


 こ(・)れ(・)は(・)、(・)商(・)品(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。


 インテリアでも、投資対象でも、サロンの調度品でもない。

 ここにあるのは、ひとりの人間が、己の理性も、保身も、これまでに築き上げてきた名声のすべてをも叩き壊し、魂の臓物を鷲掴みにして画布に擦りつけたような、剥き出しの「生」そのものだった。


(私は、何をプロデュースしようとしていたんだ?)


 堤の胸中に、痛烈な羞恥が湧き上がった。


「カラヴァッジョの影響を受けた連作」などという小綺麗なキャッチコピーで、この絵を括ろうとしていた己の浅ましさ。この画家が事故の昏睡から持ち帰ってきたものは、そんな借り物の美術史の意匠などではなかった。彼女は、彼岸の闇の底まで降りていき、そこで本物の火傷を負い、その焼け爛れた傷口から血を流しながら、この光を掴み取ってきたのだ。


 堤はゆっくりと後退した。

 一歩、二歩、三歩。


 展示室の壁際まで下がり、背中を冷たい漆喰に預けた。

 肩の力が完全に抜けていた。


 遠くから全体を見渡したとき、堤の視線が、画面の右下隅――光の届かない最も深い闇の底に落ちた。

 目を凝らさなければ見落としてしまうような、小さな、黒い塊。

 丸まって眠る、一匹の犬の影。


 その影は、光を恐れるでもなく、闇に怯えるでもなく、ただ静かに、絶対的な信頼をもって、その激しい光と闇の狭間に息づいていた。

 暴力的な画面の中で、その一角だけが、息を呑むほど静謐で、祈りに満ちていた。


 堤は目を閉じた。

 瞼の裏に、ロンドンのスレード美術学校で瞳を教えていた旧友、ヘレン教授の顔が浮かんだ。かつて彼女は、堤に宛てた手紙の中でこう書き残していた。


『瞳は天才よ。でも彼女は、自分の絵で人を殺すことも、自分が絵のために死ぬことも怖がっている。彼女が一度でもその安全な檻を壊したとき、世界は彼女の本当の光を見ることになるでしょう』


 ヘレン。君の言った通りだったよ。

 彼女は、檻を壊した。

 跡形もなく、粉々に叩き壊してしまった。


 長い、長い沈黙が画廊を満たしていた。空調の微かな唸り音だけが、二人の間を流れていく。


 どれほどの時間が流れただろうか。


 堤はゆっくりと目を開けると、静かに息を吐き出し、展示室の隅に立っていた瞳のそばへと歩み寄った。


 画商の顔は、そこにはもうなかった。

 ただ一枚の絵の前に立ち尽くし、打ちのめされた、ひとりの無力な人間の顔だった。


 堤は瞳の横に並び、画布を見つめたまま、低く、震える声を絞り出した。


「これは……売り物にはならないかもしれない。でも、これは本物だ。ヘレン先生が見たら喜ぶだろう」


 瞳は堤の横顔を見つめ、小さく頭を下げた。この男は三十年間、画家と作品を世に出し続けてきた。才能を見つけ、育て、売り込む仕事。オルシがやったことと同じだった。天才は一人では成功しない。瞳もまた、一人ではここに立てなかった。


◆


 椎名が展覧会に来た。スーツではなく、普段着のジャケットだった。絵の前に長く立った。暗い画面の中央を走る一筋の光を見つめていた。それから、視線が下に移った。右下隅に目を落とした。小さな黒い影に気づいた。


 しばらくその影を見つめていた。それから瞳の方を振り向いた。


「これは……犬ですか?」


 瞳は微笑んだ。


「ええ。ずっと傍にいた犬です」


 椎名は何かを感じ取ったように瞳を見つめた。口を開きかけた。しかし閉じた。それ以上は訊かなかった。訊かないことが、この人の優しさだった。答えられないとわかっている問いを、この人は投げなかった。


◆


 絵を見た人々の反応はさまざまだった。多くの人は通り過ぎた。一枚だけの展示に戸惑い、何の絵かわからないと呟いて去る人が多かった。抽象画にしては具象的だと言った人もいた。具象画にしては抽象的だと言った人もいた。


 しかし一人の老婦人が絵の前で泣いていた。


 係員が心配して声をかけた。老婦人は首を振った。ハンカチで目を拭き、また絵を見つめた。


「この光は本物です」


 それだけ言った。理由は本人にもわからなかった。ただ、光を見た。本物の光を見た。それだけで泣いた。


 瞳はその老婦人の背中を遠くから見ていた。


 思い出した。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の石段で、犬の鼻に届いた涙の塩の匂い。コンタレッリ礼拝堂のカラヴァッジョの絵を見て泣いた老婆。あの日、犬は聖堂の外で待っていた。出てくる人々の匂いを嗅いでいた。老婆の頬を伝った涙の塩を嗅いだ。


 四百年の間を隔てて、二人の老婦人が、本物の光の前で泣いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。