第三十八章 老婦人の涙
白鳳堂での個展。
堤はこの一枚だけの展示に戸惑ったが、瞳は譲らなかった。
「一枚です。この一枚だけです」
「一枚では展覧会にならない」
「なります」
堤は絵の正面、およそ三メートルほどの位置に立ち、胸の前で深く腕を組んだ。仕立ての良い濃紺の三つ揃いスーツに皺ひとつなく、いつもなら画商特有の計算高い柔和さを湛えている口元が、今は一文字に結ばれている。
三十年間、この男は銀座で絵を売り続けてきた。
誰が描き、誰が買い、どの批評家に書かせれば価格が跳ねるか。マーケットの風向きを肌で感じ取り、時代が求める「商品」を仕立て上げる嗅覚にかけて、堤の右に出る者はいなかった。だからこそ、事故から生還した布袋瞳には「カラヴァッジョの影響を昇華させた、洗練された現代バロックの連作」という明快なパッケージを用意していたのだ。コレクターが好み、リビングの壁を飾り、投資対象として申し分のない、十点前後のスマートな個展――。
だが、目の前にあるのは、ただ一枚だった。
百五十号の巨大な画布が、画廊の純白の壁面を暴力的に占拠していた。
展示室の照明が落とされ、絵を照らすのは絞り込まれた最小限のスポットライトだけ。そのせいで、画廊の空間そのものが画布の闇に呑み込まれ、部屋全体がどこかの洞窟か、古い石造りの地下室のように見えた。
堤は首をわずかに傾げた。眉間に細い皺が寄る。
最初の十秒、彼の目は完全に「画商の目」だった。
構図の収まり、市場での流通性、既存の布袋瞳の顧客層――椿賞受賞作である『光のテクスチャー』の透明感と繊細なグラデーションを愛していたコレクターたちが、この絵をどう受け止めるか。それを値踏みする冷徹な視線だった。
(……暗すぎる)
堤の脳内で、最初の計算が弾き出されていたはずだった。
画面の八割以上を覆い尽くす、底知れぬ黒。それも、チューブから絞り出した均一なブラックではない。何層もの鉱物顔料と重い油が擦り合わされ、濁り、沈殿し、まるで四百年前の煤や泥をそのまま塗り固めたような、重く不穏な暗黒だ。こんな陰惨な絵を誰が自宅に飾りたがるのか。白鳳堂の顧客である富裕層のサロンには、あまりにも毒が強すぎる。
堤は一歩、足を前に出した。革靴の底が床を擦る。
距離を二メートルに縮め、目を細めた。
「……」
声が出なかった。
離れて見ていたときには「単なる暗部」に見えていた漆黒の中に、無数の階調が蠢いていることに気づいたからだ。
それは人間の目の高さで設計された絵ではなかった。
テーブルの脚の影、床板の擦り切れた木目、椅子の下の淀んだ空気。地を這うような異常に低い視点から見上げた、生の空間の生々しい闇。暗闇そのものが死んでいるのではなく、まるで息を潜めた獣のように、温度を持って画面の奥で脈打っている。
堤の視線が、画面の中央を斜めに切り裂く「一条の光」へと移った。
そこで、堤の喉仏が小さく動いた。
息を呑む微かな音が、静寂の画廊に落ちる。
光の道。
窓の隙間から差し込んだような鋭角の光が、埃の粒子を巻き込みながら、暗黒を一刀両断に引き裂いていた。かつての瞳が得意とした、計算され尽くしたレースのような光ではない。それは火花であり、傷口であり、暗闇の障壁を力任せにぶち破って侵入してきた、凶暴なまでの恩寵だった。
そして、その光のただ中に、赤があった。
毒々しいまでに鮮烈な、生々しいカドミウムレッドの飛沫。
それは光の粒子であると同時に、傷口から吹き出す血のようであり、暗闇を焼き払う焔のようでもあった。瞳のこれまでの作品には、一度たりとも現れたことのない色彩だった。寒色と中間色で理知的にコントロールされていた彼女のパレットが、この絵の中で完全に決壊し、原初の赤が画布の上で発熱していた。
堤は思わず、さらに二歩、画布へと近づいた。
いつの間にか組んでいた腕が解け、両手がだらりと体側に下りていた。
顔を画布の表面、わずか数十センチの距離まで寄せる。
絵具の層が、信じられないほどの凹凸を作っていた。
筆で塗られたのではない。叩きつけられ、擦り付けられ、時には指の腹で直接擦過されたような痕跡。キャンバスの麻の粗い織り目が絵具を食い破り、乾いた顔料の粒が光を乱反射している。
匂い立つような気迫だった。
アクリルや現代の精製油絵具にはない、重く、粘りつくような、動物の体液めいた油の気配が、画布の表面から立ち上ってくるようだった。
堤の背筋に、冷たい汗がひと筋流れた。
画商としての三十年間のキャリアが、彼の内側で軋み声を上げていた。
これは、商品ではない。
インテリアでも、投資対象でも、サロンの調度品でもない。
ここにあるのは、ひとりの人間が、己の理性も、保身も、これまでに築き上げてきた名声のすべてをも叩き壊し、魂の臓物を鷲掴みにして画布に擦りつけたような、剥き出しの「生」そのものだった。
(私は、何をプロデュースしようとしていたんだ?)
堤の胸中に、痛烈な羞恥が湧き上がった。
「カラヴァッジョの影響を受けた連作」などという小綺麗なキャッチコピーで、この絵を括ろうとしていた己の浅ましさ。この画家が事故の昏睡から持ち帰ってきたものは、そんな借り物の美術史の意匠などではなかった。彼女は、彼岸の闇の底まで降りていき、そこで本物の火傷を負い、その焼け爛れた傷口から血を流しながら、この光を掴み取ってきたのだ。
堤はゆっくりと後退した。
一歩、二歩、三歩。
展示室の壁際まで下がり、背中を冷たい漆喰に預けた。
肩の力が完全に抜けていた。
遠くから全体を見渡したとき、堤の視線が、画面の右下隅――光の届かない最も深い闇の底に落ちた。
目を凝らさなければ見落としてしまうような、小さな、黒い塊。
丸まって眠る、一匹の犬の影。
その影は、光を恐れるでもなく、闇に怯えるでもなく、ただ静かに、絶対的な信頼をもって、その激しい光と闇の狭間に息づいていた。
暴力的な画面の中で、その一角だけが、息を呑むほど静謐で、祈りに満ちていた。
堤は目を閉じた。
瞼の裏に、ロンドンのスレード美術学校で瞳を教えていた旧友、ヘレン教授の顔が浮かんだ。かつて彼女は、堤に宛てた手紙の中でこう書き残していた。
『瞳は天才よ。でも彼女は、自分の絵で人を殺すことも、自分が絵のために死ぬことも怖がっている。彼女が一度でもその安全な檻を壊したとき、世界は彼女の本当の光を見ることになるでしょう』
ヘレン。君の言った通りだったよ。
彼女は、檻を壊した。
跡形もなく、粉々に叩き壊してしまった。
長い、長い沈黙が画廊を満たしていた。空調の微かな唸り音だけが、二人の間を流れていく。
どれほどの時間が流れただろうか。
堤はゆっくりと目を開けると、静かに息を吐き出し、展示室の隅に立っていた瞳のそばへと歩み寄った。
画商の顔は、そこにはもうなかった。
ただ一枚の絵の前に立ち尽くし、打ちのめされた、ひとりの無力な人間の顔だった。
堤は瞳の横に並び、画布を見つめたまま、低く、震える声を絞り出した。
「これは……売り物にはならないかもしれない。でも、これは本物だ。ヘレン先生が見たら喜ぶだろう」
瞳は堤の横顔を見つめ、小さく頭を下げた。この男は三十年間、画家と作品を世に出し続けてきた。才能を見つけ、育て、売り込む仕事。オルシがやったことと同じだった。天才は一人では成功しない。瞳もまた、一人ではここに立てなかった。
◆
椎名が展覧会に来た。スーツではなく、普段着のジャケットだった。絵の前に長く立った。暗い画面の中央を走る一筋の光を見つめていた。それから、視線が下に移った。右下隅に目を落とした。小さな黒い影に気づいた。
しばらくその影を見つめていた。それから瞳の方を振り向いた。
「これは……犬ですか?」
瞳は微笑んだ。
「ええ。ずっと傍にいた犬です」
椎名は何かを感じ取ったように瞳を見つめた。口を開きかけた。しかし閉じた。それ以上は訊かなかった。訊かないことが、この人の優しさだった。答えられないとわかっている問いを、この人は投げなかった。
◆
絵を見た人々の反応はさまざまだった。多くの人は通り過ぎた。一枚だけの展示に戸惑い、何の絵かわからないと呟いて去る人が多かった。抽象画にしては具象的だと言った人もいた。具象画にしては抽象的だと言った人もいた。
しかし一人の老婦人が絵の前で泣いていた。
係員が心配して声をかけた。老婦人は首を振った。ハンカチで目を拭き、また絵を見つめた。
「この光は本物です」
それだけ言った。理由は本人にもわからなかった。ただ、光を見た。本物の光を見た。それだけで泣いた。
瞳はその老婦人の背中を遠くから見ていた。
思い出した。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の石段で、犬の鼻に届いた涙の塩の匂い。コンタレッリ礼拝堂のカラヴァッジョの絵を見て泣いた老婆。あの日、犬は聖堂の外で待っていた。出てくる人々の匂いを嗅いでいた。老婆の頬を伝った涙の塩を嗅いだ。
四百年の間を隔てて、二人の老婦人が、本物の光の前で泣いていた。




