最終章 コルナッキア
夜の画廊。
展示が終わり、誰もいない空間で、瞳は自分の絵の前に座っていた。椅子ではなく、床に直接座っていた。低い場所に。犬の目の高さに。
暗い画面の中央を、一筋の光が走っていた。その光の中に赤が燃えていた。右下隅に、小さな黒い影があった。丸まって眠っている犬の影。
画廊の蛍光灯は消えていた。非常灯の薄い緑色の光だけが、空間を照らしていた。絵の表面は暗かった。非常灯の弱い光の中では、絵の中の暗部と画廊の暗闇が溶け合い、境界が消えていた。光の一筋だけが、かすかに浮かんで見えた。
ふと、右下隅の犬の影が動いたような気がした。
瞳は目を凝らした。影は動いていなかった。非常灯の光が微かに揺れたのだろう。その揺れが絵の表面の絵具の凹凸に陰影を作り、影が呼吸しているように見えただけだった。
しかし、匂いがした。
かすかに。ごくかすかに。人間の鼻では感じ取れないはずの、微かな匂い。
テレピン油。
古い、粗い、手で潰したばかりの顔料に混じるテレピン油の匂い。画材店の棚にある精製されたテレピン油ではない。もっと古い匂い。もっと生々しい匂い。松脂を粗く蒸留した、手に残る、指の腹にまとわりつく匂い。プロローグの交差点で最後に嗅いだ匂い。犬として最初に嗅いだ匂い。マダマ宮のアトリエの匂い。四百年前の匂い。
ありえなかった。人間の鼻にこの匂いが届くはずがなかった。犬の鼻でなければ感知できない精度の匂いだった。しかし鼻の奥に確かにあった。一瞬だけ。蝋燭の焔が揺れるよりも短い一瞬だけ。
記憶が作り出した幻覚かもしれなかった。脳が犬時代の嗅覚記憶を一瞬だけ再生したのかもしれなかった。あるいは、絵の中の犬の影が、四百年前の匂いをほんの一瞬だけ、この画廊に運んできたのかもしれなかった。
どちらでもよかった。幻覚でも現実でも。この匂いを知っている。この匂いの中で十五年間を生きた。この匂いがする場所に、あの人がいた。
瞳の目から涙がこぼれた。
そして笑った。泣きながら笑った。犬は泣けなかった。犬は笑えなかった。人間の体でだけできることが、二つ同時に起きていた。十五年間できなかった二つのことが、今、同時にできていた。
小さく呟いた。
「おやすみ、ミケランジェロ」
非常灯の薄い光の中で、絵の右下隅の犬の影が、ほんの一瞬だけ、尻尾を振ったように見えた。
(了)
最後まで『ゴリアテの犬』にお付き合いいただき、まずは心より感謝申し上げます。
本作の執筆のきっかけは、実を言えば、ほんの些細な思いつきでした。
ある日、手許にあった美術書をパラパラとめくっていたとき、奇妙な一行が目に留まりました。バロック絵画の巨匠であり、殺人者としても悪名高いあのミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョが、生前、一匹の「小さな黒い巻き毛の犬」を溺愛していたという記述です。
同時代の画家であり、カラヴァッジョを激しく敵視していたライバル、ジョヴァンニ・バリオーネが残した伝記の片隅に、その犬の名は確かに刻まれていました。名を「コルナッキア(Cornacchia)」――イタリア語で「カラス」を意味する黒犬です。
その瞬間、頭の中で火花が散るような直感が走りました。
「もしも、この犬の視点からカラヴァッジョの生涯を追ったら、どうなるだろうか?」
そこから、私は史料渉猟を始めました。国内外のカラヴァッジョに関する伝記、同時代の裁判記録、書簡集、教会や代書人の古文書を可能な限り読み漁り、集めたパーツを机の上に並べていきました。調べれば調べるほど、この男の人生は小説の枠組みを軽々と飛び越えるほどの破天荒さと、痛々しいまでの人間味に満ちていたのです。
作中で描いたエピソードの数々も、大半が当時の記録や警察の調書に実際に残されている史実に基づいています。
例えば、第十三章で描いた「アーティチョーク事件」。
一六〇四年四月、ローマの居酒屋「モーロ」で、給仕が持ってきたアーティチョークの皿に対し、カラヴァッジョは「これはバターで炒めたのか、それとも油か」と詰問しました。給仕が「匂いを嗅げばわかるでしょう」と小生意気に答えた瞬間、彼は激昂して陶器の皿ごと給仕の顔面に投げつけ、怪我を負わせています。
この恐るべき短気さと瞬発的な暴力性は、現代の我々から見れば狂気の沙汰ですが、その一方で、彼はこのバリオーネの記録によれば、愛犬コルナッキアには後ろ脚で直立して歩くような曲芸を何時間も根気強く仕込み、上手にできると嬉々として自慢していたといいます。人間に対しては皿を投げつける男が、犬の失敗には声を荒らげず、付き合い続けたというこの強烈な二面性。
また、作中でミンニティに止められた「犬に砂糖菓子を食べさせようとした」場面や、夜のローマで頻繁に道に迷い、帯剣不法所持や夜間徘徊で何度も警察沙汰になっていたエピソードも、当時の法廷記録をなぞったものです。
彼は卓越した空間把握能力を持ちながら、闇夜の街路角路では子供のように方向感覚を失い、自らの剣と暴力の影に怯えていました。天才の傲岸さと、野良犬のような脆さ。その矛盾のすべてを一番間近で、足許の暗がりから見上げていたのがコルナッキアだったのではないか――そう確信したとき、物語の骨格は完全に定まりました。
そしてもうひとつ、本作の根幹をなすのが「現代の行き詰まった女性画家が、犬へと姿を変えて過去へと跳躍する」という設定です。
私はかねてより、世界各地の神話や古典文学に登場する「変身譚」に強い関心を寄せてきました。オウィディウスの『変身物語』をはじめとする神話において、人間が動物や樹木へと姿を変える契機とは、常に「人間としての理性の限界」や「言葉の耐えきれない過負荷」にあります。
例えば、狩人アクタイオンの神話がそうです。
女神ディアナの裸身を偶然目撃してしまった若者は、神の怒りに触れて鹿へと変えられ、人間の声と言葉を奪われます。そして、自分が可愛がっていた五十頭の猟犬たちに追われ、喉笛を噛み裂かれる。アクタイオンは自らの正体を叫ぼうとしますが、喉から漏れるのは獣の呻き声だけであり、言葉を失ったことこそが最大の悲劇でした。
また、嫉妬深いヘラによって熊に変えられたカリストーの物語では、熊の肉体を得てなお人間の心を宿した彼女が、自らの姿を恐れ、かつて愛した森を怯えながら彷徨います。
神話における変身とは、単なる外見の変化ではなく、「言葉を剥奪され、理性の防空壕を奪われた者が、世界の生の脅威と直接肌を擦り合わせる試練」なのです。
主人公である布袋瞳の変身も、まさにこの神話的構造を現代に召喚する試みでした。
現代の画壇で「光のテクスチャー」という知性的で安全な評価に安住し、火傷することを恐れて本物の光から逃げていた彼女は、トラックの衝撃とともに人間の言葉と二本の手を奪われ、地を這う四肢と嗅覚の世界へ投げ出されます。犬となった瞳は、助言を与えることも、歴史の破滅を警告することもできません。できるのは、ただ相手の匂いを嗅ぎ、心拍を聞き、その血と体温を全身で受け止めることだけでした。
それゆえに、本作の執筆においては、瞳の内面描写に最も多くの心血を注ぎました。
人間としての知性や誇りを保とうとする彼女が、犬の嗅覚の豊穣さに圧倒され、やがて「本能が先で理性が後」という獣の生理に浸食されていくグラデーション。日本語のアンカー(筆、キャンバス、テレピン油、東京、父さん)が少しずつ欠落していき、最後には父と味噌汁の匂いだけが魂の最後の杭として残る過程。そして、ナポリの酒場で主人を守るために躊躇なく暴漢に噛みついた瞬間――彼女は「人間としての計算」を完全に失うと同時に、ヘレン教授から突きつけられていた「火傷するほどの生の衝動」をついに獲得するのです。
犬の体で言葉を失った十五年間があったからこそ、彼女は現代へ戻ったとき、すべてを奪われながらもなお描き続けたカラヴァッジョの魂と真に共鳴し、自分だけの光を画布に叩きつけることができたのだと信じています。
カラヴァッジョという画家は、美術史の上ではあまりにも劇的で、あまりにもスキャンダラスに語られがちです。しかし、彼が残した絵画の前に立つとき、私たちが目にするのは単なる暴力の記録ではなく、暗闇の底で喘ぎながら、それでも一筋の恩寵を求めて手を伸ばし続けた、ひとりの孤独な人間の祈りです。
この物語を通じて、読者の皆様がカラヴァッジョという不世出の巨人が遺した絵画に、そして彼が見つめ、見つめ返された「光と闇」の切実さに、少しでも興味を抱いていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
それでは、また次の物語でお逢いいたしましょう。




