第三十七章 光
実家からの帰り道、中央線の窓に映る自分の顔を、瞳はずっと見つめていた。
夜の闇を背負ったガラスには、三十二歳の女の輪郭が曖昧に浮いていた。頬の肉は削げ、束ねた髪の生え際に疲れが滲んでいる。だが、その輪郭の奥、暗い硝子の底に、かつてローマの水溜まりに映ったあの濡れた黒い鼻と垂れた耳、底知れぬ夜を宿した獣の双眸が二重写しになって重なっているように見えた。
電車が規則正しい継ぎ目の音を刻むたび、頭蓋の奥で何かが軋んだ。
父は「お母さんを描けなくなったからだ」と言った。不在を埋める嘘を描くくらいなら、沈黙を選んだのだと。
それは痛いほど美しく、そして残酷なまでに純粋な敗北だった。三十年間、妻の不在という空白を神棚のように祭り上げ、味噌汁を作り、生徒にデッサンの初歩を教えながら、自分自身の手からは絵具の匂いを洗い流し続けた男。父は逃げなかった。だが、留まり続けることで、自分の中の時間を凍結させたのだ。
「私は描くよ」
そう宣言して実家を出てきたものの、アトリエの重い鉄扉を開けた瞬間、冷え切った空気が全身にのしかかってきた。
東京のアトリエは、死んでいた。
壁に立てかけられた数十枚のキャンバス。それらはかつて「光のテクスチャー」ともてはやされ、銀座の白鳳堂に並び、批評家たちに「繊細な現代の抒情」と絶賛された布袋瞳の過去の抜け殻だった。
電気をつけず、月の光と遠い街灯のナトリウム灯の照り返しだけで部屋を見回す。
整然と棚に並ぶチューブ入りの絵具。ホルベインやクサカベの洗練された油絵具。精製され、無臭に近く調整されたペトロールやダンマルワニス。均一に機械で地塗りされた、寸分の狂いもないベルギー製リネンの木枠。
すべてが、無機質で、清潔で、嘘だった。
瞳は作業用のパイプ椅子を引き出し、そこに腰を下ろした。膝の上に両手を置く。五本の指。人間の皮膚。爪の間は清潔で、絵具の粉も、乾いた血液の痕跡もない。
この手は、いったい何を描いてきたのだろう。
瞳は自分の半生を遡った。
物心ついた頃から、自分には絵しかなかった。母が病気で痩せ細っていき、家の中から笑い声が消えていった子供時代、瞳は机に向かって紙を塗りつぶすことでしか、世界の崩壊に抗えなかった。母が死んだ日も、父が台所で声を殺して肩を震わせていた夜も、瞳はクレヨンを握りしめていた。描いている間だけは、世界の輪郭が自分の支配下にあるように思えたからだ。安全だった。絵画は、感情という制御不能の怪物から身を守るための、完璧な防空壕だった。
東京藝大に進み、大学院を出て、ロンドンに留学した。
ロンドンのスレード美術学校で、ヘレン教授は瞳の緻密なグラデーションと完璧な光の空間構成を見つめ、煙草の煙を吐き出しながら吐き捨てるように言った。
「あなたの絵には、血が流れていない。あなたが描いているのは光ではなく、光の模型よ。安全なガラス越しに火を見ているだけ。あなたは一度も、火傷をしたことがないのね」
その言葉に傷つきながらも、瞳は反発した。火傷などして何になる。芸術とは理性の構築物であり、計算された美の抽出ではないのか。
帰国後、瞳はさらに技術を研ぎ澄ませた。何十層もの透明な油彩層を重ね、光の粒子が画面の奥で乱反射するような、息を呑むほど精緻な抽象的具象画――「光のテクスチャー」シリーズ。それが椿賞を獲り、画商の堤がつき、美術界の寵児となった。
だが、その評価の頂点で、瞳は立ち止まっていた。
百号のキャンバスを前にして、手が動かなくなったのだ。次に何を重ねればいいのか。これ以上、何を薄く塗り重ねて嘘を飾り立てればいいのか。技術が頂点に達した瞬間、その奥にある空虚がぽっかりと口を開けていた。
その果てに、あの上野の交差点での事故があった。
トラックの咆哮。舞い散る雨粒。そして――四百年の時を遡る、あの古い、粗い、刺すようなテレピン油の匂い。
瞳は立ち上がり、暗闇の中でアトリエの床に両膝をついた。
そのまま四つん這いになり、額を冷たい合板の床に押し当てた。
床の埃の匂いがした。
だが、目を閉じると、鼻腔の奥に立ち上ってくるのは、まったく別の世界の匂いだった。
――ローマの、石畳の匂い。
腐った野菜と馬糞、古い尿と、濡れた石の隙間にこびりついた苔の匂い。
あの路地で、転がった自分を拾い上げた男の、骨太で分厚い掌。
「真っ黒だな。カラスみたいだ。コルナッキア」
あの男、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。
彼は、瞳とは正反対の生き物だった。
防空壕など持たず、安全な距離など知らず、生きることのすべてで世界と摩擦を起こし、火花を散らし、血を流し続けていた男。
瞳は床に這いつくばったまま、十五年の日々の記憶を、一つひとつ指先で手繰るように反芻した。
マダマ宮の暗いアトリエ。男は窓の黒い布に指先ほどの穴を開け、光の道を探して何時間も立ち尽くしていた。光が来なければ描かず、光が消えれば筆を投げ打った。太陽の運行に己のすべてを従属させ、光に仕える奴隷のように祈り、そして筆を執れば、獲物に襲いかかる獣のようにキャンバスを叩きつけた。
あの筆の音。トントン、とキャンバスの麻を打つ、硬く短い打撃音。あれは剣の素振りの音であり、肉を切り裂く刃の音だった。
彼は、描くことと殺すことを、同じ回路で生きていたのだ。
アーティチョークの皿を給仕の顔に投げつけたあの暴力。
暗がりでパスクァローネの背後から斬りつけたあの卑劣な闇。
そして、カンポ・マルツィオの路上でトマゾーニの大腿部を貫き、致命傷の血を噴き出させた、あの決定的な過ち。
瞳は思い出す。あの日、アトリエの扉の前で、子犬から成犬になった自分の体が、渾身の力で主人の足を止めようとしたことを。袖を咥え、布を引き裂き、扉の前に立ちはだかった。
『行くな。この扉の向こうには破滅がある。お前の人生の終わりがある』
犬の喉から絞り出したあの唸り声を、男は理解していたはずだった。
それでも彼は犬の頭を両手で包み、「待ってろ、すぐ戻る」と言って跨いでいったのだ。
なぜあの人は、破滅へ向かう足を止められなかったのか。
なぜ、手に入れた富も、パトロンの庇護も、マルタでの名誉ある騎士の称号すらも、自らの暴力で粉々に叩き壊さずにはいられなかったのか。
――壊さずには、いられなかったのだ。
床の上で、瞳の指が爪を立てた。
合板の床が軋む。
男にとって、完成された調和や、平穏な名誉など、すべて「嘘」だったのだ。
世界はそんなに美しくない。神の恩寵など、天上の雲の上から降り注ぐ甘やかな光ではない。人は泥にまみれ、腹を空かせ、路上で排泄し、嘘をつき、病み、裏切り、そして死ぬ。
母を失い、父を失い、定住の地を持たぬあのアウトローにとって、信じられるものは、自らの網膜を焼きつける一瞬の閃光と、逃げるときに丸めて持っていけるキャンバスの重みだけだった。
だから彼は、暴力を描いたのではない。
暴力と罪に塗れ、救いようのない己自身が、それでもなお一筋の光に照らし出されるその瞬間――恩寵という名の稲妻に撃たれるその一瞬を、絵具で地上に繋ぎ止めるために、命の残高を削りながら筆を振るっていたのだ。
パリアーノの逃亡の夜、悪夢に跳ね起き、暗闇の中で「誰かが来る」と叫んで犬の首筋に顔を埋めて泣いた男。
ナポリの泥水の中で、飢えた父に乳を飲ませる女の汗と疲労を、そのまま慈悲として画布に写し取った男。
マルタの地下牢から脱獄し、小舟の上で「心を赦せたのは、この世でお前だけだった」と、老いた犬の巻き毛に額を押し当てて震えていた男。
そして――ナポリで顔を切り刻まれ、醜く裂けた己の顔を鏡で見つめながら、切り落とされたゴリアテの首として描き、その半開きの目を、足許で丸くなる黒い犬へと向けた男。
「お前は、見ていたな」
あの声が、アトリエの静寂の底から響いてくるようだった。
「お前は俺の足許で、俺の血も、俺の罪も、俺の光も、全部見ていたはずだ。なのに布袋瞳、お前は何を守ろうとしている? 何を怖がって、そこに蹲っている?」
瞳の喉から、ひゅう、と細い呼気が漏れた。
守っていたのだ。
自分は、ずっと自分を守っていた。
父が母の死から逃れるために筆を折ったように、自分は傷つくことから逃れるために、安全な「光のテクスチャー」という殻の中に閉じこもっていたのだ。
他人の評価。銀座の画商の賞賛。美大の教授たちの講評。清潔なアトリエ。完璧なマテリアル。
それらすべてで身を固め、自分自身が泥水の中に倒れ込むことを、何かに噛みつくことを、誰かの血を舐めることを、徹底的に拒絶していた。
だが、あの十五年間で、瞳の殻は粉々に粉砕されたはずではなかったのか。
犬の体になったとき、人間としての言葉を奪われた。理性もプライドも、華々しい経歴も、すべて無力になった。
残されたのは、四本の脚と、嗅覚と、聴覚と、そして剥き出しの命だけだった。
主人が人を殺した手を、犬の舌で舐めた。
主人が悪夢に魘される夜、骨が軋むほど強く抱きしめられ、その涙の塩分を毛並みで受け止めた。
ナポリの居酒屋で暴漢が踏み込んできたとき、計算も保身もなく、ただ主人を守るためだけに、老いた顎で男の脛に噛みつき、壁に叩きつけられて肋骨を軋ませた。
あのとき、自分は確かに火傷したのだ。
感情のコントロールを手放し、理性の安全地帯を飛び越え、他者の痛みのただ中に己の命を投げ出した。
それは犬としての本能だったかもしれない。だが、その本能の底で震えていたのは、まぎれもなく布袋瞳というひとりの人間の魂だった。
そして、ポルト・エルコレの病室。
あの暗い、石灰の匂いが立ち込める部屋で、息絶えていく男の頭の上に置かれた、動かなくなった手の冷たさ。
あの冷たさを、瞳はこの手で知っている。
あの光が消えた瞬間を、世界から永遠に失われたあの絶対的な喪失を、この胸の底に刻み込んでいる。
「描けないんじゃない……」
瞳は床の上で、ぽつりと呟いた。
声が、埃っぽいアトリエの壁に吸い込まれた。
「描けないんじゃない。怖いんだ。あの光を描いてしまえば……私が、あの人を本当に終わらせてしまうことが」
涙が、床に落ちた。
ポトリ、と乾いた合板に染みを作る。
犬の肉体では、十五年間、一滴も流すことのできなかった涙。
それが今、人間の目から、堰を切ったように溢れ出し、頬を伝い、顎から滴り落ちた。
あの人が死んだ日、世界は終わった。
人類の至宝たる光は途絶え、カラヴァッジョという巨星は、トスカーナの海岸の無縁仏の土の中に消えた。
そして自分は東京に戻り、再び人間の体を得て、安全な日常に引き戻された。
だが、瞳の魂の半分は、いまだあのポルト・エルコレの病室の、冷たくなっていく男の横に丸まったまま、暗闇の中で立ち尽くしていたのだ。
自分は何のために、あの十五年を生きたのか。
なぜ、四百年の時を越えて、あの男の足許に送られ、その栄光と破滅のすべてを、あの低い視点から見届けさせられたのか。
美術史の教科書の行間を埋めるためか?
椎名のような研究者に、パリアーノの記録のありかを教えるためか?
違う。
断じて違う。
あの男が、最後に自分の首を差し出しながら描いた『ダヴィデとゴリアテ』の、あの半開きの目。
あの目は、四百年後の上野の美術館で、群衆の頭越しに、低い場所にいた瞳を捉えたのだ。
『見ろ』と。
『俺の光を、俺の闇を、俺のこの無様な魂の顛末を、世界で唯一、最後まで見ていたお前が――お前の手で、証言しろ』と。
瞳はゆっくりと上体を起こした。
膝の関節が微かに鳴った。老犬の痛みではない。まだ三十二歳の、若く、血の巡る生身の肉体の重みだった。
立ち上がった。
足が床を踏みしめる。
爪先から踵へと体重を乗せる感触。四本の脚ではなく、二本の脚で大地に立つ人間の感覚。
瞳は部屋の隅へ歩いていった。
積まれていたキャンバスの山を掻き分け、奥から取り出したのは、かつて椿賞の後に「大きすぎる」と怖気づいて放置していた、百五十号の巨大な生の麻キャンバスだった。
木枠に張られただけの、地塗りすら施されていない粗野な麻布。
ざらざらとした植物の繊維の感触が、指の腹を擦過した。
それは、マダマ宮のアトリエに運び込まれた、あのコンタレッリ礼拝堂のための巨大な布の匂いに、どこか似ていた。
瞳は部屋の蛍光灯のスイッチに手を伸ばした。
そして、躊躇なく――消した。
カチリ、と硬い音がして、アトリエは完全な闇に沈んだ。
目が暗闇に慣れるのを待った。
犬の夜間視力は、もうない。網膜が捉えるのは、ただの黒い塊、輪郭を失った家具の影だけだ。
だが、瞳の胸の奥には、十五年間かけて焼きつけられた「夜」があった。
窓の外、東京の街が放つ微かなナトリウム灯の橙色の光が、カーテンの隙間から細い筋となって差し込み、床の上に一本の斜めの線を引いていた。
一本の光。
それだけで十分だった。
瞳は作業着の袖をまくり上げた。
チューブの絵具など使わない。
棚の奥から、学生時代に買い集めて放置していた顔料の瓶を取り出した。ランプブラック、ローアンバー、イエローオーカー、そして――鮮烈な、毒を含んだようなカドミウムレッド。
乳鉢と乳棒を取り出し、大理石の板の上に粉をぶちまけた。
リンシード油を注ぐ。
ギリ、ギリ、と石と石が擦れ合う音が闇に響いた。
鉱物の乾いた粒が、粘り気のある重い油と出会い、押し潰され、練り合わされていく。
匂いが立ち上った。
鼻腔を貫く、あの重く、甘く、皮膚にまとわりつくような、生き物の体液の匂い。
絵具が生まれた。
工場で作られたペーストではない。自分の手で、力で、鉱物をすり潰して練り上げた、四百年前と同じ生の絵具。
瞳は筆を執った。
一本ではない。太い豚毛の平筆を鷲掴みにした。
パレットナイフも握った。
そして、必要ならば己の指そのものを筆にする覚悟で、百五十号の暗黒の前に立った。
心臓が打っていた。
ドク、ドク、と肋骨の内側を叩く激しい鼓動。
呼吸が浅くなり、体温が下がっていく。
あの匂いだ。
カラヴァッジョがカンヴァスの前に立つとき、いつもその体から立ち上っていた、あの集中の匂い。
獲物を狩る獣の匂い。
恐れは、もうなかった。
迷いも、計算も、誰かに評価されたいという浅ましい欲望も、すべて黒い絵具の海に沈んでいた。
ここに描くべきものは、美しい光の模型ではない。
あの男の足許で、泥と埃にまみれながら見上げた、あの暴力的なまでの光の侵入。
そして、その光を受け止めるために口を開けていた、果てしない暗黒の深淵。
世界に打ちのめされ、人を傷つけ、自分自身を呪いながら、それでもなお光に向かって手を伸ばさずにはいられなかった、一匹の獣と、ひとりの画家の、命の痕跡そのものだ。
「見ていて、ミケランジェロ」
瞳は暗闇の中で呟いた。
声は震えていなかった。低く、静かで、鋼のように硬かった。
右腕を振り上げた。
筋肉が緊張し、足が床を蹴った。
そして――最初の一撃が、キャンバスの沈黙を切り裂いた。
それはカラヴァッジョの模倣ではなかった。テネブリズムでもなかった。瞳が描いたのは「光」だった。
マダマ宮のアトリエの壁に穿たれた穴から差し込む、午後の一条の光。それを犬の目の高さから見上げた記憶。低い場所から斜めに走る光を見上げた記憶。
記憶は正確だった。犬の感覚器官で得た記憶は、人間の脳の中に膨大な精度で保存されていた。光が空気中を通過するとき、埃が光の粒子として見えた。光の道の輪郭が切り立って見えた。光の内側と外側で世界が二つに割れていた。その光を、犬の目の高さから、床に腹ばいになった角度から、見上げた。すべてを覚えていた。
キャンバスの大半は暗かった。カラヴァッジョの画面のように。しかしカラヴァッジョの暗さとは違った。犬の暗さだった。低い場所から見上げる世界の暗さ。テーブルの下の闇。椅子の脚の間の闇。床に近い場所の、光が届かない闇。人間の目の高さでは見えない闇が、犬の目の高さにはあった。その闇を描いた。
闇の中に、ただ一筋の光が斜めに走っている。窓の穴から差し込む光。カラヴァッジョの光。彼が窓の黒い布を調整して作った光の道。あの光が部屋の空気を貫き、埃を照らし、床の上に白い四角を描いている。
犬の色覚で見た世界だった。青と黄と灰色の世界だった。赤がない世界。十五年間、赤なしで見続けた世界。しかし瞳は人間の色覚を取り戻していた。だからこの絵には、犬の記憶にはなかった色が加わっていた。
赤。
光の道の中に、赤があった。犬の目には見えなかった色が、光の道の中で燃えていた。カラヴァッジョの絵具の赤。パレットの端に少量出されたあの灰色は、この赤だった。トマゾーニの血の赤。ゴリアテの首から流れる血の赤。フィッリデの髪の中に隠れていた赤。十五年間灰色だったすべてのものが、この一筋の光の中で赤く燃えていた。
それは瞳自身の血の色だった。犬の体では流せなかった血だった。カラヴァッジョの光を、瞳の血で染めた絵だった。
ヘレン教授が言った「火傷する光」が、ここにあった。犬として十五年間、感情のコントロールを手放すことを体で覚えた瞳が、帰還後に初めて自分の感情をキャンバスにぶつけた絵だった。計算なしに。制御なしに。犬が噛みつくときのように、体が先に動いて描いた絵だった。
筆致は荒かった。シチリアのカラヴァッジョの筆致に似ていた。完成を目指す筆ではなく、今この瞬間に見えているものを捕まえようとする筆だった。しかしカラヴァッジョの模倣ではなかった。カラヴァッジョは上から見下ろす光を描いた。瞳は下から見上げる光を描いた。同じ光を、異なる高さから見た絵だった。画家の高さと、犬の高さ。
そして絵の右下隅に、小さな黒い影を一つ描いた。
犬の影。
丸まって眠っている犬の、ほとんど気づかないほどの影。
注意して見なければ、暗い画面の一部としか見えない。しかし目を凝らせば、そこに犬の形がある。耳が折れ、尻尾が体に巻きつき、鼻を前脚の間に埋めて眠っている犬の影。歴史に記録されない存在。バリオーネが書き残した数行だけが存在証明であるような、小さな、黒い、消えかけた影。
タイトルを考えた。長い間考えた。何日も考えた。そして決めた。
『無題』。




