第三十六章 父の答え
瞳は実家を訪ねた。
父の台所は変わっていなかった。古い木のまな板。使い込んだ包丁。冷蔵庫の扉に貼られた瞳の子供の頃の絵。黄色いチューリップの絵。五歳のときに描いた。母が死ぬ三年前に描いた。母がその絵を冷蔵庫に貼り、父が三十年間剥がさなかった。
鍋の中で味噌汁が温まっていた。この匂い。犬の体の中で最後まで消えなかった匂い。「父さん」という一語と結びついた匂い。アンカーの最後の杭。他の四つの言葉が消えても、この匂いだけは残った。味噌と昆布の出汁と、長年使い込んだ鍋の金属の匂い。
食卓に向かい合って座った。味噌汁を飲んだ。豆腐と若布。父が作る味噌汁の味は、瞳の子供の頃から変わっていなかった。母が死んだ後も、父はこの味噌汁を作り続けた。母のレシピだったのだろうか。それとも父が自分で覚えた味だったのだろうか。聞いたことがなかった。
瞳は箸を置いた。味噌汁の湯気が食卓の上で揺れていた。
「お父さんはなぜ絵をやめたの?」
長い沈黙があった。父は味噌汁の椀を両手で持ったまま、湯気の向こうに目を据えていた。味噌の匂いが二人の間の空気を温めていた。蛍光灯の光が食卓を照らし、影が二人の足元に落ちていた。
瞳はこの質問を三十二年間してこなかった。母が死んだ後、父が教室で生徒に美術を教え続けながら、自分では一枚も描かなくなったことを知っていた。自宅のアトリエを物置に変え、イーゼルを折りたたみ、絵具を棚の奥にしまった。しかしその理由を問うことは、何かを壊すことだと直感的に知っていた。だから聞かなかった。今日まで。
「お母さんを描けなくなったからだ」
父の声は静かだった。
味噌汁の椀を口元に近づけ、一口飲み、また下ろした。
「あの人がいなくなった後、何を描いても嘘になった。風景を描いても、あの人と見た風景が浮かぶ。人を描いても、あの人の顔が浮かぶ。何を描いてもあの人の不在が画面に滲む。それが嘘だった。あの人がいないことを描くくらいなら、何も描かない方がましだった」
瞳は理解した。
自分が帰還後に描けなくなったのと同じだった。本物を知ってしまった人間は、それ以外のものを描くことに耐えられない。カラヴァッジョの光を見てしまった瞳は、自分の光が嘘に見える。母を失った父は、母のいない世界の絵が嘘に見えた。本物を失った後の世界は、すべてが偽物だった。
しかし瞳は、父と同じ道は選ばなかった。
カラヴァッジョが教えてくれたことがある。
あの人はトマゾーニを殺した後も描き続けた。マルタで裏切られた後も描き続けた。ナポリで顔を切られた後も描き続けた。すべてを失っても、最後の一筆まで描き続けた。描くことをやめなかった。描けないことを理由に筆を折らなかった。描けない苦しみごと、カンヴァスにぶつけた。シチリアの闇の絵がそうだった。画面の大半が暗闇で、人物が消えかけている。しかしその暗闇の中に、最後の光があった。
描くことをやめるのではなく、描けない苦しみそのものをキャンバスにぶつける。
「お父さん、私は描くよ」
父は娘を見た。何を見たのかはわからなかった。三日間眠り続けて目覚めた後、何かが変わった娘の目を見たのかもしれなかった。何も訊かなかった。ただ頷いた。味噌汁の椀を口に運んだ。
食卓の上で湯気がゆっくりと消えていった。




