第三十五章 沈黙
本当は瞳は椎名に話したかった。すべてを。
あの犬は私だった。
あの十五年間を生きたのは私だった。
犬の体で見て、犬の鼻で嗅いで、犬の耳で聞いた。カラヴァッジョがパンを半分くれたことを知っている。フォークが使えず手づかみで肉を食べたことを知っている。枢機卿の法衣に泥の足跡をつけて、五秒間睨まれたことを知っている。道に迷って犬に案内されたことを知っている。砂糖菓子を分けようとしてミンニティに止められたことを知っている。
人を殺した夜に泣いたことを知っている。声を出さず、体を震わせて、犬を抱きしめて泣いた。犬の毛に涙が染みた。温かい涙だった。
犬の腹を撫でながら眠れない夜を過ごしたことを知っている。光が恩寵だと本気で信じていたことを知っている。教会の前で足を止め、入ろうとして入らず、立ち去ったことを知っている。血の中に自分の名前を書いたとき手が震えなかったことを知っている。
しかし言えなかった。「私はあの犬でした」と言えば、精神科への紹介状が書かれるだけだった。
椎名はある日、瞳に言った。大学の研究室で、論文の原稿を机の上に広げながら。
「君はカラヴァッジョのことを、まるで個人的に知っているかのように話す。研究者としての距離感とは違う。もっと……親密な距離だ。観察者の距離ではなく、同居人の距離だ」
瞳は答えられなかった。
同居人。
その言葉は正確だった。
十五年間、同じ部屋で暮らした。同じ空気を吸い、同じ匂いを嗅ぎ、同じ温もりの中で眠った。同居人以上の近さだった。犬と飼い主は同居人よりも近い。体温を分け合い、心拍を聞き合い、匂いで語り合う。言葉がない分、もっと近い。
知っているのに証明できない。見たのに語れない。犬の記憶の中にしか存在しない真実。パリアーノの聖母子像の発見が、瞳の記憶と現実が交差する一点を作った。完全に証明はできないが、完全な幻覚でもなかった。しかしその一点だけでは、すべてを語る根拠にはならなかった。
瞳は沈黙を選んだ。語れないことを抱えて生きることを選んだ。犬として十五年間、言葉なしで生きてきた。言葉がなくても傍にいることはできた。尻尾を振ることはできた。鼻を鳴らすことはできた。今もそうだった。語らなくても、椎名の傍にいることはできた。




