第三十四章 足許の犬
椎名と瞳がカフェでカラヴァッジョについて話していたある日のことだった。
窓の外の街路樹が秋に色づき始めていた。カフェの中にはコーヒーとミルクの匂いが漂っていた。人間の鼻でも感じ取れる、平凡な匂い。犬の鼻なら、この店の中のすべての客の体臭と、厨房で使われている調味料の一つ一つと、テーブルの木の年輪の匂いまで嗅ぎ分けていただろう。
椎名がカップを置き、自分の研究の未解決問題について語り始めた。
「カラヴァッジョがナポリ逃亡直後、コロンナ家の領地で小さな作品を一点描いたという記録が、コスタンツァ・コロンナの書記官の書簡に残っている。しかしその作品は行方不明で、何を描いたかもわからない。パリアーノの教区記録にわずかな手がかりがあるかもしれないが、まだ誰も体系的な調査をしていない」
瞳の中で記憶が動いた。
パリアーノの石壁の部屋。
傷が癒えるのを待つ間のカラヴァッジョ。
紙と木炭でスケッチを始めた朝。
小さなカンヴァスに描いた一枚の聖母子像。
青い布を纏った女。腕に抱かれた幼子。
コスタンツァへの感謝として描かれた小さな絵。
そしてその足許に、カラヴァッジョが最後に描き加えた黒い影。
犬の影。
コルナッキアの丸まった小さな影。
あの朝の光を覚えていた。
パリアーノの窓から差し込む朝の光が、カラヴァッジョの膝の上のカンヴァスを照らしていた。木炭で犬の影を描き入れる指先を、犬の目が見上げていた。
口が動いた。自分の意志ではなかった。記憶が言葉になって漏れた。
「それはきっと聖母子像です。そして足許に黒い犬がいる」
椎名は箸を止めた。目が鋭くなった。研究者の目だった。予想外の情報を前にしたときの、集中の目だった。カラヴァッジョが光を見つけたときの目に似ていた。
「なぜそう思う?」
瞳は我に返った。慌てた。記憶から漏れた言葉を取り戻すことはできなかった。
「いえ……カラヴァッジョの画風と、コロンナ家への感謝という文脈から推測しただけです。犬は……いつかコルナッキアの話を先生がされたので、つい。コロンナ家への感謝と犬への愛着を一枚の絵に込めたのではないかと」
椎名は頷いた。説明としては成り立つ推論だった。カラヴァッジョが犬を飼っていたという史料があり、コロンナ家の庇護への感謝として聖母子像を描いたという状況証拠がある。足許に犬を描くのは寓意的に「忠誠」を表す伝統がある。論理的に矛盾しない推測だった。
しかし椎名の目の奥に、何かが引っかかった表情が残った。論理的に矛盾しないことと、確信を持って断言することは違う。瞳の声には推測以上の確信があった。椎名はそれを聞き取っていた。
数ヶ月後、椎名はイタリアに渡った。パリアーノの教区記録を調査するために。瞳は東京で待った。白いキャンバスの前に座り、描けないまま日を過ごした。テレピン油の匂いを嗅ぐとフラッシュバックが起きた。マダマ宮のアトリエが一瞬だけ蘇り、すぐに消えた。蛍光灯の白い光が、記憶の闇を押し流した。
ある夜、電話が鳴った。
深夜だった。イタリアとの時差を考えれば、向こうは夕方だった。椎名からだった。声が震えていた。普段の冷静な研究者の声ではなかった。
「君の言った通りだった」
瞳は受話器を握った。
手が白くなった。
「コスタンツァ・コロンナの私的な財産目録の断片が見つかった。パリアーノの教区文書館の、整理されていない箱の中に。羊皮紙の断片で、虫食いがひどいが、記述は読める」
椎名の声が少し途切れた。感情を抑えている呼吸が聞こえた。
「『小さな聖母子像、足許に黒き犬あり。カラヴァッジョの手になるもの。一六〇六年秋、パリアーノにて受領』。瞳さん、記述がある。聖母子像で、足許に黒い犬がいた。記録が見つかった」
沈黙があった。長い沈黙だった。電話の向こうで椎名の呼吸だけが聞こえた。
「君はどうして知っていたんだ?」
瞳は長い沈黙の後に答えた。声が出にくかった。喉が詰まっていた。犬の嘆きの声が出そうだった。あの高く細い声。クゥンという声。しかし人間の喉はその声を出せなかった。代わりに、掠れた声が出た。
「……夢を見たんです。事故の後に、長い夢を」
椎名は黙った。電話の向こうの沈黙が長く続いた。信じてはいなかった。しかし別の説明が見つからなかった。夢で見たという説明は、科学的には無価値だった。しかし結果が一致していた。推測にしては正確すぎた。偶然にしては具体的すぎた。
二人の間に、新しい種類の緊張が生まれた。




