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【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


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第三十三章 研究者は語る

 都内の大学で開催された講演を聴きに行った。


 「トマゾーニ殺害事件の再検証」


 美術史学会の若手研究者による発表だった。講演者は椎名航太。三十四歳。東京大学でイタリア・バロック美術を専攻し、ボローニャ大学に留学した経歴を持つ。眼鏡をかけた痩せ型の男で、話すときの身振りが大きかった。イタリア留学の名残だろう。手が空中で言葉の形を描いていた。


 椎名は史料に基づいて論証した。一六〇六年五月二十八日の殺害事件が、衝動的な口論の結果ではなく、計画的な決闘であったこと。双方が介添人を連れ、武器を準備していたという法廷記録の証拠。傷の位置が大腿部であり、当時の「名誉の傷つけ」の慣行から、去勢か顔面の傷つけ(スフレージョ)を狙ったが、剣が滑って大腿動脈を切断し致命傷を与えた可能性。


 瞳は客席で震えていた。


 あの朝の剣を研ぐ音が耳に蘇った。砥石の上を滑る刃の高周波の音。犬の耳にだけ聞こえた音。ロンギが来て、もう一人の軍人と三人で低い声で話し合っていた場面。場所の確認。時刻の確認。相手の人数の確認。退路の確認。すべてが椎名の論証と一致していた。計画的だった。あの朝、カラヴァッジョの体からは一晩中消えなかった決意の匂いが立ち上っていた。


 しかし椎名の論文が伝えていないことがあった。カラヴァッジョが犬を置いて出ていったこと。「待ってろ、すぐ戻る」と犬に言ったこと。犬が袖を咥えて引き止めようとしたこと。扉の前に立ちはだかったこと。それらは記録に残らなかった。それは犬《ひとみ》の記憶の中にだけあった。


 講演後、瞳は椎名に近づいた。階段教室の最前列まで降り、資料を片づけている椎名に声をかけた。


「先生の論文は正しいと思います」


 椎名は眼鏡の奥から瞳を見た。画家だと名乗った。椎名は瞳の名前を知っていた。そして椿賞の受賞を知っていた。


「根拠は?」


 瞳は何も言えなかった。あの朝を見た、とは言えなかった。犬としてあの部屋にいた、とは言えなかった。


「……直感です」


 椎名は少し笑った。研究者にとって直感は根拠ではなかった。しかし興味を持った顔だった。


「画家の直感ですか。面白い」


 それから何度か会った。大学の裏手にある薄暗い純喫茶で、書籍が雪崩を起こしそうな研究室で、企画展の閉館間際の美術館ロビーで。


 ふたりはカラヴァッジョについて語り合った。


 椎名はやはり徹底して史料の人だった。裁判記録、書簡、教区の洗礼台帳、債権者の差し押さえ目録。バチカンやローマ国立文書館のマイクロフィルムから文字を拾い上げ、紙の上にインクで残された客観的な痕跡から、ひとりの画家の輪郭を幾何学的に組み上げる男だった。


 一方、瞳のカラヴァッジョは、匂いと心拍と体温のカラヴァッジョだった。


 紙には決して残らない、皮膚の皺にこびりついた乾いた絵具の匂い。暗闘の中で筆を叩きつけるときの浅い無呼吸。悪夢に跳ね起きたあとに流れる、胸を軋ませるほどの涙の塩分。二つのカラヴァッジョは、学術的には決して重なり合わなかった。しかし、同じひとりの男の魂を、まったく違う方角から追尾していた。


「……やはり、納得がいかない点があるんです」


 神保町の古い喫茶店の片隅で、椎名は冷めかけたブレンドコーヒーのカップを置き、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。テーブルの上には、椎名がイタリアから持ち帰った『聖マタイの召命』の原寸大のディテール図版が何枚も広げられていた。


「コンタレッリ礼拝堂の契約が結ばれたのは一五九九年。それまでのカラヴァッジョは、マダマ宮でデル・モンテ枢機卿好みの世俗的な半身像――リュート弾きや果物籠を持つ少年ばかりを描いていた。礼拝堂を埋めるような、等身大以上の群像劇など一度も手掛けたことがなかったんです。それなのに、なぜ彼は下描き(シノピア)も置かず、あんな巨大な画面の光を完璧に制御できたのか。伝統的なフレスコ画の手法を拒絶して、油彩の暗闇から人物を浮かび上がらせるという狂気の決断を、どこで確信に変えたのか……文献にはその転換点が一行も書かれていない」


 椎名の手が宙を舞い、カンヴァスを区切るように動いた。イタリア留学仕込みの身振りが、彼の知的興奮をそのまま表していた。


 瞳は湯気の消えた紅茶を見つめていた。スプーンの銀色に、喫茶店の橙色のランプが丸く反射している。


 ――扉だ、と瞳は思った。


 窓の小さな穴から入る光では、あの巨大な布は支配できなかった。三日間、飢えと恐怖で動けなかった男の部屋の扉を、ミンニティが不用意に開けたのだ。廊下の西日がミンニティの顔を縦に両断したあの一瞬の痙攣を、瞳は犬の目で、足許から見上げていた。


「……迷っていたんだと思います」


 瞳が静かに口を開いた。声は低く、独り言のように卓上に落ちた。


「最初は、怖くて仕方なかったはずです。小さな部屋なら窓の布に穴を開けて、一本の道を引けば済む。でもあの巨大な空間を前にして、彼は自分が小さい絵しか描けない人間だと突きつけられて、何日も……筆すら握れずに怯えていた」


 椎名の手が止まった。瞬きをして、瞳の顔を見つめた。


「怯えていた? 彼がですか? カラヴァッジョは傲慢で、同業者を公然と見下していた男ですよ。『自然を模倣する以外の絵はすべて玩具だ』と豪語していた」


「傲慢だからこそ、自分の限界が怖かったんです」


 瞳は図版の右端、暗闇から差し込む一条の斜光にそっと指先を滑らせた。


「あの光は、窓から呼んだものじゃないわ。アトリエの扉を開けたんです。横からではなく、入口から射し込む外の光……夕暮れの低い光が、偶然部屋の奥まで届いた。その光がモデルの鼻筋を切り裂いた瞬間、彼は呼吸を止めた。光を作ろうとするのをやめて、世界が勝手に作っている光の通り道を、ただ開けてやればいいんだと気づいたんです。だから……あの絵の制作は、祈りというより、鍛冶屋が焼けた鉄を叩くような乱暴な労働だった」


 静寂がふたりの間に落ちた。

 喫茶店の奥で、ミルが豆を挽く鈍い音だけが響いていた。


 椎名は息を呑んだまま、言葉を失っていた。


 学術的な分析ではない。様式論でも図像学でもない。まるで昨日、そのアトリエの暗がりで画家の背中を見張り、その息遣いを聞いていたかのような語り口だった。布袋瞳という女性の言葉には、仮説を述べる研究者の留保や躊躇が一切ない。そこにあるのは、匂い立つような目(・)撃(・)の(・)確(・)信(・)だった。


(なぜだ……?)


 椎名の胸の奥で、冷たい戦慄が走った。

 この女性は何者なのだろう。

 椿賞を受賞した気鋭の若手画家。事故に遭い、三日間の昏睡から奇跡的に目覚めたばかりの人物。それだけの情報で説明がつく領域を、彼女はとうに踏み越えていた。


 彼女の語るカラヴァッジョは、史料の断片のどれにも矛盾しない。それどころか、文献の行間にある空白――なぜ彼がその構図を選び、なぜその筆を置いたのかという謎の結び目を、あまりにも滑らかに、血肉の通った真実として解きほぐしてしまう。


 ――ま(・)る(・)で(・)、(・)彼(・)と(・)同(・)じ(・)屋(・)根(・)の(・)下(・)で(・)暮(・)ら(・)し(・)て(・)い(・)た(・)と(・)で(・)も(・)言(・)う(・)よ(・)う(・)に(・)。


 椎名は無意識のうちに、瞳の横顔をじっと見つめていた。


 長い睫毛。伏せられた瞳の奥に宿る、深い、底の見えない翳り。彼女の細い指先には、テレピン油でも落ちきらない古い絵具の染みがあった。派手な装飾を嫌い、黒いシンプルなニットを着たその佇まいは、どこかこの現代の東京から遊離しているようにすら見える。


 奇妙な違和感だった。常識的な研究者としての理性が「そんなはずはない」と警告を発している。

 だがそれ以上に――椎名は、この女性の纏う途方もない孤独の気配に、抗いがたく惹きつけられていた。


 彼女の瞳には、誰も共有できない広大な過去が沈んでいる。その深淵に触れたいと願う欲望が、学問的探求心という名目を食い破り、ひとりの男としての熱となって喉の奥にせり上がってくるのを、椎名は感じていた。彼女がカラヴァッジョを語るとき、その声の微かな震え、愛おしむような指の動きを見ているだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


「……瞳さん」


 椎名の声が、思わず掠れた。


「君は、どうしてそこまで分かるんですか。まるで……彼の心臓の音を聞いていたみたいだ」


 瞳はハッとしたように指を引っ込め、顔を上げた。

 その瞬間、瞳の顔に走ったのは、秘密を暴かれそうになった者の怯えではなく――哀しいほど透明な諦念だった。


「……画家だからです」


 瞳は小さく、頼りなげに微笑んだ。その笑顔のあまりの美しさと儚さに、椎名は言葉を呑み込んだ。


「私も、白いキャンバスの前で、何度も死にそうになりましたから。描けない人間の息の詰まり方は……時代が違っても、同じですから」


 嘘だった。

 椎名にはそれが、彼女が差し出した精いっぱいの逃げ道だと分かった。


 だが、それをそれ以上追及することはできなかった。これ以上踏み込めば、この壊れ物のように繊細で、しかし鋼のように強靭な魂を持つ女性が、煙のように消えてしまいそうな気がしたからだ。


「……そうですね」


 椎名は自分の動揺を隠すように、冷めきったコーヒーを飲み干した。苦味だけが舌に残った。


「僕たちは、紙の上の死者しか相手にできない。でも、君の目には……彼がまだ、生きているんですね」


 瞳は答えず、ただ窓の外の、濡れた東京のアスファルトを見つめた。


 椎名はそんな彼女の横顔から、どうしても目を離すことができなかった。謎に満ちたその沈黙の奥へ、たとえ自分が狂気の淵に引きずり込まれることになろうとも、もっと深く飛び込んでみたいという熱い衝動が、静かに、しかし確実に彼の胸を侵食し始めていた。


 ある日、椎名が何気なく言った。


「バリオーネの記述にあるコルナッキアという犬は、カラヴァッジョの人間性を知る手がかりになるかもしれない。殺人者が犬を飼っていたという事実は、彼の内面の複雑さを示唆している」


 瞳は食べかけのフォークを落とした。フォークが皿の縁に当たり、金属の高い音が店内に響いた。椎名が驚いた顔をした。瞳は笑ってごまかした。フォークを拾い、ナプキンで拭いた。しかし手が震えていた。テーブルの下で、膝の上で、手が震えていた。


 コルナッキア。


 その名前を他人の口から聞いたのは初めてだった。バリオーネが書き残した数行の記述。犬の名前。カラスの意。あの路地で拾い上げられたときに与えられた名前。


「真っ黒だな。カラスみたいだ。コルナッキア」


 その名前が、四百年後の東京のカフェで、研究者の口から発せられた。紙の上の名前と、記憶の中の名前が、同じ音で重なった。

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