第三十二章 描けないキャンバス
瞳は東京のアトリエに戻った。
画材と埃の匂いが顔に当たる。人間の鼻でも嗅ぎ取れる程度の匂い。犬の鼻ならこの部屋の歴史を読めただろう。何年分の絵具の層、キャンバスの繊維、テレピン油の残り香。人間の鼻には、ただ「アトリエの匂い」としか分類できなかった。
蛍光灯をつけ、白い光が部屋を均一に照らした。影がなかった。どこにも影がなかった。カラヴァッジョのアトリエは、光と闇の二つの世界でできていた。窓の穴から差し込む一本の光が世界を二分し、光の外側は闇だった。このアトリエには闇がなかった。蛍光灯が隅々まで照らし、影を殺していた。
キャンバスの前に立つ。
白いキャンバス。
新品の麻の匂い。
工場で地塗りされた均一な表面。
カラヴァッジョのカンヴァスは手作りだった。膠の匂いが強く、地塗りの厚さにむらがあり、麻の織り目が表面に浮いていた。この白い面は完璧すぎた。完璧すぎて、何も始められなかった。
筆を持った。右手が筆を握った。身体的には三日間のブランクでしかなかった。そのはずだった。筋肉は覚えていた。パレットに絵具を出した。チューブから出す絵具。金属のチューブを指で押すと、練られた絵具が均一な太さで出てくる。カラヴァッジョは石の上で乳棒を使って顔料を擂っていた。鉱物の粒が油と混ざり、匂いが変わっていく過程を、犬の鼻で嗅いでいた。チューブの絵具にはその過程がなかった。
《《描けなかった》》。
以前の技法では描けなかった。「光のテクスチャー」は美しいが嘘だった。何十層もの透明なレイヤーを重ねて光の粒子を可視化する技法。技術的には高度で、批評家に褒められ、コレクターに買われた。しかしそれは模型だった。ヘレン教授が言った通り、光の模型だった。本物の光は人を火傷させる。自分の光は火傷させない。犬の目で見たカラヴァッジョの光を知ってしまった今、自分の光が偽物に見えた。
何枚も描いては破った。描き始めて数分で手が止まった。白いキャンバスが自分を見返していた。コンタレッリ礼拝堂の前の三日間の沈黙を思い出した。カラヴァッジョも白いカンヴァスの前で止まった。しかしあの人は四日目に扉を開けた。扉が開き、光が差し込み、すべてが始まった。瞳にはまだ扉が見つからなかった。
画商の堤が訪ねてきた。
銀髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいいスーツを着た男が、アトリエの散らばったキャンバスの破片を見回した。
柔和な笑顔の裏に鋭いビジネスの目があった。
瞳はその目を知っていた。
オルシと同じ目だった。
才能を売り込む目。
しかしオルシと違って、堤は自分でも絵を描かなかった。
純粋な商人だった。
「事故後の新しい作風を楽しみにしている。カラヴァッジョの影響を受けた連作としてプロデュースしたい」
瞳は堤を見た。この男は悪人ではない。瞳の才能を最初に見出し、椿賞の受賞を仕掛け、銀座の白鳳堂の専属にした男だ。瞳のキャリアはこの男なしには成り立たなかった。オルシがカラヴァッジョの成功の裏方だったように、堤は瞳の成功の裏方だった。
「カラヴァッジョは商品じゃない」
言ってしまった。堤は一瞬、表情を固くした。
「私は三十年この仕事をしているが、画家と作品を世に出すことは商品化ではなく……」
「わかっている。でもあなたは《《オルシと同じだ》》」
堤は首を傾げた。
「オルシ?」
瞳は口をつぐんだ。
言ってはいけないことを言った。
この世界の誰にも通じない名前を口にした。
プロスペロ・オルシ。
カラヴァッジョの売り込み担当。
インクと紙の匂いがする男。四百年前のローマの画商。
堤が知るはずのない名前だった。
堤は怪訝な顔をしたが、それ以上は追及しなかった。画家の気まぐれには慣れた男だった。
「無理はしないでくれ。しかし、描けるようになったら連絡をしてほしい」
堤が帰った後、瞳はアトリエの床に座った。低い場所に。犬の目の高さに。この高さから見ると、アトリエの風景が変わった。テーブルの脚が柱のようにそびえ、椅子の下が洞窟のように暗かった。蛍光灯の光がここまで届かず、床に近い場所には影があった。
蛍光灯の下にも、影はあった。
低い場所にだけ。
《《犬だけが知っている場所に》》。




