第三十一章 再会
退院して一ヶ月後、瞳はすぐにローマに飛んだ。
成田からフィウミチーノまでの十三時間を、瞳は眠れずに過ごした。窓の外に雲が広がっていた。雲の上の光は均一で白く、カラヴァッジョの光とは何もかも違っていた。あの光は窓の穴から差し込む一本の道だった。今のこの光は世界中に均等に降り注ぐ、誰のものでもない光だった。
ローマの空港に着いたとき、空気の匂いを嗅いだ。人間の鼻では、ほとんど何もわからなかった。空港の消毒液と機械油とコーヒーの匂いが混じった、どの国の空港とも同じ匂い。犬の鼻なら、この空気の中にローマの石と泥と歴史の匂いを嗅ぎ取れたはずだ。
タクシーでボルゲーゼ美術館に向かった。車窓からローマの街が流れた。石造りの建物。路地。噴水。犬の目の高さではなく、人間の目の高さで見るローマは、記憶の中のローマとは別の街だった。建物が小さく見えた。路地が狭く見えた。犬の低い視点から見上げたローマは巨大で、威圧的で、匂いに満ちていた。人間の目で見るローマは、観光地だった。
ボルゲーゼ美術館の入口で立ち止まった。呼吸を整えた。心臓が速く打っていた。人間の体では、自分の心拍の音は聞こえなかった。これも犬の耳なら聞こえたはずだった。入場券を買い、階段を上がり、展示室を一つずつ通り過ぎた。壁にかかった絵を一枚ずつ見た。バロック絵画のコレクション。ベルニーニの彫刻。しかし瞳の足は一つの絵に向かって歩いていた。足が速くなった。目的の絵の前に、早く立ちたかった。同時に、立つのが怖かった。
『ダヴィデとゴリアテ』の前に着いた。
絵の中のゴリアテの顔が、瞳を見下ろしていた。半開きの目。額と頬の傷跡。唇の端から覗く歯。
人間の目で見る絵は、犬の目で見た絵とは違った。色があった。なにより赤があった。ゴリアテの首から流れる血の赤。ダヴィデの肌の温かい色。背景の暗部の中に潜む、暖かい茶と冷たい灰のグラデーション。犬の目には見えなかったすべての色が、今、人間の目に圧倒的な情報量で押し寄せてきた。
しかし同時に、失われたものもあった。犬の夜の目で見た暗部の微妙な明暗は、人間の目には見えなかった。蝋燭の光の中で見えたカンヴァスの凹凸の陰影は、美術館の均一な照明の下では消えていた。犬の目で見た絵と、人間の目で見る絵は、同じ絵であって同じ絵ではなかった。
瞳は知っていた。
あの傷跡の一つ一つがいつできたものかを。
この顔を描いたときの蝋燭の匂いを。
コルナッキアが足許で丸くなっていたことを。
署名の夜の、犬の頭に置かれた手の重さを。
その瞬間、瞳の内奥で、何かが音を立てて決壊した。
記憶の奔流が、濁流となって雪崩れ込んできた。
頭蓋の裏側が焼けつくような衝撃だった。三日間の昏睡から目覚めたとき、人間の脳という器がこぼし落とし、あるいは都合よく整理してしまっていたあの十五年のすべてが、途方もない質量と密度をもって瞳の全身を貫いた。
――これは。
これは、コルナッキアの記憶だ。
私が、あの黒い犬として地を這い、息をし、生きていた日々の、剥き出しの真実だ。
怒濤のような記憶の渦が、瞳の視界を、聴覚を、そして嗅覚を塗り潰していった。美術館の整然とした静けさが吹き飛ぶ。
雨上がりのローマの路地。大きな、骨太の手が子犬だった自分を抱き上げた瞬間の、皮膚を焼くようなリンシード油と古い革の匂い。「真っ黒だな、コルナッキア」と笑った、あの少年のように無防備な唇。
マダマ宮の冷徹な石床を這い、テーブルの脚の間から見上げた傲慢な男たちの靴底。フォークを放り出して肉を手づかみで食らうあの荒々しい生命力。
暗いアトリエの窓に張られた黒い布。そこに穿たれた指先ほどの穴から、部屋の空気を鋭利な刃物のように切り裂いて差し込む、一条の光。
あの光の道を見つけたとき、男の体から立ち上ったあの匂い――体温が冷たく沈み、呼吸が止まり、世界を狩り取る獣のように研ぎ澄まされた、あの集中の匂い。
絵が生まれる瞬間の、骨を軋ませるような打撃音が次々に蘇った。
イカサマ師の指先が嘘の形を描くのをテーブルの下から見上げた夜。
コンタレッリ礼拝堂の巨大な白を前に、恐怖で酸っぱくなった汗を流しながら三日間動けなかった男の背中。そして四日目、開け放たれた扉から射し込んだ斜光が、若者の鼻筋を切り裂いた刹那の鳥肌。
「光だけが届く。言葉じゃない、剣でもない。光だ」
蝋燭の揺らめきの中で、キリストの手を恐る恐る置くように描いたあの夜。絵具と埃と、犬の体温だけに満たされた密室の祈り。
去っていった人々の残響が、匂いとなって鼻腔を刺した。
シチリアの乾いた潮風をまとったミンニティの肌。
安い酒と石灰と、破滅へ誘う鋭い鉄の匂いを散らしていたロンギ。
神の如き冷徹さで政治を操ったデル・モンテの香料。
本物のナイフを握らされ、恐怖と怒りに震えながら「私の顔をそのまま描くな」と叫んだフィッリデの、花の香油の奥にあった過酷な生の匂い。
「お前の顔で祈れない奴は、そもそも祈る資格がない」
あの傲岸で、無惨なほどまっすぐだった画家の声。
そして何よりも――カラヴァッジョが対峙し続けた、「闇と光」の正体。
瞳はコルナッキアの目で、あの鼻で、そのすべてを骨の髄まで焼きつけていたのだ。
あの人は、光を崇拝していたのではなかった。光に救われようと狂い悶えていたのだ。
自らの内側に巣食う、人を斬り、暴力を撒き散らし、すべてをぶち壊さずにはいられない底知れぬ黒い闇。その漆黒の淵に呑まれないために、窓の穴をミリ単位で塞ぎ、世界を闇で閉ざし、そこへ唯一の裂け目として光を呼び寄せていた。闇が深ければ深いほど、落ちてくる一筋の光は暴力的なまでに人を火傷させる。恩寵とは、天から降り注ぐ甘やかな祝福などではなく、血塗られた泥水の中で喘ぐ人間を、闇の底から容赦なく暴き出す一条の稲妻なのだと。
ナポリの路地で、飢えた父に乳を含ませる女の肩に落ちた、偶然の光。
マルタの大聖堂、冷たい石の床に自ら首を差し出すように横たわり、自らの名前を聖人の流した血溜まりの中に沈めた夜の、闇に飲み込まれかけた絶望の光。
シチリアで、画面の上三分の二を塗りつぶした漆黒の闇――もはや光を支配することを諦め、ただそこに口を開けている巨大な暗黒をそのまま受け入れ、下端に転がる死者たちとともに息絶えようとしていた、あの剥き出しの到達。
すべてを覚えている。
なぜなら犬の低い視線から、その足許から、光が生まれ、闇が深まり、男の魂が擦り切れていく軌跡を、私はこの目で見届けたからだ。
人間としての理性や言葉など何一つ介さず、ただ一つの命として、彼が世界をどう切り取り、どう光を捕らえ、どう闇に敗れ去っていったかを、私は吸い込み、舐め、心拍として分かち合っていたのだ。
激しい目眩が収まったとき、美術館の展示室の白い空気が、再び瞳の周囲に戻ってきた。
目の前には、四百年の時を超えて運ばれてきた、あの一枚のカンヴァスがあった。
ゴリアテの目が変わらずに低い場所を見ていた。犬がいた場所を。展示台の高さと、犬が丸くなっていた床からの高さは、ほぼ一致していた。
周囲の観客が解説パネルを読んでいた。日本語の音声ガイドが聞こえた。「画家の自画像とされています」。英語で説明する声も聞こえた。誰もがこの絵の意味を知りたがっていた。なぜカラヴァッジョは自分をゴリアテとして描いたのか。恩赦嘆願のためか。罪の告白か。研究者たちが何十年も議論してきた問い。
瞳だけが知っていた。あの夜の匂いを。あの手の温もりを。あの犬の嘆きの声を。
自分だけが知っている。あの絵が描かれた夜の匂いを。テレピン油と蝋燭の蝋と、彼の汗の匂いを。しかし人間の鼻では、もうその匂いを正確に思い出すことができなかった。記憶はある。犬の鼻で嗅いだ記憶は脳の中に保存されている。しかしその記憶を人間の鼻で再生することができなかった。記憶の中の匂いは、再生ボタンのない録音のようだった。
瞳は絵に向かって小さく呟いた。
「私はここにいたわ」
声は自分にしか聞こえなかった。絵はもちろん答えなかった。ゴリアテの半開きの目が、変わらずに低い場所を見ていた。四百年間、誰もいないその場所を見続けていた。
瞳は美術館を出た。ローマの午後の光が目を打った。石造りの建物が日差しを受けて白く光っていた。マルタの光に似ていた。乾いた、真っ直ぐな光。
ふと、通りの向こうで犬が吠えた。黒い犬だった。飼い主に引かれて歩道を歩いていた。小さな犬ではなかった。中型の黒い巻き毛の犬だった。バルビーノではなかったが、毛の色と質感が似ていた。
瞳は足を止めた。犬が通り過ぎるのを見送った。犬は瞳を見なかった。飼い主の足許を歩き、角を曲がり、消えた。
胸の奥で何かが動いた。涙ではなかった。もっと深い場所で、何かが小さく鳴いた。犬の鳴き声のような、高く細い音が、体の中で鳴った。




