第三十章 おかえり
最初に感じたのは、匂いの喪失だった。
世界の匂いが九十九パーセント消えていた。空気の中にあるはずの無数の情報が消えていた。壁の匂い、床の匂い、自分の体の匂い、部屋の中にいる人間の匂い。すべてが薄く、遠く、ほとんど感じられなかった。
犬の鼻が、人間の鼻に戻っていた。
次に気づいたのは、視界の高さだった。高かった。天井が近かった。壁が小さく見えた。窓が目の高さにあった。十五年間すべてを見上げていた世界が、人間の目の高さに戻っていた。低い場所から見上げる世界は終わった。
手を見た。
人間の手があった。
五本の指が布団の上に乗っていた。爪がある。指紋がある。関節が曲がる。薬指と人差し指の間に、絵具の染みが残っていた。古い染み。何年も前からある、テレピン油でも完全には落ちない染み。
瞳は東京の病院のベッドの上にいた。
白い天井が見えた。蛍光灯の白い光。消毒液の匂いがした。しかしその匂いは薄かった。人間の鼻ではほとんど感じ取れないほど微かだった。犬の鼻ならこの液体の化学組成まで読み取れたはずだった。犬の鼻ならこの部屋のすべてを読み取れたはずだった。壁に染みついた患者の体臭も、窓の外を流れる東京の空気も、隣のベッドの人間の体温も。今はほとんど何もわからなかった。
世界が無臭に近かった。犬として生きた十五年間に知った匂いの豊穣が、すべて消えていた。
リンシード油の深い甘さも、カラヴァッジョの汗の中のアドレナリンの変化も、フィッリデの恐怖の匂いも、パリアーノの橄欖の風も、マルタの乾いた石灰岩も。すべてが記憶の中にしかなかった。鼻がそれを思い出そうとしても、人間の鼻はそこまで届かなかった。
事故から三日が経っていた。
看護師が穏やかな声でそう言った。トラックに接触し、意識不明のまま搬送されたと。頭部に軽い打撲、肋骨にひびが入っている、しかし命に別状はない。意識が戻らないまま三日間、眠り続けていたと。
三日間。
瞳の体は三日分しか老化していなかった。三十二歳のまま。手の関節は柔らかく、目は鮮明で、脚は痛まなかった。老犬の体の記憶がまだ残っていて、立ち上がろうとしたとき、無意識に関節を庇った。痛くなかった。痛くないことに驚いた。十五年間痛み続けた関節が、痛くなかった。
右手を握ったり開いたりした。指が五本動いた。筆が持てる手だった。しかしその手は十五年間、何も描いていなかった。身体的には三日間だが、記憶の中では十五年間、この手は筆に触れていなかった。持てるだろうか。
あの光を見た後で、もう一度この手で筆を持ち、何かを描けるだろうか。
耳も静かだった。犬の耳なら聞こえたはずの音が聞こえなかった。壁の向こうの会話も、廊下を歩く人の足音の細かなリズムも、自分の心拍の音さえも聞こえなかった。人間の耳は、犬の耳が拾っていた情報の大半を捨てていた。世界が静かになっていた。静かすぎた。
しかし一つだけ戻ったものがあった。
色だ。
色が見えた。はっきりと。病室のカーテンが目に入った。窓際に引かれたカーテンの差し色。その色が、瞳の視界を打った。
圧倒的な色だった。犬の目では見えなかった色。十五年間、灰色にしか見えなかった色。あの絵具の灰色。あの血の灰色。あのフィッリデの髪の中に隠れていた灰色。すべての灰色が、この色だったのだ。
赤だ。
病室のカーテンの差し色の赤が、涙が出るほどの衝撃で瞳を打った。
赤。赤。赤。カラヴァッジョの絵具の赤。トマゾーニの血の赤。聖ヨハネの首から流れる血の赤。ゴリアテの首の傷口の赤。犬の目には見えなかったすべての赤が、今、人間の目に戻った瞬間に、一度に戻ってきた。
涙が出た。カーテンの赤を見て涙が出た。なぜ泣いているのかわからなかった。カーテンを見て泣く人間がどこにいるだろう。しかし涙が止まらなかった。十五年間見られなかった色が、十五年分の重さで目を打った。
カラヴァッジョはこの色を見ていたのだ。犬の目には灰色にしか見えなかったあの色は、この色だったのだ。この鮮烈な、激しい、目を焼く色。パレットの端に少量出したあの絵具は、この色だったのだ。画面の中で発熱していたあの灰色は、実際にはこの燃えるような色だったのだ。
この色を知らないまま、十五年間あの人の絵を見ていた。この色が見える目で、あの人は世界を描いていた。この色で血を描き、この色で肌を温め、この色で夕暮れを焼いた。私が見ていた世界は、あの人の世界の半分でしかなかった。半分の世界でも美しかった。しかし完全ではなかった。この色があって初めて、あの人の世界は完成する。
病室の扉が開いた。
布袋道雄が入ってきた。父の匂いは人間の鼻でも嗅ぎ取れた。石鹸と木綿と、かすかに煙草の匂い。そして味噌汁の匂い。台所で朝食を作ってきた匂いが、服に染みついていた。この匂いだけは犬の十五年間も消えなかった。
アンカーの最後の一語。
「父さん」。
あの一語に紐づいていた匂いが、今、現実の空気の中にあった。匂いが体の中を通過し、十五年分の記憶に触れ、涙腺を直撃した。
父の顔が見えた。六十四歳の顔。白髪が増えていた。目元の皺が深くなっていた。三日間娘の枕許にいたのだろう、顎に無精髭が残っていた。しかし目は変わっていなかった。穏やかで、何も問わない目だった。娘の目が開いたことを確認し、ゆっくりと安堵の息を吐いた。それから一言だけ言った。
「おかえり」
それだけを言った。
瞳は泣いた。理由は言えなかった。何を話せばいいのかわからなかった。十五年間犬だったと言えるわけがなかった。カラヴァッジョの犬だったと言えるわけがなかった。あの人が死ぬのを見たと言えるわけがなかった。何も言えなかった。言葉が見つからなかった。日本語が戻っていた。十五年ぶりに日本語で自由に考えることができた。しかしこの体験を言葉にする日本語は存在しなかった。
父は理由を問わなかった。娘の手を握っていた。大きな手ではなかった。画家の手でもなかった。教師の手だった。カラヴァッジョの手とは違う手だった。しかし温かかった。生きている人間の手の温もりが、五本の指を通じて瞳の指に伝わってきた。犬の体温ではなく、人間の体温だった。
瞳は父の手を握りながら思った。
カラヴァッジョは六歳で父を失った。母もすぐに失った。帰る場所がなかった。だからこそ逃げるときに持っていけるカンヴァスを選び続けた。持ち運べるものだけを信じた。
筆。キャンバス。テレピン油。東京。父さん。
私には父がいる。帰る場所がある。
この温かい手がある。
あの人にはなかったものが、私にはある。
しかしあの人が持っていたものの多くを、私は失った。犬の耳は消えた。犬の鼻は消えた。犬の目の暗闇を見る力は消えた。十五年間の感覚の豊穣が、人間の体に戻った瞬間に、ほとんどすべて失われた。覚えている。記憶の中には残っている。しかしもう再現できない。犬の鼻で嗅いだリンシード油の深い匂いを、人間の鼻では辿れない。覚えているのに再現できない記憶。それが犬の十五年間の遺産だった。
涙が止まらなかった。赤いカーテンの色と、父の手の温もりと、十五年分の記憶が、人間の体の中で渦を巻いていた。犬は泣けなかった。十五年間、泣くことができなかった。今、人間の目が涙を流していた。十五年分の涙が、三日しか老いていない体から溢れていた。犬が流せなかった涙を、人間の目が代わりに流していた。




