第二十七章 その目が見ていたもの
カラヴァッジョが鏡の前に立った。
ナポリの宿の部屋に、小さな銀の鏡があった。磨かれた銀の表面に、彼の顔が映った。犬の目の高さからは鏡の中は見えなかったが、カラヴァッジョが自分の顔を見つめている様子は見えた。
顔が変わっていた。ローマで最初に会った男の顔ではなくなっていた。痩せこけ、目が落ち窪み、頬の肉が削げていた。額と頬にナポリでの襲撃の傷跡が、まだ新しく刻まれていた。古い傷の上に新しい傷が重なり、顔の表面に時間の地図ができていた。髭が伸び放題で、巻き毛は脂っぽく乱れていた。
十五年前。
路地で子犬を拾い上げた男の顔を、犬の記憶と重ねることが難しくなっていた。あの頃は浅黒い肌が健康に光り、唇が厚く、笑うと少年のような顔になった。あの男と、今この鏡の中にいる男は、同じ人間だろうか。匂いは同じだ。リンシード油と鉄と汗の匂いは、十五年間変わっていない。匂いだけが、この人が同じ人間であることを証明していた。
カラヴァッジョは長い間鏡を見つめていた。何を見ているのか、犬にはわからなかった。しかし匂いでわかることがあった。集中の匂いが立ち上っていた。体温が下がり、呼吸が浅くなっていた。制作モードの匂い。この人は自分の顔を、描くべき対象として見ている。モデルとして見ている。フィッリデの顔を見つめたときと同じ目で、自分の顔を見ている。
彼が鏡の前で顔を左右に動かした。光の当たり方を確認していた。鏡の中の自分をモデルとして配置している。窓からの光を受ける角度を探している。蝋燭を鏡の横に移した。光が鏡の表面で跳ね、壁に光の四角が映った。鏡の中の顔の右半分が照らされ、左半分が影に落ちた。いつもの分割。しかし今回の分割の対象は、他人ではなく自分だった。
テーブルの上にカンヴァスが一枚あった。ボルゲーゼ枢機卿に送る絵。教皇の甥への恩赦嘆願のための絵。
『ダヴィデとゴリアテ』。
若いダヴィデが巨人ゴリアテの首を持つ場面。
しかしこの絵では、ゴリアテの首は画家自身の顔だった。
カラヴァッジョは鏡から目を離し、カンヴァスに向かった。
パレットの上に絵具を並べた。鉛白の粉っぽい匂い。黄土の土の匂い。黒い絵具の炭の匂い。そしてあの灰色。犬の目には灰色にしか見えない、しかし画面の中で何かを支配する色。ローマに来た最初の年から、犬の目は繰り返しこの灰色を見てきた。パレットの上の灰色の絵具が、カンヴァスの上に置かれた瞬間に変容する。周囲の色との関係の中で、発熱し、脈打ち、生きた色になる。犬の目にはそれが見えない。しかしその色が画面に何をしているかは、十五年の観察で知っていた。
あの色が、今夜はゴリアテの首から流れる血の色になるはずだった。犬の目には見えない色で、この人は自分の血を描く。自分の首を切り落とし、自分の血を流す。カンヴァスという安全な場所の上で。絵具という安全な血で。
彼は筆を取り、蝋燭の光の中で、自分の顔を描き始めた。鏡を見ながら。傷跡のある顔を、疲弊した顔を、落ち窪んだ目の顔を。そのまま描いた。修正しなかった。綺麗にしなかった。フィッリデに「もっと綺麗にしろ」と言われたときの答えを、今は自分自身に対して実行していた。お前の顔はこれが一番正しい。
筆致は荒かった。シチリアからさらに荒く、粗くなっていた。しかし速かった。迷いがなかった。自分の顔は毎日見ている。モデルを呼ぶ必要がなかった。鏡が光を受けて揺れるたびに、自分の顔の角度がわずかに変わった。カラヴァッジョはその変化を追わなかった。一つの角度を記憶に灼きつけ、記憶だけで描いた。いつものように。見たものを記憶から再構成する。
ゴリアテの顔が画面に現れていった。犬の目の高さからはカンヴァスの下部しか見えなかった。首から下の暗い空間が見えた。暗闇の中に、切り落とされた首が浮かんでいた。
カラヴァッジョは何度も鏡に目をやり、何度もカンヴァスに戻った。鏡と画面の間を視線が往復した。しかしその往復は、時間が経つにつれて減っていった。記憶に灼きつけたのだ。自分の顔を。もう鏡を見なくても描けるようになっていた。自分の顔の形を、傷跡の位置を、目の落ち窪んだ深さを、記憶だけで再現できるようになっていた。
それは恐ろしいことだった、と瞳は思った。自分の死に顔を記憶だけで描ける男。自分の顔をそこまで客観的に見ることができる男。
主観と客観の間に壁がない男。
自分が対象になれる男。
コルナッキアはカラヴァッジョの足許に座り、筆の音を聞いていた。蝋燭の揺れる光の中で、叩きつけるリズムではなく、置くリズムで筆が動いていた。速くはなかった。一筆ごとに間を置いた。鏡の中の自分と、カンヴァスの上の自分を、交互に確かめるような間だった。自分の顔を描くときの筆は、他人の顔を描くときよりも静かだった。
深夜。カラヴァッジョが筆を止めた。カンヴァスから数歩下がり、蝋燭を持ち上げて画面全体を照らした。
コルナッキアは体を起こし、カンヴァスに近づき、老いた目で見上げた。
ゴリアテの顔があった。半開きの目。唇の端から覗く歯。額と頬に走る傷跡。犬の目には色の微妙な差がわからなかったが、形はわかった。あの顔だった。鏡の中の顔がカンヴァスの上に移されていた。
そしてダヴィデの顔があった。若い男の顔。勝利の歓喜がない顔。疲れた顔。剣を下げた腕が重力に従って垂れている。ゴリアテの首の髪を掴んでいるが、その手に力がない。嫌悪も恐怖もない。ただ疲れている。殺すことに疲れている。
この若いダヴィデは、カラヴァッジョ自身の若い頃の顔だろうか。それとも別の誰かだろうか。犬にはわからなかった。しかしゴリアテの老いた顔と、ダヴィデの若い顔が、一枚の画面の中で向かい合っていた。自分が自分を殺している絵だった。老いた自分を若い自分が征服する絵だった。
ダヴィデの手に握られた剣に、カラヴァッジョが何かを描き入れた。小さな文字だった。犬の目には読めなかった。
「俺は自分の首を差し出すんだ」
カラヴァッジョがコルナッキアに向かって言った。声は低かった。穏やかだった。恐怖の匂いがなかった。覚悟の匂いだった。覚悟は恐怖に似ていたが、方向が違った。恐怖は逃げる方向に向かう。覚悟は向かっていく方向に向かう。
「この絵を見た教皇が、本物の首を求めないことを祈る」
コルナッキアはクゥンと鳴いた。喉の奥から、犬としての声が漏れた。泣けなかった。犬は泣けない。涙腺はあるが、人間のように感情で涙を流すことはできない。しかし鳴くことはできた。高く、短く、細い声が喉を通って出た。自分で制御して出した声ではなかった。体が勝手に出した声だった。この人が自分の首を差し出そうとしていることへの、犬の体の反応だった。
カラヴァッジョは不思議そうにコルナッキアを見つめた。犬がこういう声を出すのを聞いたことがなかったのだろう。普段のコルナッキアは吠えるか、唸るか、鼻を鳴らすか、尻尾を振るかだった。この声は違った。嘆きの声だった。犬の体が持つ、最も人間に近い音だった。
カラヴァッジョは何も言わなかった。何も訊かなかった。ただ筆を置き、しゃがみ込んで、コルナッキアの頭を撫でた。
いつもの大きな手。しかしその手は痩せていた。指の関節が浮き上がり、手の甲の血管が見えていた。かつてパンをちぎって半分を差し出した手。フィッリデにナイフを持たせた手。トマゾーニの血を洗い流した手。マルタの大聖堂で血の中に署名した手。その同じ手が、今、老いた犬の頭をゆっくりと撫でていた。指先が巻き毛に引っかかり、白くなった毛をかき分けた。
ダヴィデの剣に刻まれた文字。犬の目には読めなかったが、瞳は知っていた。
「H-AS OS」
「Humilitas occidit superbiam」
「謙遜は高慢を征服する」
美術史の教科書が何度も引用してきた銘文。
しかし教科書は知らなかった。この男が本当に謙遜していることを。計算ではなく、本気で自分の首を差し出す覚悟で、この文字を刻んだことを。これは修辞ではなかった。犬だけが、その本気の匂いを嗅いでいた。覚悟の匂い。体温が平常なのに、心拍だけが微かに速い。差し出す準備ができた人間の匂い。
蝋燭の光が揺れた。ゴリアテの半開きの目が、蝋燭の焔の動きに合わせて、微かに瞬いたように見えた。あの目は、犬を見ていた。カンヴァスの上から犬の目の高さに向かって、半開きの目が見下ろしていた。
瞳はその目を見上げた。
まだ人間だったころの記憶が、犬の体の底から浮かんだ。上野の美術館。ボルゲーゼ美術館所蔵の絵の前に立った自分。あの絵を見て、理由もわからずに泣きそうになった自分。ゴリアテの半開きの目が、誰かを見ていると思った。もっと近くにいる誰かを。もっと低い場所にいる誰かを。
今、わかった。
あの目が見ていたのは、犬だった。
カラヴァッジョがゴリアテの自画像を描いたとき、足許にはコルナッキアがいた。画家が自分の死に顔を描いているとき、犬がその足許で丸くなっていた。ゴリアテの半開きの目が見下ろす先に、犬がいた。犬の目の高さに向かって、死にゆく巨人の目が見下ろしていた。
四百年後の東京の美術館で、瞳はその目を見上げた。犬の目の高さから。まだ犬になる前の、人間の目の高さから。しかしあの日の瞳の体は、脳よりも先に知っていたのだ。あの目が自分を見ていることを。あの目の前にいたのは自分だということを。涙が出そうになった理由が、今、犬の体の底からわかった。体が先に知っていた。体がすべてを覚えていた。
ゴリアテの前で感じた説明できない感情。テレピン油の匂い。すべてが繋がった。あの絵が自分を呼んだのだ。四百年前の夜に、犬の足許で描かれたあの絵が、四百年後の美術館で、描かれた夜を知る犬を呼び戻したのだ。
円環が閉じかけていた。始まりと終わりが触れ合おうとしていた。しかし犬の体の中の瞳には、その円環の全体像は見えなかった。見えていたのは、この物語がどう終わるかだけだった。
コルナッキアはカンヴァスの前で丸くなった。ゴリアテの目の下で。主人の足許で。蝋燭の光が落ちる場所で。
カラヴァッジョは筆を洗い、絵具を片づけ、蝋燭を消そうとして、手を止めた。もう一度カンヴァスを見た。蝋燭の光の中で、ゴリアテの半開きの目がこちらを見ていた。自分の目が自分を見ていた。しかしその半開きの目が見ているのは、描いた自分自身ではなかった。もっと低い場所を見ていた。犬が丸くなっている場所を。
カラヴァッジョは蝋燭を吹き消した。暗闇が来た。犬の夜の目が、最後にカンヴァスの白い表面をかすかに捉えた。ゴリアテの半開きの目は、暗闇の中でもなお、犬が丸くなっている場所を見ていた。




