第二十五章 闇の到達
シチリアでの制作は、暗かった。
どこまでも暗かった。
カラヴァッジョはシラクサの教会から『聖ルチアの埋葬』の注文を受けた。巨大なカンヴァスがアトリエの壁に立てかけられた。カラヴァッジョはその前に立ち、しばらく見つめ、すぐに筆を取った。白いカンヴァスの前での沈黙は、もうなかった。描き始めるまでの沈黙の時間が、年を追うごとに短くなっていった。迷わなくなったのではない。迷う余裕がなくなったのだ。
描き始めたカンヴァスを、コルナッキアはアトリエの隅から見ていた。犬の老いた目でも、画面の異常さはわかった。
画面の大半が暗闇だった。
コンタレッリ礼拝堂の頃は、画面の半分が光で半分が闇だった。ナポリの『慈悲の七つの行い』では、闇が優勢になったが、それでも人物たちは光の中にいた。
この絵では違った。巨大なカンヴァスの上三分の二が、ほぼ何も描かれない漆黒の空間だった。人物たちは画面の下端に小さく、打ち捨てられたように描かれていた。聖ルチアの体が地面に横たわり、二人の墓掘り人夫がその上に覆いかぶさっていた。悲嘆にくれる群衆が背後にいたが、彼らも闇に飲み込まれかけていた。
光はあった。しかし光そのものが変わっていた。ローマの光は劇的だった。光が主役で、闇が背景だった。この絵では逆転していた。闇が主役で、光は闇の中のわずかな裂け目にすぎなかった。人物たちの顔に当たる光は弱く、薄く、消えかけていた。
瞳は画家としての最後の力を振り絞って、この変化を見ようとした。犬の体の中で、画家の目がほとんど消えかけていた。しかしこの絵の前では、何かが残っていた。この絵が持つ力が、犬の体の中に沈んだ画家の目を一瞬だけ浮上させた。
衰退ではない。
到達だ。
この言葉が浮かんだ。犬の思考ではなく、画家の思考だった。すべての虚飾が剥がれ落ちた先にしかない表現。ローマ時代のカラヴァッジョは光を支配していた。光の道を引き、モデルの顔を照らし、劇的な瞬間を演出していた。技術があった。力があった。余裕があった。今の彼には、そのどれもなかった。技術は荒れ、力は衰え、余裕は消えた。残ったのは、見えたものをそのまま置く力だけだった。そしてその「見えたもの」が、闇だった。
筆致は荒かった。以前なら何日もかけて仕上げた肌の質感を、数筆で処理していた。髪の毛の一本一本を描き分けていたローマ時代の筆が、ここでは太い筆で一気に塗りつぶしていた。しかしその粗さの中に、ローマにはなかった正直さがあった。
飾らない筆。
飾る余裕のない筆。
いや、飾ることをもう必要としない筆。
コルナッキアは画面の下端を見上げていた。犬の目の高さからは、聖ルチアの横たわった体がほぼ正面に見えた。犬の目の高さが、死者の目の高さと同じだった。
制作中、カラヴァッジョは以前とは違う時間の使い方をしていた。ローマでは光を待った。太陽が正しい角度に来るのを待ち、その数時間に集中して描いた。シチリアでは待たなかった。朝から夜まで描き続けた。光がなくなれば蝋燭で描いた。蝋燭がなくなれば闇の中で、乾いた筆先でカンヴァスの表面に触れ、指先の感触だけで画面の凹凸を確かめた。
コルナッキアはその姿を見ながら、自分の体の変化にも気づいていた。昼間の眠気が増した。以前なら日中ずっと起きていられたが、今は午前中に一度、午後に二度は眠った。目覚めるたびに体が重くなっていた。四肢の先が冷たくなりやすくなった。食欲が落ちた。ミンニティが置いてくれるパンを半分しか食べなくなった。
犬の老いは人間の老いより速く進む。瞳はそのことを知識としては知っていた。しかし自分の体で老いを経験するのは初めてだった。人間の三十二歳の意識が、老犬の体の中で衰えを感じている。若い意識が古い体を見守っている。しかしその若い意識もまた、犬の体の中で薄れつつあった。
ある夜、カラヴァッジョが悪夢で叫んだ。
パリアーノの夜と同じだった。しかしもっと激しかった。体が跳ね上がり、寝台から転がり落ちた。床に叩きつけられた音がして、コルナッキアは飛び起きた。
カラヴァッジョは床の上で四つん這いになっていた。目が見開かれていた。暗闇の中で、犬の夜の目が彼の顔を捉えた。恐怖の顔だった。夢の中でまだ追われている顔だった。
「誰かが来る、誰かが来る」
声が繰り返した。同じ言葉を繰り返した。誰かが来る。マルタ騎士団の追手のことだろうか。あるいはもっと漠然とした恐怖だろうか。殺した人間の影が追ってきているのか。トマゾーニの甘ったるい匂いが、夢の中でこの男を追いかけているのだろうか。死んだ血の甘みが、夜ごとこの男の鼻に戻ってくるのだろうか。
コルナッキアはカラヴァッジョの傍に寄った。体を押し当てた。犬の体温が男の腕に触れた。ここにいる。誰も来ていない。来ているのは犬だけだ。カラヴァッジョはコルナッキアを掴み、抱きしめた。パリアーノの夜と同じように。肋骨が軋むほど強く。しかし腕の力は以前より弱くなっていた。腕が痩せていた。牢の中で筋肉が落ちた腕だった。
しかし今回は違うことがあった。カラヴァッジョの体の匂いが、パリアーノの夜とは変わっていた。あの夜の恐怖は新しかった。殺人直後の、鮮烈な恐怖だった。今夜の恐怖は古かった。何ヶ月も、何年も煮詰められた恐怖だった。恐怖が日常になった人間の匂いだった。慢性の恐怖。体が恐怖に適応し、恐怖を含んだまま動き続ける。しかし夜、眠りの中で適応が外れ、恐怖が生のまま噴き出す。
かつての傲岸な態度が完全に剥ぎ取られていた。フォークの使い方がわからなくても堂々としていた男、枢機卿の晩餐会で手づかみで肉を食べた男、路上で剣を抜いた男。その男の皮が、すべて剥がれ落ちていた。残っているのは夜中に震える体と、犬を抱きしめる腕だけだった。
コルナッキアは主人の腕の中で、心拍を聞いていた。速い拍動。不規則な拍動。しかし少しずつ落ち着いていった。犬の体温が男の体温に混じり、二つの体温が一つになるにつれて、心拍が安定していった。
アンカーを並べようとした。
筆。
もう出なかった。
代わりに「pennello」が浮かんだ。イタリア語の方が先に来た。キャンバス。出なかった。「tela」が浮かんだ。テレピン油。出なかった。「trementina」が浮かんだ。日本語が消え、イタリア語だけが残っていた。東京。出なかった。「Tokyo」という音が浮かんだが、それが何を指しているのか、一瞬、体が知らなかった。街の名前だとは知っていた。しかしその街の形も匂いも、体の中から消えていた。
父さん。
一語だけが出た。最後の一語。日本語の、日本語としか言えない一語。他の四つは消えていた。消えたのか、消えかけているのか、区別がつかなかった。もしかしたら明日には戻るかもしれなかった。しかし今夜は出なかった。
父さん。
その一語を握りしめるように、犬の体の中で繰り返した。この一語が消えたとき、布袋瞳は完全に消える。この一語だけが、人間としての最後の杭だった。
カラヴァッジョの腕の中で、犬は目を閉じた。主人の心拍が耳に届いていた。不規則な拍動が、少しずつ、少しずつ、深い呼吸に変わっていった。悪夢が去り、犬の体温が染み込んだ後の眠り。
シチリアの夜は深かった。窓の外から海の匂いが入ってきた。塩と潮風。この島は海に囲まれていた。どこにも逃げ場がなかった。海が島を閉じ込めていた。しかしこの男にとっては、海は逃げ場でもあった。船に乗りさえすれば、また別の場所に行ける。カンヴァスを丸めて持っていける。犬を片腕に抱えていける。
この人はまだ逃げる。
まだ描く。
まだ壊す。
まだ掴む。
最後の一筆まで。
瞳はそのことだけを知っていた。この人がどこまで行くのかを。ローマからナポリへ。ナポリからマルタへ。マルタからシチリアへ。そしてシチリアからまたナポリへ。そして最後に、ポルト・エルコレの港で。その地名を、瞳はまだ覚えていた。犬の体が消しかけている記憶の中で、その地名だけは残っていた。
この人の死ぬ場所の名前。
しかし今夜はそのことを考えなかった。考える力が残っていなかった。今夜はこの腕の中にいた。主人の心拍を聞きながら、犬の体が眠りに引きずり込まれていくのに抗わなかった。抗う力が、もう犬の体にも、瞳の意識にも、残っていなかった。
眠る直前に、一つだけ思った。
この闇の中で描かれた聖ルチアの絵は、美しかった。
暗くて、荒くて、消えかけていて、それでもなお美しかった。
すべてを失った人間が、それでもまだ筆を手放さずにいることの、壊れかけた美しさだった。




