第二十三章 告白
何日が経ったのかわからなかった。犬の体には日数を数える機能がなかった。
地下牢の前で待ち続けた。修道士たちが追い払おうとするたびに唸り声を上げ、追い払われると別の入口から地下に降りた。すっかり地下牢の匂いを覚えてしまった。湿った石と鉄錆と、閉じ込められた人間の汗の匂い。その匂いの中にカラヴァッジョの匂いがあった。日に日に弱くなっていった。食事が十分に与えられていないのだろう。体臭の中から脂肪の匂いが消えていた。痩せて骨が浮いている匂いだった。
コルナッキアの体も弱っていた。食事を摂る量が減っていた。修道士が置いてくれるパンと水を少しだけ口にするが、以前のような食欲が湧かなかった。犬の体が主人の不在を拒否していた。食べることよりも、主人の匂いの傍にいることを選んでいた。
ある夜、異変が起きた。
地下の匂いが動いた。カラヴァッジョの匂いが、鉄格子の向こうから移動した。上に。壁の中に。石壁の隙間から、ロープの麻の匂いと、外の夜風の匂いが流れ込んできた。
コルナッキアは鉄格子の前から立ち上がった。匂いを追った。地下から階段を上がり、廊下を走り、建物の外に出た。夜の空気が顔に当たった。マルタの夜風は乾いていた。星が出ていた。
建物の壁面に沿って走った。壁の途中に、上から垂れ下がるロープがあった。ロープの端が地面に触れていた。ロープの匂いを嗅いだ。カラヴァッジョの匂いが染みついていた。手で握った匂い。体重をかけた匂い。このロープを使って壁を降りたのだ。地下牢から壁を登り、そのまま外に出たのだ。
ロープの匂いの先を追った。石畳の上に、カラヴァッジョの足跡の匂いが点々と続いていた。裸足だった。牢で靴を取り上げられていたのだろう。裸足の匂いが石畳に残っていた。匂いは港の方に向かっていた。
コルナッキアは港の匂いに向かって走った。老いた脚が石畳の上を走った。関節が軋み、肉球が石に擦れて痛んだ。しかし走った。主人の匂いを追った。
港の匂いが近づいてきた。塩と魚と潮風。港に小さな船が一艘泊まっていた。帆の布と木のタールの匂い。船の上に人影があった。カラヴァッジョの匂いがそこにあった。
コルナッキアは港の石段を駆け降りた。船に飛び乗ろうとした。脚が届かなかった。老いた後脚の筋力では、石段から船への距離を跳べなかった。前脚が船縁にかかり、後脚が宙に泳いだ。
手が伸びてきた。カラヴァッジョの手が犬の体を掴み、引き上げた。船の甲板に引き上げられた。大きな手だった。しかしその手は以前より細くなっていた。指の筋が浮いていた。牢の中で痩せた手だった。
カラヴァッジョはコルナッキアを腕に抱えた。子犬の頃のように。しかし犬の体は子犬の頃よりずっと重く、男の腕は子犬の頃よりずっと細かった。それでもカラヴァッジョは犬を抱えて手放さなかった。マルタの地下牢を脱獄して、最初にしたことが犬を船に引き上げることだった。絵も持っていなかった。剣も持っていなかった。牢の中で何も持たされなかったのだから当然だった。
男の胸の骨が、犬のあばらに直接当たっていた。
かつて厚い筋肉と傲岸な熱に満ちていた胸板は削げ落ち、皮膚一枚の下で心臓が早鐘のように打っていた。逃亡の恐怖の拍動ではない。極限まで酷使された肉体が、ただ生き延びるためだけに刻んでいる、軋むような心拍だった。
それでも、カラヴァッジョの手は動いた。
濡れた甲板に膝をついたまま、彼は震える右手を持ち上げ、コルナッキアの頭に置いた。
痩せさらばえ、節くれだった大きな掌。指の腹は牢の湿気と石粉でひび割れていたが、巻き毛に触れた瞬間、そこに宿った力は信じられないほど柔らかかった。慈しむように、壊れ物を確かめるように、頭頂から耳の付け根へ、白髪の混じり始めた背中へと、ゆっくりと撫で下ろした。
一度。二度。三度。
かつてソーセージ一切れで芸を仕込んだときの苛烈さも、人を斬った直後の強張りもそこにはなかった。ただ無心に、愛おしそうに、手の中で生きている命の輪郭を指先でなぞっていた。
「……よく追ってきたな、コルナッキア」
掠れた声が、潮風に千切れそうになりながら落ちてきた。
カラヴァッジョは犬の額に自分の額を押し当てた。男の脂汗と、地下牢の鉄錆と黴の匂いが、犬の鋭敏な鼻腔を直撃した。しかしその底に、微かに、決して消えることのなかったリンシード油の匂いがあった。
「あの高い壁の上からロープを垂らしたとき、考えたのはお前のことだけだった。絵具も、金も、聖ヨハネの騎士の栄誉も、全部あの穴ぐらに捨ててきた。だが……お前を置いていくことだけはできなかった」
男の呼気が、コルナッキアの濡れた鼻先を温めた。
「思えば、最初からそうだった。ローマの路地で拾ったときから、お前はずっと俺の足許にいたな。マダマ宮の豪勢な食卓の下にも、コンタレッリの暗がりにも、血に塗れたあの夜の逃亡の道にも……お前だけは、いつもそこにいた」
カラヴァッジョの唇が、自嘲するように微かに歪んだ。しかしその瞳は、暗い海面を見つめながら、どこか遠い過去の光を反射していた。
「誰もが俺から何かを欲しがった。デル・モンテは絵画を求め、教会は信仰の奇跡を求め、パトロンどもは俺の才能を自らの権勢の飾りにしようとした。ロンギのような連中は俺の剣の腕と狂気を面白がり、若いモデルどもは銀貨のために肌を晒した。……誰も彼もが、俺という人間ではなく、俺が産み落とす絵と、俺が撒き散らす騒濁に群がっていただけだ」
撫でる手が止まり、ぎゅっと、犬の首筋の毛を握りしめた。痛くはなかった。ただ、男の魂の叫びがその指先を通じて骨に染み透るようだった。
「だが、お前だけは違った」
カラヴァッジョは顔を上げ、コルナッキアの黒い瞳を真正面から見つめ返した。夜間視力を宿した犬の目に、男の剥き出しの心が映っていた。
「お前は俺に一枚の絵も求めなかった。名声も、金も、騎士の称号も、何一つ求めなかった。ただ俺がパンを分ければ食い、道に迷えば先を歩き、俺が夜中に悪夢に魘されれば、その温かい体を黙って押し当ててくれた。……俺という男のすべてを知り、俺が人を殺した手で触れても、お前は最後まで逃げなかった」
男の喉が詰まり、低く震えた。
「俺が心を赦せたのは……この世で、お前だけだったよ」
その言葉が耳朶を打った瞬間、コルナッキアの――布袋瞳の全身を、かつて経験したことのない巨大な震えが貫いた。
犬の毛の下で、皮膚が粟立ち、心臓が跳ね上がった。
言葉が、ただの音声ではなく、魂の質量を持って心を直撃していた。
画家としてではない。現代から来た異邦人としてでもない。十五年間、言葉を奪われ、地を這い、この男の暴力と熱情と光のすべてを間近で見届けてきた「コルナッキア」という一つの生が、主人の魂の底からの全肯定を受けていた。
心を赦せたのは、お前だけだった。
世界中を敵に回し、自らの手で築いた栄光をことごとく破壊し尽くしてきた孤独な巨人が、波に揺れる小舟の上で、一匹の犬にその全存在を預けている。
涙は出なかった。犬の肉体は感情の涙を流せない。しかし、その代わりに全身の筋肉が熱く脈打ち、喉の奥から切ないほどの吐息が漏れた。胸の奥で何かが決壊し、温かい奔流となって四肢を満たしていった。
カラヴァッジョは再び視線を海へと向けた。
遠ざかるマルタの島影は、いまや星明かりの下で黒い帯となって沈みかけていた。
「俺はまた逃げる。どこへ行っても同じだ。ローマへ行こうが、ナポリへ行こうが、マルタへ逃げようが、俺はいつも自分自身の影から逃げ回っている。絵筆を握っているときだけが、唯一の救いだった。神の恩寵だの慈悲だのを描いてみせながら、本当は誰よりも救われたいと喚いていたのは俺自身だったんだ」
乾いた笑いが男の胸を揺らした。
「騎士の外套なんぞ羽織って、まともな人間の仲間入りができたと錯覚した。だが、血の匂いは消えちゃくれなかった。俺はまた人を斬り、牢に叩き込まれ、すべてを失った。……だがな、コルナッキア」
カラヴァッジョは腕の力を込め、犬の体をもう一度、自分の胸元へと強く引き寄せた。
「お前を連れて出られた。それだけで、俺の人生はまだ無一文じゃない。お前がいれば、俺はまだ描ける。シチリアへ渡り、もう一度絵具を擂る。どんなに暗い絵になろうと、光が尽きるまでは筆を折らん。……だから、見届けてくれ。俺がどこまで堕ちて、どこで野垂れ死ぬか、お前のその目で最後まで見ていてくれ」
それは懇願であり、祈りであり、男がこの生涯で結んだ唯一の、偽りのない誓約だった。
コルナッキアは、老いた前脚を伸ばした。
爪を甲板に立て、軋む関節をものともせず、男の痩せた膝の上に前足を乗せ、自らの顎をカラヴァッジョの首筋へと深々と埋めた。
耳を寄せると、男の頸動脈の波打つ音が直接頭蓋に響いた。
言葉はいらなかった。人間の言語など、この圧倒的な交歓の前には無力だった。
ここにいる。私はここにいる。
お前がどこへ逃げようと、どんな闇に呑まれようと、世界中がお前を呪い、断罪しようとも、私はお前の足許を離れない。お前が最後に筆を落とすその瞬間まで、お前がその魂を光に明け渡すその刻まで、私はこの温もりを手放さない。
犬の体温が、男の冷え切った鎖骨を温めた。
カラヴァッジョの手が、包み込むようにコルナッキアの背を抱いた。
闇に閉ざされた地中海のただ中で、波が船腹を叩く音だけが響いていた。二つの孤独な魂が、一つの体温となって溶け合い、夜の海を滑るように進んでいった。
船が動き出した。帆に風が入り、マルタの港が遠ざかっていった。月が海面を照らしていた。波が船底を叩く音。帆が風を受けて張る音。ロープが軋む音。船は小さく、揺れた。しかし今回はコルナッキアの体はあまり揺れに苦しまなかった。カラヴァッジョの腕の中にいたからかもしれなかったし、老いた体が揺れに慣れたのかもしれなかった。あるいは、もう揺れを気にする余裕もないほど、体が疲れていたのかもしれなかった。
カラヴァッジョの腕の中で、コルナッキアは目を閉じた。
夜の海。
小さな船。
塩の匂い。
カラヴァッジョの腕の匂い。
リンシード油はもう薄かった。牢の中では絵具に触れていなかったのだろう。代わりに鉄錆と汗の匂いが濃かった。しかしその下に、微かに、あの匂いがまだ残っていた。画家の匂い。絵具を擂った指の、洗っても取れない匂い。何年もかけて爪の間と皮膚の皺に染み込んだ匂い。牢の中にいても消えなかった匂い。
瞳は犬の体の中で、一つの思考に気づいた。恐怖ではなかった。安堵だった。しかし安堵の種類が、以前とは違っていた。
もう人間に戻れないかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
以前なら、その思考は恐怖を伴っていた。犬化の恐怖。自分が消えていく恐怖。しかし今夜、その思考には恐怖がなかった。代わりに、奇妙な静けさがあった。
もう人間に戻れないかもしれない。
でも、この腕の中にいられるなら、それでもいいかもしれない。
瞳はその思考に愕然とした。これが犬化の最も深い段階だとわかっていた。犬としての忠誠と、人間としての愛着が、完全に融合している。どちらがどちらかわからない。犬としてこの人の傍にいたいのか、人間としてこの人の最期を見届けたいのか。その区別が消えている。区別が消えていることに気づいているのは、まだ人間の瞳が残っているからだった。しかしその瞳も、犬の体の中で溶けかけていた。
もし今この瞬間に人間に戻れると言われたら、戻るだろうか。東京のアトリエに帰り、蛍光灯の下で筆を持ち、白いカンヴァスに向かう。ヘレン教授の言葉を思い出し、「光のテクスチャー」の先にある何かを探す。父に会い、味噌汁を飲む。人間の生活に戻る。戻りたいだろうか。
わからなかった。わからないこと自体が、答えだった。迷っている。人間に戻ることに迷っている。犬の体に留まることを、選択肢として考えている。それはもう人間の思考ではなかった。
この人を置いて帰りたくない。
帰る場所がある。
東京に。
父がいる。
アトリエがある。
筆がある。
しかしこの腕の中の温もりを手放すことが、今の瞳にはできなかった。帰る方法もわからなかった。帰還の条件を知らなかった。
ただ、この人の傍にいることだけが確かだった。
船が波を切る音が聞こえた。マルタの灯りが小さくなり、やがて消えた。前方にはシチリアの見知らぬ海岸線があるはずだった。暗い海のその先から、新しい土地の匂いがかすかに届いた。
カラヴァッジョの腕がコルナッキアを抱えたまま、甲板の上で横になった。船の揺れに体を任せた。犬を抱えたまま、目を閉じた。心拍が落ち着いていた。牢の中の恐怖の匂いが薄れ、海風が体の匂いを洗っていた。
瞳は思った。
この人は何度でもやり直すチャンスを掴む。
そして何度でも自分で壊す。
ローマで成功を掴み、暴力で壊した。
マルタで騎士の称号を掴み、暴力で壊した。
それは呪いではなかった。選択だった。
この人は壊すことを選んでいる。なぜ選ぶのかはわからない。しかし選んでいる。自分の中にある何かが、安定を許さない。完成を許さない。出来上がったものを壊さずにはいられない。
それは画家としての性質でもあった。完成した絵の上に、まだ絵具が乾かないうちに修正を入れる。出来上がりを信じない。出来上がったものの中に嘘を見つけてしまう。この人にとって「完成」は嘘だった。人生も同じだった。安定した人生は嘘だった。嘘を壊さずにはいられなかった。
犬の体が温かかった。カラヴァッジョの体温が犬の体を通じて甲板に伝わっていた。二つの体が一つの温もりを作っていた。夜の海の冷たさの中で、小さな船の上の二つの体だけが温かかった。




