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【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


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第二十二章 崩壊

 騎士叙任の日、カラヴァッジョは白い十字の刺繍された黒い外套を纏った。


 新しい布の匂いがした。洗い立ての麻と、染料の匂い。彼の体からリンシード油と鉄の匂いが消え、代わりに修道士の衣服の匂いがした。石鹸と蝋と、祈りの匂い。カラヴァッジョの匂いが、この衣服の匂いに変わったわけではなかった。衣服の匂いがカラヴァッジョの匂いの上に重なっただけだった。下にはいつもの匂いがあった。剣の鉄の匂いが、修道服の下にあった。


 コルナッキアはもちろん式典には入れなかった。大聖堂の外で待った。石段の上で丸くなり、中から漏れてくる声を聞いた。ラテン語の誓いの声。騎士団の掟を受け入れる声。カラヴァッジョの声が他の声に混じって聞こえた。低い声だった。言葉の内容は犬には聞き取れなかったが、声の調子はわかった。緊張していた。しかし恐怖ではなかった。希望の匂いがまだ彼の体から立ち上っていた。


 一ヶ月が経った。


 マルタの日差しは強かった。石灰岩の壁が日差しを反射し、街全体が白く光っていた。コルナッキアは日中、建物の影を渡り歩いて過ごした。老いた体には直射日光が辛くなっていた。水を飲む回数が増えた。昼寝の時間が長くなった。以前なら半日走り回れた体が、午前中の散歩だけで疲れた。足の裏の肉球が乾燥してひび割れた。マルタの石畳はローマの石畳より粗く、老いた肉球には痛かった。


 カラヴァッジョは騎士としての生活に馴染もうとしていた。修道服を着て、騎士団の食堂で食事をし、他の騎士たちと共に祈りの時間を過ごした。教会に入れなかったこの人が、修道士として教会の中にいた。


 瞳はその姿を遠くから見ていた。

 犬は教会の中には入れなかった。


 しかし入口の隙間から、主人の修道服の背中が見えた。他の騎士たちと並んで座り、頭を垂れている背中。祈っているのか、祈りの真似をしているのか、犬にはわからなかった。しかし匂いは読めた。風に乗って教会の中から漂ってくるカラヴァッジョの匂いには、蝋燭の蝋と古い石の匂いが混じっていた。教会の匂いを体に染み込ませている匂い。


 しかし夜になるとアトリエに戻り、絵具の匂いの中にいた。修道服を脱ぎ、汚れた作業着に着替え、筆を持った。騎士の匂いと画家の匂いが、一日の中で交互に入れ替わった。二つの人間が一つの体の中に同居していた。


 そしてある夜、匂いが変わった。


 前触れが、今回はなかった。パスクァローネの夜やトマゾーニの朝のような計画の匂いはなかった。金属的なアドレナリンの匂いが、突然、何の予告もなく爆発した。


 コルナッキアは宿舎の部屋で眠っていた。真夜中の深夜だった。遠くで怒号が聞こえた。金属がぶつかり合う音。甲冑の軋む音。走る足音。そして血の匂い。風に乗って、血の匂いが届いた。


 カラヴァッジョの匂いがその中にあった。


 コルナッキアは飛び起きた。老いた脚が床を蹴った。関節が軋んだ。扉は閉まっていた。開けられなかった。犬の体では取っ手に届かなかった。扉の前で吠えたが誰も来なかった。


 瞳はこの事件を予知できなかった。美(・)術(・)史(・)の(・)資(・)料(・)に(・)詳(・)細(・)が(・)な(・)い(・)か(・)ら(・)だ(・)っ(・)た(・)。カラヴァッジョがマルタで高位の騎士を襲撃した事件。理由も経緯も、資料にはほとんど記録されていない。


 瞳が知っているのは結(・)果(・)だけだった。


 カラヴァッジョが投獄されること。

 そして脱獄すること。


 しかし犬の体で、扉の向こうの混乱を聞いているだけの瞳には、何が起きているのかわからなかった。初めてだった。未来を知っているはずなのに、今この瞬間に何が起きているのかわからない。怒号と金属音と血の匂いの中に、カラヴァッジョの匂いが混じっている。生きているのか。怪我をしているのか。今、何が起こっているのか。


 扉の前で吠え続けた。声が枯れて、老いた喉が痛んだ。それでも吠え続けた。


 夜明け前に足音が来た。扉が開いた。修道士だった。カラヴァッジョではなかった。修道士がコルナッキアを見下ろし、何か言った。犬を追い出そうとした。手を振って威嚇した。


 コルナッキアは動かなかった。歯を剥いて唸った。修道士の手の匂いを嗅いだ。この手にカラヴァッジョの匂いはなかった。この男は主人を知らない。主人がどこにいるのか、この男は教えてくれない。


 別の修道士が来て、犬に水を差し出した。コルナッキアは水を飲まなかった。主人の匂いを追わなければならなかった。


 しかし匂いは途切れていた。カラヴァッジョの匂いが、この建物のどこにも流れていなかった。連れ去られたのだ。別の場所に。


 数日後、断片的な情報が犬の耳に入った。修道士たちの会話の中に、カラヴァッジョの名前が出た。「地下」「牢」「裁判」という言葉が聞こえた。


 地下牢。


 コルナッキアは建物の中を歩き回った。石の廊下を鼻で探った。カラヴァッジョの匂いの残り香を追った。廊下の壁の角に、わずかに匂いが残っていた。連行されるとき、壁に肩が触れたのだろう。その匂いを追って、地下に降りる階段を見つけた。暗い階段を降りた。老いた脚で、一段ずつ慎重に降りた。以前なら駆け降りた階段を、今は手探りのように降りた。


 地下の匂いは冷たかった。湿った石と鉄錆の匂い。古い血の匂い。何人もの人間がここに鎖で繋がれた匂いが、壁に染みついていた。


 鉄格子があった。その向こうに、暗闇があった。犬の夜の目が暗闇の中を探った。奥に人影があった。壁に背をつけて座っている人影。


 カラヴァッジョの匂いがあった。リンシード油と鉄と汗。しかしその上に、新しい匂いが重なっていた。古い石壁の匂い。鉄格子の匂い。閉じ込められた人間の匂い。そして恐怖の匂い。酸っぱい汗の匂い。かつての傲岸な態度が完全に消えた匂い。


 コルナッキアは冷たい鉄格子の前に座った。鼻を格子の隙間に押し込んだ。鉄は冷たく、格子の隙間は犬の頭すら通らなかった。


 奥の人影が動いた。顔が上がった。

 暗闇の中で、犬と男の目が合った。


 カラヴァッジョの口が暗闇の中で動いた。声は犬の耳にも聞こえなかった。あるいは聞こえたが、犬の耳が拾えないほど小さかった。しかし犬の夜の目には唇の動きが見え、犬の名前を呼んでいることだけはわかった。


 コルナッキアは冷たい鉄格子の前から動かなかった。翌朝、修道士が降りてきて犬を追い払おうとした。コルナッキアは唸り声を上げた。修道士は舌打ちをして階段を上がっていった。


 犬は動かなかった。

 鉄格子の冷たさが鼻に伝わった。

 格子の向こうの暗闇に、主人がいた。

 手の届かない場所に。

 声の届かない場所に。

 犬の体温が届かない場所に。


 筆。キャンバス。テレピン……


 アンカーが途切れた。三番目が出てこなかった。テレピン、の後が続かない。油。テレピン油。出た。しかし「東京」が出なかった。東京が何だったか、一瞬わからなかった。場所の名前だ。遠い場所の名前だ。海を越えた先にある、今はない場所。島国の中の、大きな街。しかしその街の匂いが思い出せなかった。ローマの匂いは覚えている。ナポリの匂いも覚えている。マルタの匂いも。しかし東京の匂いが消えていた。蛍光灯の匂い。アスファルトの匂い。地下鉄の匂い。名前は浮かぶのに、匂いが浮かばなかった。


 父(・)さ(・)ん(・)。


 最後の一語だけが、他のどの言葉よりも速く出た。

 父さん。

 この言葉だけは、犬の体の中でも消えなかった。

 匂いも一緒に来た。

 味噌汁の匂い。

 台所の匂い。

 ただ一つだけ、どうしても消えない匂いが残っていた。


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