第十五章 剣を研ぐ
その朝、コルナッキアは匂いで目を覚ました。
鉄の匂い。鉄粉の匂い。研石に水をかけた匂い。金属が石の上を滑る、かすかな高周波の音。犬の耳にだけ聞こえる音だった。
目を開けた。アトリエの窓から朝の光が差し込んでいた。黒い布は調整されていなかった。制作の朝ではなかった。カラヴァッジョはテーブルの前に座り、剣を膝に乗せて刃を研いでいた。
研石の上を滑る刃の音。規則的で、ゆっくりで、丁寧だった。研ぐたびに鉄の匂いが立ち上った。砥石の水に鉄の粉が混じり、灰色の水が刃の表面を流れた。
コルナッキアは寝台の脇から動けなかった。
この音を知っていた。この匂いを知っていた。剣の手入れはカラヴァッジョの日課だった。しかし今朝の手入れは日課ではなかった。匂いが違った。カラヴァッジョの体から、あの匂いが立ち上っていた。
暴力の予兆の匂い。
金属的で酸味のあるアドレナリンの匂い。
しかし今朝の匂いはいつもと違った。いつもの暴力の匂いは突然来て突然去る。今朝の匂いはずっとそこにあった。起床前からあった。おそらく昨夜の睡眠中からあった。寝ている間もこの匂いが出続けていたことになる。つまり、決意が寝ている間も解けなかったということだった。
計画的な匂いだった。パスクァローネの夜と同じ匂い。しかしあの夜よりも深く、静かで、揺るぎなかった。
今日だ。
瞳の中で、美術史の知識が叫んだ。一六〇六年五月二十八日。この日が来たのだ。ローマの路上でラヌッチョ・トマゾーニと対峙し、殺害する日。カラヴァッジョの人生を二つに折る日。この日の前と後で、すべてが変わる。
日付を正確に知ることはできなかった。犬の体には暦がない。しかし昨夜、ロンギがアトリエを訪ねてきたとき、話の中に「明日の午後」と「カンポ・マルツィオ」という言葉が出た。トマゾーニの名も出た。あの匂い。マダマ宮の階段ですれ違ったときに嗅いだ、あの甘ったるく腐敗した匂いの男の名前。
コルナッキアは今朝の空気の中に、昨夜のロンギの匂いの残り香を嗅いだ。安い葡萄酒と石灰と、武器の油。ロンギも武器を持ってきていた。二人で確認していた。
扉を叩く音がした。カラヴァッジョが立ち上がり、扉を開けた。ロンギが入ってきた。もう一人、知らない男がいた。軍服の匂い。鉄と革と火薬の匂い。三人は低い声で話し合った。言葉の断片がコルナッキアの耳に入った。
場所。時刻。相手の人数。退路。
これは決闘の準備だった。双方が人数を揃え、武器を準備し、場所を決めて対峙する。パスクァローネの夜のような闇討ちではなかった。しかしそれは瞳にとって何の慰めにもならなかった。結果を知っている。トマゾーニは死ぬ。カラヴァッジョは殺人者になる。
コルナッキアは立ち上がった。
四本の脚が床を踏んだ。カラヴァッジョの足許に寄り、彼の長靴に鼻を押し当てた。匂いを確認した。もう決まっている。この匂いは止められない。パスクァローネの夜に犬を連れなかったのと同じように、今日もこの男は犬を置いて出ていく。
コルナッキアは吠えた。
短く鋭い声ではなかった。長く、低い声だった。喉の奥から絞り出すような声だった。カラヴァッジョが犬を見下ろした。ロンギも振り返った。
「どうした」
カラヴァッジョが訊いた。コルナッキアはカラヴァッジョの袖を咥えた。歯が布に食い込んだ。引っ張った。後ろに。扉から離れる方向に。アトリエの中にいろ。外に出ていくな。
カラヴァッジョは犬の口から袖を外そうとした。コルナッキアは離さなかった。歯を食い込ませ、首を振って引っ張った。布が裂ける音がした。
ロンギが笑った。
「犬が止めてるぞ」
カラヴァッジョは笑わなかった。犬を見下ろしていた。コルナッキアの目を見ていた。犬の目の中に何を見たのか、瞳にはわからなかった。しかしカラヴァッジョは数秒間、犬の目を見つめていた。
コルナッキアは袖を離した。代わりにカラヴァッジョの長靴に体を押し付けた。全体重を長靴にかけ、動けないようにした。成犬の体重は子犬の頃とは違った。カラヴァッジョの足が一瞬止まった。
しかし止まったのは一瞬だった。カラヴァッジョは犬を跨ぎ、扉に向かった。
コルナッキアは扉の前に走った。扉と主人の間に体を入れた。四本の脚でしっかりと床を踏みしめ、扉の前に立ちはだかった。
出さない。
ここから出さない。
この扉の向こうには死がある。あの男の死と、この人の人生の死《終わり》が。犬の体が震えていた。恐怖ではなかった。力だった。渾身の力で扉の前に立っていた。
カラヴァッジョは足を止めた。犬を見下ろした。ロンギが口を開きかけたが、カラヴァッジョが手を上げて制した。
それから屈み込んで、コルナッキアの頭を両手で包んだ。大きな手だった。筆を持つ手。剣を持つ手。犬の腹を撫でる手。パスクァローネの背中を斬った手。同じ手が、犬の頭を優しく包んでいた。
「待ってろ、すぐ戻る」
声は穏やかだった。嘘の匂いはなかった。この人は本当にすぐ戻るつもりでいた。殺すつもりで出ていくのではなかった。決闘に勝って戻るつもりだった。相手を殺す計画ではなかった。しかし瞳は知っていた。計画通りにはいかないことを。大腿部を狙った剣が、致命傷になることを。
カラヴァッジョはコルナッキアを扉の脇にそっとどかし、扉を開けた。ロンギと軍人が先に出た。カラヴァッジョが続いた。
扉が閉まった。
足音が階段を降りていった。三人分の足音。革の長靴。金属の剣。石段を踏む音が遠ざかり、中庭を横切り、門の開く音がして、消えた。
コルナッキアは閉まった扉の前に座った。
動かなかった。
瞳は犬の体の中で、知っていることの重さに押し潰されていた。この扉の向こうで、今から起きることを知っていた。止められなかった。犬の口は言葉を持たない。犬の体は扉を開けられない。吠えた。袖を咥えた。体を押し付けた。扉の前に立ちはだかった。できることはすべてやった。何一つ効かなかった。
未来を知っていることの絶対的な無力さ。知識は力ではなかった。知識は苦痛だった。知っていて何もできないことの苦痛が、渦を巻いていた。
美術史の教科書には、この日の出来事が数行で書かれている。
「一六〇六年五月二十八日、カンポ・マルツィオにおいて球技の賭けを巡る口論から、カラヴァッジョはラヌッチョ・トマゾーニを殺害した」
たった数行だった。百年以上の研究がこの事件に費やされ、動機の分析、傷の位置の検証、双方の介添人の特定が行われてきた。しかしその研究のどれも、この朝の剣を研ぐ音を知らなかった。砥石の水に鉄の粉が混じる匂いを知らなかった。犬が扉の前に立ちはだかったことを知らなかった。
歴史は結果を記録する。過程を記録しない。この朝の沈黙を、誰も記録しない。
筆。キャンバス。テレピン油。東京。父さん。
単語を並べようとした。しかし今日は並ばなかった。最初の「筆」が出てきた後、次が続かなかった。「キャンバス」の代わりに、研石の上を滑る刃の音が頭の中で鳴っていた。頭の中が白かった。恐怖で白くなった。犬の恐怖と人間の恐怖が区別できなくなっていた。主人が危険な場所に行った恐怖と、歴史上の殺人が目の前で起きようとしている恐怖が、同じ体の中で同じ震えになっていた。
コルナッキアは扉の前で丸くなった。鼻を前脚の間に埋め、目を閉じた。帰ってこい。すぐ戻ると言っただろう。すぐ。
待った。
犬は待つことしかできなかった。
時間が過ぎた。光の角度で時間を測った。窓の隙間から差し込む光の線が、床の上をゆっくりと移動していった。朝の光が昼の光に変わった。光の角度が高くなり、部屋の中に入る光が短くなった。
昼を過ぎた。コルナッキアは扉の前から動かなかった。水を飲みに行かなかった。空腹も感じなかった。犬の体が食事を拒否していた。主人が戻るまで食べない。これは犬の本能だったのか、瞳の意志だったのか。もうどちらでもよかった。
午後の光が傾き始めた。扉の隙間から差し込む細い光の線が、床の上を右に移動していった。あの光。カラヴァッジョがコンタレッリ礼拝堂のために見つけた光と同じ角度の光が、今は空のアトリエに差し込んでいた。その光の中に、誰もいなかった。テーブルの上には研石と水が残っていた。鉄の粉が水の中に沈んで、灰色の沈殿物になっていた。
外から音が聞こえた。遠くの怒号。犬の耳はローマの街の雑踏の中から、何かが起きた後の興奮の音を拾った。走る足音。叫び声。しかしそれがカラヴァッジョに関係するものかどうかはわからなかった。ローマでは毎日どこかで誰かが走り、誰かが叫んでいた。
日が傾いた。アトリエが暗くなっていった。コルナッキアは扉の前で丸くなったまま、目を閉じては開き、閉じては開いた。眠りたくなかった。眠ったら、扉が開く音を聞き逃すかもしれなかった。
しかし体が疲れていた。一日中の恐怖で疲れていた。ずっと緊張していた筋肉が、夕方になってこわばり始めた。犬の体は、この種の精神的緊張に長時間耐えるようにできていなかった。人間の頭は恐怖を何時間でも維持できるが、犬の体は恐怖を体の緊張に変換するので、筋肉が先に限界に達する。
夜になった。蝋燭に火をつける者がいない。アトリエは完全な暗闇に沈んだ。犬の夜の目が闇の中のわずかな光を捉えた。窓の黒い布の隙間から、月の光が細く漏れていた。研石の水面が月光を反射して、かすかに光っていた。
足音。
コルナッキアの耳が跳ね上がった。体が跳ね起きた。階段を上がってくる足音。一人ではなかった。複数の足音。慌ただしかった。しかしその中に、聞き覚えのあるリズムがあった。不規則で、重い。片方の足を引きずっている。あの歩き方はカラヴァッジョの足音だった。しかしいつもの足音ではなかった。何かが壊れた足音だった。
そして匂い。階段の下から、匂いが上がってきた。
血の匂い。
扉が開いた。




