第十四章 背後の刃(やいば)
一六〇五年。瞳はその年号を正確には知らなかったが、季節の匂いと、ローマの街の空気の変化から、かなりの年月が経ったことはわかっていた。コルナッキアの体が成犬として完全に成熟し、子犬の頃の弾力がなくなっていた。関節が朝方にこわばるようになり、長い階段を駆け上がった後の息の戻りが遅くなっていた。
カラヴァッジョも変わっていた。ローマの画壇で彼の名を知らない者はいなくなっていた。コンタレッリ礼拝堂の後、チェラージ礼拝堂の装飾も手がけ、教会からの大型注文が続いていた。
金があった。
名声があった。
パトロンがいた。
しかしカラヴァッジョの匂いは、数年前と変わっていなかった。リンシード油と鉄と汗。服は良い布になったが、着方は変わらなかった。剣はより良い鋼に変わったが、帯びる習慣は変わらなかった。夜の路地に出る頻度も変わらなかった。枢機卿の晩餐会よりも、安い居酒屋を好む男のままだった。
ただ暴力の匂いが立ち上がる速度だけが、確実に速くなっていた。
ある夜、カラヴァッジョは一人で出かけた。犬を連れていかなかった。珍しいことだった。いつもはコルナッキアを連れて夜の街に出るのに、この夜は「お前はここにいろ」と言った。声が硬かった。集中の匂いでも暴力の匂いでもない。計画の匂いだった。何かを決めて、そこに向かっている人間の匂い。体温は平常だが、心拍がわずかに速い。自分がこれからすることを、体が予知している匂い。
コルナッキアはアトリエの扉の前に座った。待った。
深夜。足音が戻ってきた。いつもの足音ではなかった。速かった。走っていた。革の長靴が石畳を叩く音。剣が腰で暴れる金属音。息が荒い。
扉が開いた。カラヴァッジョが入ってきた。暗闘の中で、犬の目が彼の姿を捉えた。
右手に剣を持っていた。刃に何かがついていた。匂いでわかった。血だ。血の匂い。しかしカラヴァッジョ自身の血ではなかった。別の人間の血だった。
カラヴァッジョは剣をテーブルに置き、水差しの水で手を洗った。水が血で汚れた。鉄と水が混じる匂いが部屋に広がった。
コルナッキアは動かなかった。扉の前に座ったまま、カラヴァッジョを見ていた。
瞳は翌日になって事件の概要を知った。カラヴァッジョの周囲の人間の会話を、犬の耳で聞いた。断片的な情報を組み合わせた。
オルシがアトリエを訪ねてきた。声を落として話していた。しかし犬の耳には全て聞こえた。娼婦レーナを巡る争い。公証人パスクァローネが何かを言った。それがカラヴァッジョの名誉を傷つけた。レーナはカラヴァッジョのモデルでもあった。彼女の名前が侮辱的な文脈で使われたことに、カラヴァッジョが報復した。
しかしオルシの言葉の中に、もう一つの情報があった。
背後から。
カラヴァッジョは夜、パスクァローネの後をつけ、背後から剣で斬りつけた。
この話が瞳の中に刺さった。決闘ではなかった。待ち伏せだった。名誉の文化の中でさえ、背後からの斬りつけは最も卑怯な行為だった。正面から剣を抜き、相手の目を見て斬るのではなく、暗闇の中で背中を狙った。相手に剣を抜く暇を与えなかった。
オルシはカラヴァッジョに言った。
「枢機卿が処理する。ジェノヴァに少し身を隠せ。すぐ戻れる」
カラヴァッジョは頷いた。逃亡は手慣れていた。コスタンツァ・コロンナの名前が出た。デル・モンテ枢機卿の政治力で告訴を取り下げさせる手筈が進んでいた。この世界では、パトロンの力が法を超える。
しかし瞳の意識は、政治的な処理の話を聞いていなかった。「背後から」という言葉だけが頭の中で回っていた。
それまで瞳は、カラヴァッジョの暴力をある種の枠組みの中で理解しようとしてきた。アーティチョーク事件は衝動だった。路上での口論は名誉文化の延長だった。
しかしこれは違った。
計画的で、卑怯で、暗い。
「犬を連れていかなかった」のは、犬に見せたくなかったのか、あるいは犬の存在が邪魔になると計算したのか。どちらにしても、この人は分かっていた。これが恥ずべき行為だと分かっていて、それでもやった。
瞳の体が硬直した。毛が逆立ち、四肢が震えた。カラヴァッジョの方を見ることができなかった。暴力の匂いへの恐怖ではなく、この人の中にある闇への恐怖。
教科書の中のカラヴァッジョと目の前のカラヴァッジョの間にはずっとギャップがあった。しかしこれまでのギャップは「実物の方が人間的だった」という方向のものだった。フォークが使えない。方向音痴だ。犬に芸を仕込むときは忍耐強い。しかし今、目の前にいるのは、闇の中で人の背中を斬る男だった。
その夜。
カラヴァッジョはアトリエで椅子に座っていた。剣は洗って拭いたが、まだテーブルの上にあった。蝋燭の光が剣の刃を照らし、金属が光を反射していた。
カラヴァッジョがコルナッキアに手を伸ばした。犬の頭を撫でようとした。
コルナッキアは身を引いた。
反射的だった。体が先に動いた。カラヴァッジョの手が伸びてきたとき、犬の体が自動的に後ずさった。首を縮め、体を低くし、手の届かない距離に退いた。尻尾が脚の間に巻き込まれた。耳が後ろに倒れた。恐怖の姿勢だった。この体がこの姿勢を取るのは初めてだった。カラヴァッジョに対して、初めてだった。
カラヴァッジョの手が空を切った。
一瞬、彼の顔に表情が走った。犬の目からは正確に読み取れなかったが、匂いでわかった。体温がわずかに変化し、心拍が一拍だけ乱れた。傷ついた匂いだった。自分の犬が自分を怖がっている。その事実が、この男の中の何かを打った。短く、かすかな匂い。すぐに消えた。彼は何も言わず、手を膝に戻した。視線を犬から外し、壁を見た。
数分が経った。
コルナッキアは立ち上がり、自分からカラヴァッジョの足許に戻った。彼の長靴に鼻を寄せ、体を寄せた。
なぜ戻ったのか。犬の忠誠心だったのか。瞳の意志だったのか。恐怖が消えたのか。消えていなかった。恐怖は残っていた。人の背中を斬る男の手が、自分の頭を撫でようとした。その手から逃げた。しかし逃げた先に行く場所がなかった。この部屋には出口が二つしかなかった。扉と、この男の足許と。瞳は扉を選ばなかった。恐怖が残ったまま、体が足許に戻った。恐ろしい男の足許に、自分から戻った。
この区別がつかなくなっている。犬の本能なのか、瞳の選択なのか。恐怖しながらも離れられないのは、犬としての刷り込みなのか、人間としての何かなのか。その境界が曖昧になっていること自体が、瞳を恐怖させていた。犬化の恐怖ではなかった。もっと深い恐怖だった。自分が何者であるかわからなくなることへの恐怖。
カラヴァッジョはコルナッキアが足許に戻ったことに気づいたが、手を伸ばさなかった。犬の頭を撫でなかった。二人……一人と一匹は蝋燭の明かりの中で、触れ合わずにしばらく隣にいた。
犬の耳には主人の心拍が聞こえていた。乱れていた。いつもの安定した拍動ではなかった。背中を斬った男の血を洗い流した後の、夜更けの心拍だった。
筆。キャンバス。テレピン油。東京。父さん。
瞳の頭の中で、日本語の単語が並んだ。初めてだった。意識的に自分に言い聞かせる必要を感じたのは、初めてだった。自分が何者であるかを忘れないために。犬ではない。画家だ。東京に父がいる。テレピン油の匂いを知っている。筆を持てる手がある。ここではない場所に、私の手がある。
しかしその単語を並べている間にも、犬の体はカラヴァッジョの足許にあった。長靴の革に鼻を押し当て、彼の体温を感じていた。恐ろしい男の足許。しかし温かい足許。この矛盾が、今の瞳のすべてだった。
筆。キャンバス。テレピン油。東京。父さん。
もう一度並べた。二度目は少し楽だった。単語が自分の中に杭を打つように刺さり、「布袋瞳」という名前が浮かんできた。まだ大丈夫だ。まだ自分の名前がわかる。まだ人間だ。
蝋燭の光が揺れた。カラヴァッジョの影が壁に映った。その影は大きく、暗く、剣を帯びた男の輪郭を壁に描いていた。コルナッキアの影はその足許に小さく丸まっていた。二つの影が壁の上で重なり、離れ、また重なった。
明日になれば、この人はまた筆を取るだろう。人の背中を斬った手で、聖人の目を描くだろう。暴力と創造が同居するこの人の傍に、犬は明日もいるだろう。恐怖しながらも離れない犬として。
それが犬の宿命なのか、瞳の選択なのか。もう問うことに意味はなかった。
それからの日々は、静かに過ぎた。パスクァローネ事件はデル・モンテ枢機卿の政治力で処理された。カラヴァッジョは短い逃亡の後にローマに戻り、制作を再開した。コルナッキアは最初の数日、撫でようとする手から身を引き続けた。しかし日が経つにつれ、その距離が縮まっていった。体が先に許した。手が伸びてきたとき、逃げる代わりに目を閉じた。恐怖は消えなかった。しかし恐怖と共にいることに慣れた。




