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【女性画家中世転生譚】ゴリアテの犬 ~天才画家カラヴァッジョと生きた十五年~  作者: 霧崎薫


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第十二章 フィッリデのナイフ、娼婦の祈り

 女の匂いがアトリエに入ってきた。扉が開く前に、まず匂いが先に来た。


 花の香油の匂いが最初に来た。その下に汗と、日に焼けた肌と、安い石鹸の匂い。髪から漂う獣脂の蝋の匂い。そしてもう一つ、コルナッキア(わたし)の鼻が捉えたのは、身体の奥底から立ち上る匂い、人間の体が持つ一番深い場所の匂いだった。女の匂い。瞳は犬の嗅覚で、初めて人間の性別を匂いとして知覚した。男と女は匂いが違う。当然のことを、犬の鼻が教えた。


 フィッリデ・メランドローニは部屋の入口に立ち止まって、アトリエを見回していた。背が高い女だった。体格が堂々としていて、扉の枠に肩が触れそうだった。髪は豊かで、巻いた毛先が肩に落ちていた。犬の目にはくすんだ黄色に見えた。しかし光が当たると、その黄色の中に犬の目では名前をつけられない色が混じった。灰色に近いが、灰色とは違う。温度を持った灰色。人間の目で見ればそれが何色なのか、瞳は推測した。おそらく赤みがかった金色だろう。犬の目には見えない色が、この女の髪の中で光っていた。


 カラヴァッジョはフィッリデを椅子に座らせた。窓の布を調整し、光を彼女の顔に当てた。彼女の顔の右半分が光に入り、左半分が影に落ちた。いつもの分割だった。しかしフィッリデの顔の上では、光と影の境界が男のモデルのそれとは違って見えた。頬の丸みが影の輪郭を柔らかくし、唇の厚みが光を溜めていた。


 カラヴァッジョはナイフを受け取った。刃渡りの長い、台所で肉を切るための鉄のナイフだった。柄は木で、使い込まれて黒ずんでいた。それをフィッリデに差し出した。


「持て」


 フィッリデはナイフを受け取った。柄を握り、刃を前に向けた。


「もっと力を込めろ。本当に殺すつもりで握れ」


 フィッリデの指が柄の上で白くなった。握り締めた。しかし腕が震えていた。肘から先が小刻みに揺れていた。


 コルナッキアの鼻に匂いが来た。恐怖の匂い。酸っぱい汗の匂い。フィッリデの脇の下から立ち上る、急激な発汗の匂い。彼女は怖がっていた。ナイフそのものが怖いのか、「本当に殺すつもりで」と言われたことが怖いのか、あるいはこの男の目が怖いのか。おそらくすべてだった。


 カラヴァッジョは筆を取った。フィッリデの顔を見つめながら、カンヴァスに筆を走らせた。恐怖で歪んだ顔を、そのまま描いていた。ポーズを直させなかった。震える腕を止めなかった。恐怖の表情をそのまま筆で拾い上げていた。


 瞳は犬の身体でそれを見ていた。あの恐怖は演技ではない。画家が「もっと怖がった顔をしろ」と指示して作られた表情ではない。本物の恐怖だ。この人は本物のナイフを持たせて、本物の恐怖を引き出し、その恐怖をカンヴァスに写し取っている。


 ユディトがホロフェルネスの首を切る場面。聖書の物語の中の暴力を描くために、この男はモデルの中に本物の暴力を喚起している。画面の中の恐怖を本物にするために、画面の外の恐怖も本物にしている。


 しかし瞳の目は同時に別のことも見ていた。カラヴァッジョの筆が追いかけているのは恐怖だけではなかった。フィッリデの腕の筋肉が緊張し、ナイフを握る手の関節が白くなっている。その腕には力があった。恐怖の中にある力。嫌悪の中にある意志。このナイフを実際に振り下ろすことができる女だ、とカラヴァッジョは見ている。怖がりながらも退かない女。聖書のユディトがそうであったように、恐怖を超えて行動する女。カラヴァッジョが描いているのは弱い恐怖ではなく、強い恐怖だった。行動を止めない恐怖だった。


 フィッリデの目が動いた。カラヴァッジョを見た。その目は怯えていたが、同時に怒ってもいた。自分を怖がらせている男への怒り。その怒りがユディトの目に重なった。カラヴァッジョの筆がさらに速くなった。


 休憩になった。フィッリデはナイフをテーブルに置き、椅子の背にもたれた。額に汗が浮いていた。カラヴァッジョは筆を洗い、パレットの絵具を整理していた。二人の間に会話はなかった。


 コルナッキアがフィッリデの足許に近づいた。彼女の長い裾の匂いを嗅いだ。裾の端に泥がついていた。朝の通りを歩いてきた泥だった。石鹸と汗と、まだ残っている恐怖の匂い。


 フィッリデは犬を見下ろした。それから手を伸ばし、コルナッキアを膝の上に持ち上げた。犬の巻き毛を指で梳いた。髪を整えるような仕草だった。指先が犬の耳の裏を撫で、首筋をなぞった。


「あんたはいいね、誰(・)に(・)も(・)顔(・)を(・)覚(・)え(・)ら(・)れ(・)な(・)く(・)て(・)済(・)む(・)」


 声は低く、独り言のようだった。犬に向かって言っていた。犬だから聞いてもいい言葉だった。人間には言えない言葉だった。


 瞳はフィッリデの膝の上で、その言葉を聞いていた。この女は「顔を覚えられること」を恐れている。カラヴァッジョの絵によって、自分の顔が永遠に記録されることを恐れている。聖母の顔として飾られたこの顔を、客が見れば誰だかわかる。娼婦の顔が聖母の顔として祭壇にかけられている。それは名誉ではなく危険だった。商売の場所から教会の場所へ、彼女の顔が許可なく移動させられている。


 フィッリデの指が犬の毛を梳き続けた。指先が器用だった。荒れた手だった。労働の手。爪は短く切り揃えてあり、指の腹に古い傷跡があった。日に焼けた腕。聖母のモデルとしてポーズをとるとき、この手がカンヴァスに入ることをカラヴァッジョは拒否しない。理想化された聖母の白い手ではなく、この荒れた手がそのまま描かれる。


 犬の体が温かかった。フィッリデの膝の温もりが腹に伝わっていた。彼女の心拍が聞こえた。落ち着いた拍動。ナイフを握っていたときとは違う、休息の心拍。瞳は犬の体の中で、この温もりに抗えなかった。フィッリデの指が毛を梳くたびに、体が弛緩していく。この女を好きになっている、と瞳は思った。犬としてか、女としてか。犬の膝の上に乗る安心感は犬のものだった。しかしこの女が抱えている恐怖への共感は、瞳のものだった。


 別の日。


 フィッリデが聖母のポーズをとっていた。青い布を肩にかけ、腕に見えない幼子を抱く姿勢をとっていた。光が彼女の顔を照らしていた。


 カラヴァッジョが筆を走らせていた。フィッリデが口を開いた。


「私の顔をそのまま描くな。もっと綺麗にしろ」


 カラヴァッジョは筆を止めなかった。目だけをフィッリデに向けて答えた。


「お前の顔はこれが一番美しい」


「綺麗にしろと言っているんだ」


 フィッリデの声が硬くなった。ポーズを崩して、カラヴァッジョを睨んだ。


「客が見たら私だとわかるだろう。聖母の顔が娼婦だとわかったら、誰が礼拝する?」


 カラヴァッジョは筆を置いた。パレットをテーブルに下ろし、フィッリデの顔を見つめた。長い沈黙があった。アトリエの空気の中で、テレピン油の匂いだけが揮発していた。


「お(・)前(・)の(・)顔(・)で(・)祈(・)れ(・)な(・)い(・)奴(・)は(・)、(・)そ(・)も(・)そ(・)も(・)祈(・)る(・)資(・)格(・)が(・)な(・)い(・)」


 フィッリデは黙った。怒りとも感動ともつかない表情で、カラヴァッジョを見返した。二人の視線が交差し、どちらも逸らさなかった。


 コルナッキアは床の上から二人を見上げていた。


 瞳はこのやり取りに引き裂かれていた。カラヴァッジョは女性を「ありのまま」描くことで、彼女の存在を肯定しようとしている。お前の顔で祈れない奴は祈る資格がない。それは彼女の尊厳を守る言葉だった。


 しかし同時に、フィッリデの「身許がバレたくない」という切実な訴えを、この男は無視していた。芸術的な真実が、モデルの人生の安全より優先されている。真実への執着が、ここでは暴力になっていた。


 瞳は現代の画家だった。しかも女性の画家だった。自分の体が芸術の素材として他人の目にさらされることの重さを知っていた。ロンドン留学中、ヌードデッサンのモデルを務めた女性と話したことがある。モデルは「描かれている間、自分の体が自分のものではなくなる感覚がある」と言った。


 フィッリデの体はカラヴァッジョのカンヴァスの上で永遠になる。しかしそれはフィッリデが望んだ永遠ではない。描かれることに同意はしていても、選ぶ権利はなかった。どのように描かれるか。どの顔で、どの手で、どの傷で記録されるか。それを決めるのは画家であって、モデルではなかった。


 しかし同時に、瞳は画家としてカラヴァッジョの選択の意味もわかっていた。フィッリデの「理想化されない美しさ」をそのまま聖母として描くこと。それは四百年後の美術史が「革命」と呼ぶことになる選択だった。聖母は天上の存在ではなく、この通りを歩き、この空気を吸い、この労働で手を荒らした女だ。その選択が宗教画の歴史を変えた。


 しかしその革命は、フィッリデの同意なしに行われた。


 コルナッキアはフィッリデの足許に座り、彼女の裾の匂いを嗅いでいた。恐怖の匂いは消えていた。代わりに、もっと複雑な匂いがあった。名前のつけられない匂い。怒りでも悲しみでもなく、自分の運命を受け入れながら同時に抵抗している人間の匂い。


 フィッリデはポーズに戻った。青い布を肩にかけ直し、目を伏せた。聖母の目になった。その目は怒っていた。怒りながら祈っていた。いや、祈りながら怒っていた。どちらが先なのかは、たぶんフィッリデ自身にもわからなかっただろう。


 瞳はその目を見上げた。犬の目の高さから見上げる聖母の顔は、祭壇画としての構図そのものだった。見上げる者と見下ろす者。祈る者と祈られる者。犬が見上げる女の顔が、四百年の間、世界中の人間が見上げることになる聖母の顔だった。


 カラヴァッジョが筆を取り直した。集中の匂いがアトリエに広がった。フィッリデの怒りと祈りが混ざった目を、この男はそのまま描くのだろう。綺麗にはしない。そのまま。この顔で祈れない奴は、祈る資格がない。


 コルナッキアは床の上で体を丸めた。フィッリデの足の横で、聖母と画家の間の沈黙を聞いていた。筆がカンヴァスを叩く音だけが、その沈黙の中で鳴り続けた。


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